東風解凍その三 女中頭磯島


「姫様、気を付けてお帰り下さい」


 お浪に見送られて海女小屋を出ると、恵姫は帰路に就きました。目指すは間渡矢まとや城、恵姫の居城です。


「北側を除く三方を海に囲まれた要害の地に位置する難攻不落の城」

 とは、今でも武芸の修練を怠らぬ年寄り家臣達の口癖。しかし実態は城とは言い難い、ただの陣屋にすぎませんでした。戦国時代に廃城となった跡地に建てられたので石垣や堀はあるものの、天守はもちろん櫓も一つもありません。ただし城門だけはあります。それは弱小ながら城主格大名としての唯一の矜持のようなものでした。


「はあはあ。行きは楽じゃが、帰りは難儀じゃのう」


 恵姫は汗をかきながら細い道を登っていました。立派な城門に通じる道ではありません。道と呼んでいいものかどうか迷うような獣道です。これは城から浜へ直接通じている抜け道で、海へ出るには一番の近道なのですが、急な勾配と荒れた山道のため歩きにくく、利用する者はほとんどいないのでした。一方、そのせいで人目につかず、お忍びで城を出るには好都合でした。


「どうやら無事に帰れそうじゃな、ふう」


 ようやく山道を登り切り、城を囲む漆喰塀の前に立った恵姫は、額の汗を拭って一息つきました。と、その時、城内から太鼓の音が聞こえてきました。時を知らせる太鼓です。どうやら時刻は昼八つのようです。


「やや、もう一刻経ってしまったか。少しのんびりしすぎたのう」


 恵姫は急いで木戸を開けました。実は誰にも何も言わず、内緒で城の外へ出たのです。弱小ながらも一国の大名の娘、それがお忍びで城外に出たとあっては、お付きの者も姫自身も叱責を免れません。


「急いで戻らねば」


 昼の軽い食事の後は昼寝の時間と称して、恵姫は人払いをしているので、誰も自分の部屋には立ち入りません。しかし、昼八つになると女中が目覚めの茶を持ってやって来ることになっているのです。それまでに戻らねば無断外出が露見してしまいます。

 音を立てぬよう木戸を締め、目の前の奥御殿へ忍び足で向かう恵姫。その背後に、なにやら黒い影が迫ってきました。


「恵姫様」


 ビクリとする恵姫。恐る恐る振り向けば、そこには鬼のような形相の年増の女が立っていました。女中頭の磯島いそしまです。


「い、磯島か。こんな所で何をしておるのじゃ」

「それはこちらの台詞でございますよ。お茶をお持ちすれば部屋の中はもぬけの殻。今日は一日部屋で過ごすように申したはずです。こんな所で一体何をしておられるのです」

「そ、それは、ちと早く昼寝から目が覚めてな。縁側に出ればぬくい東風が吹いてくる。もう梅でも咲いたのではないかと、庭に出て……」

「そうですか、また浜に下りていたのですね。草履も足袋も着物の裾も砂だらけですよ」

「ん、ああ、これは先ほど転んでのう……」

「おまけに海女小屋にも寄っていらっしゃったのでしょう。ほのかに酒粕の香りがいたします。小屋で甘酒でも振る舞われましたか」


 まったく聞く耳を持たない磯島に、恵姫は眉をひそめると、『相変わらず勘だけは鋭い奴じゃ』と心の中でつぶやきました。怖い者なしの恵姫も、この磯島だけには頭が上がりません。

 それは彼女が公家の出で、身分も教養も気位も高いだけでなく、赤子の頃は乳母として、童女の頃は養育係として、髪上げをしてからは礼儀作法しつけ役として、誰よりも恵姫と密接に年月を過ごしてきたからです。


 磯島は何でも知っている、自分の知らない自分に関する事柄ですら、磯島は知っているに違いない、恵姫はよくこんな風に思うことがありました。ですから磯島の前では隠し事も言い訳も、あの穴に落ちた亀の如く無駄な足掻きにすぎないのです。

