黄鶯睍睆その三 笹鳴き

 

 昼食を済ませた後も恵姫の気は晴れませんでした。顔の皮がヒリヒリします。塗りたくられた墨を落とすために、濡れ布巾でゴシゴシ擦られたためです。


「落ちやすいように、あらかじめ薄墨にしておきました。磯島のせめてものお情けでございます」


 そう言いながら他の女中と一緒に顔を擦る磯島。対戦前から恵姫の負けを確信していたとも取れる発言に、更に機嫌が悪くなる恵姫。思い出しただけで口惜しさがよみがえってきます。


「正月三が日も残り半日ではないか。なのに一片の楽しみも見出せぬ。それもこれも全てこの髷のせいじゃ。せめて食い物だけでも楽しみたいものじゃが、正月料理もこう何日も続くとすっかり飽きがきてしまったのう。たまには活きのいい魚を捌いて刺身でも食いたいものじゃ。ああ、ああ、何か気分が晴れるようなことはないかのう」


 愚痴る相手がいないので、壁に向かって一人でぼやく恵姫。と、


「チャッ、チャッ」


 縁側に面した障子の向こうから、お世辞にも美しいとは言えぬ声が聞こえてきました。


「なんじゃ?」


障子を開けて縁側に出てみると正月の青空が広がっています。


「チャッ、チャッ」

「ほう、笹鳴きのようじゃな」


 姿は見えませんが、鶯が鳴いているようです。しかしその鳴き声は囀りではなく、冬、餌を探す時の地鳴きでした。


「せっかくの鶯も囀ってくれねば楽しめぬのう。いや、探せばもっと良い声でなく鶯が居るやも知れぬ、う~む……」


 眉間に皺を寄せて考え込む恵姫。やがてその顔が悪人面に変わりました。こういう時の恵姫は何か良からぬことを考えているとみて間違いありません。両手をパンパンと叩きました。


「誰か」


 座敷の隣の控えの間に詰めていた女中が座敷に入ってきました。


「何か御用でしょうか、姫様」

「磯島を呼んでくれぬか」

「何か御用ですか、姫様」


 最初に座敷に入ってきた女中が返事をせぬうちに、磯島が座敷に入ってきました。これには恵姫も度肝を抜かれてしまいました。


「い、磯島、何故、そなたがここに居る?」

「今、磯島を呼んでくれと申されたではありませぬか。呼ばれたから来たのです」

「それは確かに呼びはしたが、普通はこの女中が『かしこまりました』と用件を引き受けてそなたの部屋へ行き、『姫様がお呼びです、至急座敷に向かってください』との連絡を受け、それから来るものであろう。ちと早すぎるのではないか」

「たまたまでございます」


 たまたま……実に便利な言葉です。折よく廊下に居たとか、耳を澄ましていたら恵姫の声が聞こえたとか、如何にも適当に付けた理由に対して『そんな偶然があるわけなかろう』と言ったところで、『いえ、たまたまそうだったのです』と反論されたら、こちらも反論できません。


『本当にたまたまなのか、磯島め。まさか本物の忍術遣いなのではないだろうな』


 と、これまで何度も頭に沸いた疑念を抱きつつ、恵姫は話を先に進めることにしました。


「まあよい。では磯島よ、聞くがよい。わらわはこれから二の丸の梅林に行くぞ」

「ほう、梅林に。どのようなご用件で?」

「それはな、ちと、耳を澄ませてみよ」


 恵姫は座敷の障子を開け放ちました。午後の日差しが縁側を明るく照らします。


「チャッ、チャッ」

「ほう、笹鳴きでございますな。姫様が鶯に興味は抱かれるとは、少し見直しました」


 感心して恵姫を見る磯島。鶯の声を愛でるなどという風流を、普段の恵姫は全く持ち合わせていないのですから無理もありません。


「そうじゃ、鶯じゃ。しかしこれは笹鳴き。ちっとも美しくない。そこでじゃ、二の丸に梅林があろう。あそこなら鶯の囀りが聴けるかもしれぬと思うてな、行ってみることにしたのじゃ」


