第三話 うお こおりをいずる

魚上氷その一 七草粥

 

 一月七日は人日じんじつ、一年で最初に巡ってくる節句、そして七草粥を食べる日でもあります。恵姫の城でも慣習にのっとって、この日の食事は七草粥です。


「食い飽きたわ!」


 夕食を出された恵姫は、箸を膳に叩き付けると癇癪を起こしました。膳の上にあるのは粥を入れた椀と香の物、それだけです。


「いくら七草粥の日だからとて、一日中粥ばかりでは力が出ぬ。飯を食わねば戦はできぬと言うじゃろうが」


 恵姫が腹を立てるのも無理はありませんでした。今日の食事は朝も昼も夕も七草粥だったのです。経費節減、それが理由でした。

 喚きたてる恵姫を尻目に、磯島は淡々と答えます。


「それだけ元気があるのなら粥だけで十分でございます。昨年の秋は不作、最近は不漁続き。米以外の作物も実りは乏しく、城下の民も難儀しておるのです。姫様も我慢なさいませ」

「ならば粥は要らぬ。米も要らぬ、香の物も要らぬ。魚だけでいい」


 一日のほとんどを屋敷のある城山で過ごす恵姫にとって、楽しみと言えば午後の浜遊びと食う事と寝る事。今日は雨で浜には行けず、その上、食事までも粗末となれば、人生の三分の二の楽しみを奪われたに等しいのです。一日一度は海の幸を味わわねば我慢ならない恵姫にとって、三度の粥飯など到底受け入れられるものではなかったのです。

 箸を置いたまま食べようとしない恵姫に、磯島の説教が始まります。


「また魚ですか、姫様。我儘もいい加減になさいませ。一日三度の七草粥は、何も食費を削るだけのために行っているのではありません。七草は体にとても良いのです。毎日毎日、脂の乗った刺身だの、濃い味付けの煮魚だの、高価な胡麻油で揚げた天ぷらだのを召し上がっておいでですが、姫様、最近、少し食べ過ぎではないのですか。帯をきつく締めて隠そうとなさっておいでですが、姫様のお腹の肉、以前にも増してたるんでおられるでしょう。磯島、気が付いておりますよ。まったく、お胸の肉は貧しいままなのに、お腹の皮にはしっかり肉が付くとは、何という皮肉……」

「そ、それとこれとは話が別であろうが!」


 顔を真っ赤にして怒る恵姫。しかし磯島の言葉は完全に図星でした。確かに最近、体を動かさぬ割にはよく食べていたのです。窮屈な正月三が日の暮らしから解放された反動が、一気に食欲に反映されてしまったようです。


「別ではありません。お腹が引っ込むまで食事は控えめになされませ」

「そ、それならせめて味を変えるくらいの工夫をしてはどうじゃ。朝は塩味、昼は醤油味、夕は味噌味、とか」

「おお、姫様にしては名案です。それでは来年はそう致しましょう」

「来年? 来年の今日も一日中、草粥を食わすつもりなのか」

「それは姫様の心掛け次第です。これから毎日摂生した暮らしをされ、お腹の肉が引っ込み、お胸の肉がふくよかになれば、来年の七草粥は朝の一食だけに致しましょう」

「う、うぐぐ……」


 そんな摂生、できるはずがありません。と言うよりも、年一回の粥飯を回避するために、一年間、粗末な食事に甘んじるなど、馬鹿げているにもほどがあります。


「もういい。粥を食ったらわらわは寝るぞ」


 恵姫は猛然と粥を平らげ、香の物を食べ、食後のお茶を飲み干しました。浜遊びも食う事も楽しめなかった今日は、もはや寝る事にしか楽しみを見出せそうになかったのです。

 磯島は膳を片付けさせ、夜具を用意させると、去り際にこう言いました、


「そうそう、言い忘れておりました。今夜、控えの間に詰める女中はお福でございます。からかうのはほどほどになさってくださいましね」


 恵姫はそれには答えず、夜具を引っ被って目を閉じました。明日になれば美味いものが食える、雨が止めば浜にも行ける。こうして眠っていればすぐに明日になる。明日に、楽しい明日に、こうして眠っているだけでよいのじゃ。目覚めれば楽しい明日が……


「駄目じゃ、眠れぬ!」


 こんなに気持ちが高ぶったままでは、眠りに落ちることなど出来ません。それに寝るにはまだまだ早すぎる時間です。

 恵姫は立ち上がると障子を開けました。朝から降っていた雨は止み、日が落ちたばかりの西の空にはまだ明るさが残っています。


 ――ぽちゃん!