 普通の人間ならば無駄な抵抗はしても仕方がないと、迷うことなく恭順するでしょう。しかし、そうはならないところが恵姫の片意地の強さ。負け戦覚悟で磯島に戦いを挑む猛勇ぶりは、大坂夏の陣の信繁もかくやと思わせる武者の鑑。そして今回も作り話をことごとく見破られ、奮戦空しく磯島の軍門に下った恵姫は、潔く負けを認めたのでした。


「すまぬ。そなたの言う通りじゃ。黙って出て行って悪かったのう」


 素直に謝罪する恵姫を見て、ようやく磯島の怒りは収まったようでした。全身を包んでいた憤怒の気配は薄れ、嵐の後に空に浮かぶ七色の虹のような慈愛の表情がその顔に現れました。


「姫様、磯島は何も姫様が憎くてこのような事を言うのではないのですよ。立派な姫様になって欲しい、どんな高貴なお方の前に出ても、毅然として堂々として決して引けを感じることのない姫様になって欲しい、ただその一心で姫様にお仕えしているのです。それなのに、こんな年になっても我らの心配をよそに一人で勝手に浜遊び。それを隠すために、すぐに露見する嘘偽りの申し立て。ああ、なんと嘆かわしいことでしょう。磯島のこれまでの努力は無駄な骨折りだったとでも言うのですか。身も心も、全てを捧げてお仕えしてきた磯島の人生は、いったい……」


 この後も磯島のお説教は延々と続いたのですが、恵姫は全く覚えていません、と言うか、聞いていませんでした。言ってみれば馬耳東風、馬の耳に念仏。頭を垂れて殊勝な様子で聞いていますが、それは振りだけ。頭の中では、

『小腹が減ったから茶菓子でもつまみたいのう』とか、

『お浪の木桶に入っていたハマグリは美味そうじゃったのう』とか、

『夕食の晦日蕎麦には海老の天ぷらをのせてくれぬかのう』とか、

 要するに、空腹のために食い物のことばかりをあれこれ考えていたのです。それに磯島の怒りが喋ることで解消されるのは、これまでの経験で分かっていました。とにかくこうして口答えせずに磯島に話をさせておけば、やがてお許しが出るのです。恵姫はその時をじっと待っていました。


「……これだけ言えば、磯島の気持ちも分かっていただけましたでしょう。このようなこと、二度としないと約束してください、姫様」

「……」

「姫様!」

「ん、ああ、蕎麦にのせるのは海老の天ぷらで」

「何をおっしゃっているのです。磯島の話を聞いておられなかったのですか。これからは浜に出掛ける時は、必ず一言断ってからにすると、約束してくださいまし、姫様」

「約束する。うむ、必ず言ってから行くぞ」

「はあ~」


 磯島はため息をつきました。そしてこれが何度目の約束だったろうと思わずにはいられませんでした。無断の浜遊びは今回が初めてではなかったのです。口約束では何の効き目もない、さりとて他に良い方法があるわけでもない、今の磯島にできるのはこうしてため息をつくことだけでした。


「約束していただけるのなら、此度こたびの無断外出は不問にいたします。奥御殿へお戻りください」

「そうか、手を煩わせたな」

「御殿に上がる前に、草履と足袋と裾に付いた砂は、一粒残らず払ってくださいましね。せっかく掃き納めをしたというのに、これでは、もう一度掃きなおさねばなりません。ただでさえ忙しい大晦日に、また余計な仕事が……」


 磯島はぶつぶつと独り言を言い始めました。こんな場合は知らんふりをして無言でこの場を離れるに限ります。恵姫は背中を丸め、それでも説教から逃れられた解放感に満たされながら、意気揚々と奥御殿へ歩き始めました。と、その右腕を磯島の右手がむんずとつかみました。


「何の真似じゃ、磯島」


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