黄鶯睍睆その四 女中見習いお福

「お待たせしました」


 磯島が座敷に戻ってきました。一人でではなく二人でです。連れて来たのは若く色白の娘、どうやら女中のようですが、初めて見る顔でした。


「なんじゃ、見たことのないおなごじゃな」

「この子はお福と申します。ほんの数日前から住み込みで女中見習いをいたしております」

「ほう、そうか。で、このおなごがどうかしたのか」

「梅林に行かれるのなら、お福を同行させてください。それが外出許可の条件でございます」


 なんだ、そんな条件で良いのかと、恵姫は拍子抜けしてしまいました。さっきまでやきもきしていた自分が馬鹿みたいです。策士の磯島にしてはぬるい手を打ってきたものです。


『ふっ、こんなおぼこ娘を言いくるめるなど造作もないこと。勝手に浜に下りて口封じをすれば済むだけのことではないか』


 と、また悪い顔をして良からぬ事を考えている恵姫なのですが、次の磯島の一言で真顔に戻されてしまいました。


「言い忘れておりました。お福の母は姫様の母上と同じく、元巫女でございます」

「な、なに、巫女とな……ま、まさか、わらわのように、天から通じる力を持っておるのではあるまいな」

「それは……はて、どうなのでございましょうね、うふふ」


 磯島ははっきりとは答えません。恵姫はお福を見下ろすと、語気を強めて言いました。


「お福、正直に申せ。そなた、力を持っておるのか」


 恵姫に問われて、蛇に睨まれた蛙のように身を硬くするお福。しかしその口は何も語ろうとしません。


「何を黙っておる。早く答えよ」

「もうひとつ言い忘れておりました。お福は口が利けませぬ」


 平然とした口調の磯島。それを先に教えないところが如何にも磯島です。


「口が利けぬ? ならば言葉も分からぬのか」

「いえ、何を言っているかは分かります。それに口が利けぬと言っても声は出ます。言葉が喋れないのです。幼い頃に何かあったと聞いております」

「そうか……」


 恵姫はお福の顔を見ました。背は低く、年は自分より三つか四つ下でしょうか。他の女中と同じように髷を結ってはいますが、童女のような愛らしい顔立ち。ただしその頬は少しひきつっています。初対面の相手に詰問されたのですから無理もありません。


「それにしても小さきおなごじゃな。女中見習いなどさせて大丈夫なのか」

「何を言われるのです。お福は姫様と同い年ですよ」


 意外な返答に驚いた恵姫は、もう一度お福の体全体を見回しました。確かに背は低いものの、胸や尻の辺りは丸みを帯びてふくよかです。幼く見えるのは、お福の気の弱さに起因するのでしょう。


『気が弱ければ力を持っていたとしても恐れることはないじゃろう、うむ、決めたぞ』

「よし、わかったぞ磯島。そなたの条件を飲もう。お福を連れていく、それだけでよいのじゃな」

「それだけで結構です。それでは後はご自由に」


 磯島は軽く会釈をして座敷を出て行きました。恵姫はさっそくお福の手を取りました。


「聞いての通りじゃ。これからわらわの供をせい、お福よ」


 お福は恵姫を見上げると、相変わらず頬をひきつらせながらにっこりと笑いました。


 善は急げと申します。二人は草履を履いて奥御殿を出ると、すぐさま南の裏門へと向かいました。ずんずん歩く恵姫の後ろをちょこちょことお福が付いて行きます。まるで親鳥の後を追う雛鳥のようです。