 中庭にある池で水音がしました。恵姫は縁側に出ると、石台の草履を履いて庭に下りました。雨上がりの湿った風が頬を撫でます。


 ――ぽちゃん!


 また聞こえました。恵姫は池端に寄ると水面に視線を落としました。濁った池の中を泳ぐ魚の背がぼんやりと見えます。


「雨で池の水がかき回され、魚も元気になったと見えるな」


 池には何種類かの魚がいますが、一番多いのは黒い真鯉でした。滝に上ると竜になると言われている鯉は立身出世の象徴、城勤めの者にとっては縁起のよい魚です。特に厳左は時々餌をやりに来るほどの鯉好きでした。


「ふむ、池の水もぬるくなり、底に沈んでおった鯉も水面に顔を出す季節になったか」


 恵姫は池の魚をじっと眺めていました。少し悪い顔をしています。実はとんでもない事を考えていたのです。


「美味そうじゃのう、じゅる」


 今日は満足のいく食事ができなかったが、この鯉を食えば健やかに眠れるはず……鯉を見詰めていれば見詰めているほど、恵姫の食欲は増大していきます。


「食うとなると、やはり刺身かのう」


 恵姫は魚を捌くことができます。海女小屋で海女たちが捕って来た魚を昼食に捌くのを、小さいころから見ていたからでした。見よう見真似で捌いているうちにどんどん上達し、今では料亭の板前並みの腕にまでなっています。

 米を炊いたり野菜を煮たりするのは女中の仕事ですが、包丁を持って魚や肉を捌くのは男の料理人の仕事です。恵姫は新しく入った料理人に包丁の使い方を教えることもありました。それ程に魚の捌き方に長けていたのです。包丁一本で渡世を送ることも不可能ではないでしょう。座敷の物入れには恵姫専用の包丁とまな板が常備されていました。


「いや、まだ火鉢の炭は消えておらぬはず。ならば焼魚もいいのう」

 当然、物入れには包丁の他に焼き網も入っています。

「煮魚もいいのう」

 無論、物入れには鍋や醤油や砂糖も入っています。

「天ぷらは……無理か」

 残念ながら、物入れには胡麻油は入っていませんでした。


「しかし、無断で鯉を捕っては、磯島だけでなく他の者にも叱られそうじゃな。特に厳左はえらく気に入っておるからのう。はて、どう言い訳をするか……うん、そうじゃ、猫が盗ったと言えばいいではないか。猫が鯉を咥えて屋敷の外へ逃げていくのを見たことにしよう、いや、見たのじゃ。そうじゃ、確かに見た。うむ、見た見た。よし、これでわらわが鯉を捕っても大丈夫じゃな」


 恵姫は懐から白い紐を出すと袖を縛って襷掛けにし、裾をまくって足袋と草履を脱ぎ裸足になりました。池に入って鯉を手掴みにするつもりです。


「水音を立てぬように、そうっとやらねば、そうっと」


 そうして、足先を池の水面に着けた時でした。背中に誰かの視線を感じたのです。はっとして振り向くと、座敷の縁側に誰かが座って、こちらをじっと伺っています。


「はうっ!」


 恵姫は一瞬、心臓が凍り付きそうになりました。


『まさか、磯島か。となれば叱られるだけで済まぬ、鯉を盗もうとしていたのじゃからな。間違いなく明日の朝食は抜き、最悪の場合は一日食事抜きじゃ。いや、待て。まだ鯉を捕ったわけではない、足を水に着けただけじゃ。言い逃れの余地はある。落ち着け、落ち着くのじゃ、わらわよ』


 恵姫は目を凝らして、縁側に誰が座っているのか見極めようとしました。

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