黄鶯睍睆その五 梅林で


「なん、じゃと!」


 恵姫は驚きの声をあげました。お福の取った行動があまりにも意外だったからです。


「お福、そなた……」


 両足を揃えて座り、両手の平を地に着けて、お福は深々と頭を下げたのです。何かに恭順するように、何かを謝るように、何かへ懇願するように、ただ背中を丸めて地に平伏したのです。


『抵抗する様子は微塵もない。力は……やはり持ってはいなかったのか』


 お福が顔を上げました。その瞳にはもう何の力も感じられません。己を捨てても願いを聞き届けて欲しいという、ひた向きな意志だけが伝わってきます。


『ああ、わらわは大変な思い違いをしていたのじゃな』


 恵姫は帯の隙間から右手を抜きました。お福と自分とはその立場が全く違う、その事実にようやく気付いたのです。

 浜に行ってしまえば、あの勘のいい磯島のこと、どれほどの隠蔽工作をしようとたちどころに見破ってしまうでしょう。当然、恵姫も、そして監視役のお福も、きつい叱責を受けるはずです。恵姫にとって、それはいつものこと。もう何度も繰り返されて慣れっこになっている日常茶飯事のひとつにすぎません。

 けれども、お福は違います。ここに来てまだ数日、慣れない暮らしの中で叱責を受けたとすれば、それはどれほど辛いことでしょう。そしてそれからの日々がどれほど居心地の悪いものになることでしょう。


『わらわの頭にあるのは己のことだけじゃった。わらわの我儘がどれほどお福を苦しめるか、考えもしなかった』


 自分の仕出かしたことで自分が叱られるのは我慢できます。しかし、自分のために他人が叱られるのを見るのは、恵姫にとって耐え難いことでした。恵姫はお福に近寄ると右手を差し出しました。


「すまなかったな、お福。わらわの意固地がそなたにそのような真似をさせたこと、許して欲しい」


 お福の顔が輝きました。恵姫の右手を取ると、その軽い体をふらつかせながら陽炎のように立ち上がりました。お福の着物に付いた枯草や枯葉を払い落としてやる恵姫。まるで子供の世話をする母親のようです。そうして見詰め合った二人には、もう何のわだかまりもありませんでした。


「では、向かうとするか。目指すは二の丸、梅林じゃ」


 二人は進路を南東に取ると、再び枯れ藪の中を歩き始めました。急ぐ必要はありません。恵姫はゆっくりとお福の歩調に合わせて歩きます。お福も無理をせず恵姫のすぐ後ろを付いて行きます。


「そう言えば、お福。そなたはわらわと羽根突きをしたのか」


 後ろを向くと、お福は首を横に振っています。


「なんじゃ、わらわを負かす絶好の機会じゃったのに」


 また後ろを向くと、お福は困ったように首を傾げています。


「そうか、髷を結って弱っているわらわにさえ、勝てる気がしなかったというわけじゃな。はっはっは」


 また後ろを振り向くと、お福はにっこりと笑っています。もっとも、それは恵姫の強がりでした。内心では『今のわらわではお福にすら勝てぬかもしれぬ。対戦相手が一人少なくて幸運であった』と思っていたのです。


 やがて梅林に着きました。まったく手入れがされていないので下草が生え、枝も長く伸び、一部は枯れている木もあります。それでも白い花がチラホラと咲いて、爽やかな香りが漂ってきます。


「梅は桜と違うて枝を切って世話をせねば良い花も実も付けぬ。さりとて財政逼迫中の当家には、ここの手入れをするだけの余裕はないのじゃ。取れるのは貧相な実ばかり。これだけの梅林を勿体無いのう」