 裏門はすぐに見えてきました。既に開いています。そしてその開いた門の前には人が立っていました。


「なんじゃ、雁四郎がんしろうではないか。お主、正月休みは無しか」

「本日は城の警護番を承っております」


 雁四郎は厳左の孫です。祖父と同じく剣の腕前は達人ながら心根は優しく、怒りを露わにすることは滅多にありません。


「そうか、ご苦労であるな。所用で屋敷の外に出る。通してくれ」

「磯島様から聞いております。お気を付けて。ところで、同行の方はどなたですか。見かけぬ顔ですが」


 雁四郎にそう言われて、お福は恥ずかしそうに顔を伏せました。


「ああ、数日前に入った女中見習いのお福じゃ。お主が知らぬのも無理はない。わらわとて今日、初めて会ったのじゃからな」

「左様でありましたか。可愛らしいお方ですな」


 雁四郎にそう言われて、伏せていたお福の顔が真っ赤になりました。そんな様子を見ていると、からかいたくなるのが恵姫の悪い癖です。


「ほう、妙にお福を気に掛けるのう。雁四郎、惚れたか」

「め、滅相もございません。ただ、思った通りに言ったまでで」

「お福、良かったのう。雁四郎はそなたが気に入ったようじゃぞ」


 突然、お福がそそくさと早足で門の外へと歩き出しました。その場に立っていられないくらい恥ずかしかったのでしょう。恵姫は呆れた顔をしました。


「わらわを置いて一人で先に行くとは、従者として失格であるな」

「姫様、あのような初心うぶな娘をからかうものではありませぬぞ。それよりも二の丸の梅林への道は、ひどく荒れております。道中、足元にお気を付けください」

『むっ、行先を知っておるのか。磯島め、余計なことを教えおって』 


 恵姫は心の中で舌打ちをして門を出ました。雁四郎は裏門を閉めた後、こちらをじっと伺っています。間違いなく二の丸に向かうかどうか見張っているようです。


「ふっ、これも磯島の言い付けか。律儀な奴じゃ」


 恵姫は荒れた山道を歩いて行きます。訪れる人もいない山道には雑草が好き放題に茂り、枯葉が散らばり、道端の立木の枝は勝手気ままに伸びて視界を妨げています。それでも構わず、恵姫は進みます。ずんずん進みます。しばらく進んだところで後ろを振り向き、もはや雁四郎の姿が見えないことを確認すると、


「そろそろいいじゃろう」


 とつぶやいて、東に向かって山を下り始めました。

 そう、まだ諦めていなかったのです。浜と釣りと刺身への渇望はそれほど大きかったのでした。枯れた雑草を踏み、まだ芽吹いていない枝を払い、山下の浜を目指して道なき道を獣の如く突き進む恵姫。


「おや」


 突然、腰が重くなりました。重すぎて歩けません。見ればお福が両腕を腰に回してしがみついています。


「こりゃ、お福、放せ。そちが心配する必要はない。口が利けぬのだろう。好都合ではないか。磯島から何を言われても黙っていればよいのじゃ。だから、な、その手を放してくれ。浜に行かせてくれ」


 しかし、お福は放そうとしません。むしろますます強い力で腰にしがみついてきます。


「わらわの言う事が聞けぬのか、お福!」


 恵姫の恫喝にビクリと体を震わせるお福。それでも手を放そうとはしません。どうあっても浜へは行かせたくないようです。


「ええい、この」


 恵姫は腰にまとわりついているお福の両腕を掴むと、思い切り振り解きました。


「あっ……」


 呆気ないほどたやすく、お福の腕は腰を離れ、その体は枯れ藪の中へと横ざまに倒れてしまいました。恵姫は慌てました。磯島が監視役に抜擢したほどの人物が、まさかこれほど非力であるとは夢にも思わなかったからです。


「す、すまぬ、お福。力が入り過ぎてしまったようじゃ。怪我はないか」


 謝罪する恵姫に対して、お福は何の反応も示しません。倒れ込んだまま、起き上がろうともせず、恵姫をじっと見詰めています。これから何かしようとしているかのように、身じろぎもせず、座敷に居た時とは全く違う、強い眼力を放ちながら。

 お福のただならぬ気配に、恵姫の中に迷いが生じ始めました。


『なんじゃ、この別人のような態度は。まさか、こやつ髷を結ったままで力を使うつもりか。これまで見せて来た気弱な態度は、わらわの油断を誘うためにわざとそうしていたのか』


 そう考えると不用意には動けませんでした。相手の力がどんなもので、どれくらいの強さなのか、何も分からぬ状況では簡単に手出しはできません。それに、もし力で制するためにお福を監視役にしたのなら、恵姫の力がどのようなものであるか、磯島はお福に教えているはずです。


『明らかにこちらが不利じゃ。どうする、どうすればいいのじゃ』


 恵姫は静かに帯の隙間へ右手を潜り込ませると、その指先に何かを挟みました。


『まさか、こんな所で、これを使うことになるとはな……』


 お福と恵姫に北風が吹き付けました。それは春には似つかわしくない乾いて冷たい風でした。

 

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