 間渡矢城は、かなり昔に廃城になった城跡に建てられているのですが、陣屋敷があるのは三の丸のみ。本丸と二の丸はそのまま放置されています。その部分は三の丸から離れているうえに狭いこと、そして何よりそこまで手を入れるだけの財力がなかったことが主な理由です。もちろんそこに警護番の者などは一人も居ません。


「そうですか、あの荒れ果てた二の丸に行きたいと、姫様はそう申されるのですね」


 目を細めてじっと恵姫を見る磯島。何食わぬ顔で髷に刺さった髪飾りを手で弄ぶ恵姫。磯島が頷きました。


「姫様は、よほどその髷を嫌っているようですね」

「え、いや、まあな。しかし、もう慣れたぞ」

「梅林に行くと言って南の裏門を出た後、そのまま浜に下りて髷を解き、釣りでもなさるおつもりですね」


 びくりと体を震わす恵姫。違うとばかりに胸の前で両手を振りました。


「な、何を言っているのじゃ、磯島。そのようなこと、出来るはずがなかろう。そもそも釣り竿を持って出れば、屋敷を出る前に企てが露見する」

「姫様が浜に釣り竿を隠されていること、この磯島が知らぬとでもお思いなのですか。梅林から戻って来られる時の姫様の姿は、今からでも容易に想像できます。髷は解け、着物は砂だらけ、しかも手にぶら下げているのは、まだピチピチ動いている魚。『姫様、そのお姿は、一体何があったのですか』と尋ねれば『梅林に行ったところ、慣れぬ道ゆえに転んでな。その拍子に髷が解け、簪も髪飾りも大散乱。おまけに運のないことにそのひとつが浜に落ちてしまったのじゃ。磯島より預かった大事な簪、ひとつでも失うわけにはいかぬと浜へ降り、必死になって探したところ、何を間違えたのか、魚が一匹海から浜へと跳ね上がったので、手土産代わりにこうして持参してきた。さっそく刺身にしてくれ』と答える姫様。まったく下手な言い訳を考えたものですね。その程度の申し開きでこの磯島が納得するとでも思われたのですか。舐められたものですね」

「うぐぐ」


 グウの音も出ないとはまさにこの事、と恵姫は思いました。磯島の推理は完璧でした。そうです。梅林へ行く振りをして浜に下り、髷を解き、隠していた釣り竿で魚を釣り、夕食には刺身を食う、これが恵姫の立案した本日午後の予定でした。しかし、磯島の人間離れした洞察力によって、この予定は未定のまま、実行されずに葬られる可能性が極めて高くなってきました。

 襖の向こうからこちらの様子が分かるだけでなく、思考まで読み取る……いくら生まれた時から世話を見てきたからと言っても、ここまで自分の心を見通せるものなのかと、恵姫は改めて脅威を感じました。


『磯島、恐るべし。もはやこやつの手の平から逃れる術はないのか』

 

 さりとて、「すまぬ、そなたの言う通りじゃ」と素直に認めるのは、姫としての誇りが許しません。ここは持論を押し通すのみです。


「な、何を世迷言を申しておるのじゃ、磯島。わらわは本当に、心の底から、天地神明に掛けて、鶯を探しに梅林に行くのじゃ。それだけじゃ、間違いなくそれだけじゃ」

「そうですか、本当にそれだけなのですね……ではしばらくお待ちください」


 磯島は立ち上がると、控えの間に詰めていた女中を連れて座敷を出て行きました。ひとりになった安心感から、恵姫はほっと安堵の息を吐きました。

 梅林行きを認めぬ理由は磯島にはないので、屋敷の外に出る許可は下りるはずです。しかし、絶対に髷を解かせず、浜に行かせないために、何らかの手段を講じてくるのは確実です。磯島の次の一手は何か、恵姫はやきもきしながら磯島が戻って来るのを待っていました。



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