 恵姫とお福は並んで梅林を歩いて行きます。


『良き梅の実が収穫できれば良き梅干しもできよう。そうなれば旨いイワシの梅煮も作り放題、食べ放題になるのにのう。惜しいことじゃ』


 などと頭の中で考えている相変わらず食い気満載の恵姫ですが、お福はキョロキョロと頭を動かしています。生真面目に鶯を探しているようです。


「お福、梅の木に鶯はおらぬよ。奴らが食うのは虫で、花や蜜は食わぬ。梅の木に用はないのじゃ。それに鶯は春になれば里に下りる。ここらの鶯も里に下りておるのかもな」


 恵姫の言葉を聞いてお福の表情は曇りました。が、すぐに気を取り直すと、両手を空へ掲げました。


「ぴぃー、ぴぃー、ぴぃー」


 お福の澄んだ声が梅林に響き渡ります。と、枯れ藪から一羽の鳥が舞い上がりました。鳥はお福の頭上を舞い、二、三度円を描いた後、梅の木に止まりました。


「ケ、ケキョ、ケキョ」


 鶯です。恵姫は驚いて鶯を、そしてお福を見ました。


「お福、これが、これがそなたの力か……」


 お福は首を傾げたままにっこりと笑っています。肯定も否定もしません。その愛らしい表情を見ているうちに、これまで抱いていた靄のような不満は消え、頭上に広がる新年の青空のように心が澄み渡っていくのを、恵姫は感じるのでした。


「うぐいすなく、か……のう、お福よ。今年のわらわの正月三が日はひどいものじゃった。元日から年始の客の相手をし、磯島には厳しく躾けられ、羽根突きではさんざんに打ち負かされ、足は痺れ、頭は重く、浜にも行けず、少しの楽しみも見出せなんだ。じゃがな、今、ここで、そなたのおかげで、ようやく今年の正月を楽しむことができた。心の底から来てよかったと思うた。終わりよければ全てよし。礼を言うぞ、お福」


 恵姫は頭を下げました。まさかそのような事をされるとは思っていなかったお福は、ドギマギしながら自分も頭を下げました。それから二人は顔を上げ、見合ったまま笑いました。


「梅の枝に止まる鶯、初めて見たぞ。良いわざじゃ。しかし、お福の鳥寄せは力と言うには貧弱じゃのう。わらわの従姉妹のくろ姫は、もっと強力な業を持っておる。一度会ってみると良いぞ」


 お願いしますと言うように、礼をするお福。屋敷のある方角から、かすかに太鼓の音が聞こえてきます。


「むっ、もう八つ時か。小腹も減ったし、そろそろ帰るとするか」


 そう言って歩き出した恵姫は、不意に、頭が軽くなるのを感じました。風になびく黒髪。この解放感。ま、まさか……振り向けば、お福が簪を手にして立っています。恵姫は驚愕しました。


「わらわの髷を、髷を解いたのか、お福。なんてことをしてくれたのじゃ。こんなことをしてただで済むと思っておるのか、そなた、磯島の怖さを知らぬな。約束を破ったとあっては叱責だけでは済まぬ。下手をすれば仕置き部屋に閉じ込められ、そこで一日中反省……」


 そこまで言ったところで、お福が包み状を差し出しているのに気付きました。受け取って包みを開くと、一枚のふみが入っています。そこには磯島の字でこう書かれていました。


『恵姫様、これを読んでおられるということは、言い付けをきちんと守られたのですね。浜行きを諦め、お言葉通り梅林に行かれたならば、帰り際に姫様の髷を解くようにと、お福に申し付けておいたのです。この正月三日間、慣れない髷を結われてよく辛抱されましたな。よくお役目を務められましたな。磯島、嬉しゅうございますよ』


 恵姫はようやく理解できました、どうしてお福が腰にしがみつき、地に平伏してまで浜行きを止めたのか。全ては恵姫のためだったのです。そして磯島は見抜いていました。恵姫はお福には逆らえないことを。お福を辛い目に遭わせてまで、自我を押し通すような非情な娘ではないことを。全てを見抜いたうえで、文を持たせお福を同行させたのです。


「またしても磯島の目論見通り事が進んでしまったようじゃな」


 恵姫は苦笑いをしました。けれども、今回ばかりは磯島の策にはまって、本当に良かったと思えるのでした。

 

 こうして恵姫の散々な正月三が日も、お福のおかげで後味良く終わることができたのでした。

 因みに翌四日には、垂れ髪になってすっかり元気を回復した恵姫が、羽子板を手にして城内を駆け巡り、誰彼構わず羽根突き勝負を吹っ掛けては、打ち負かしまくったそうです。磯島の苦労はまだまだ続きそうですね。

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