東風解凍その四 髷結い

 

 怪訝な顔で振り向いた恵姫の頭の上に、磯島の冷酷無情な命令が降ってきました。


「言い忘れておりました。御殿に戻り次第、髷を結っていただきます」

「まげ、じゃと」


 恵姫の顔がひきつりました。慌てて腕を振り解こうとしましたが、磯島の右手は獲物を捕らえた鷹の爪のように、がっちりと腕に食い込んでいます。


「逃がしはしませんよ。昨年の正月は殿の特別のお計らいで、垂れ髪のまま過ごされましたが、此度の正月はそうは参りません。江戸在住の殿に代わって年始の挨拶を受けるのに、髷も結わずに人前に出るなど許されるはずがありません」

「いや、しかし、髷を結ってしまっては力が存分に発揮できぬ。磯島も知っておろう。髪を拘束するのは力を拘束するのと同じじゃと」

「そんな力は使わぬほうが良いのです。ここに出戻ってきたのも、その力がそもそもの原因だったのではないですか」

「うぐっ……」


 痛いところをつきおるのう磯島は、と恵姫は声に出さずにつぶやきました。実は恵姫は一度嫁入りの経験があるのです。しかし、一月ひとつきも持たずに実家に送り返されてしまったのでした。

 自分のこれまでの人生には一片の悔いもない恵姫でも、この大失態だけは、己のみならず、親類、縁者、家臣、嫁ぎ先の多くの領民などなどに多大な迷惑を掛けてしまったことで、恵姫一生の不覚はここにありと言わしめるほどの汚点として、心の内に刻まれているのでした。


「い、いや、しかしな、磯島。戦国時代のおなごたちとて、髷を結わずに正月を迎えた者もいたであろう。ならば、わらわとて」

「今は戦国の世ではなく天下泰平の徳川の世です。それに何も見栄や体裁だけで髷を結えと言っているのではありませぬ。姫様もご存じでしょう。明暦の大火の折り、髷を結っていなかった江戸城のおなごたちは、ある者の髪には火が移り、ある者の髪は柱に絡まり、それはそれは大変な惨事になってしまったことを。この城とて、いつそのような災いが降りかかるか知れたものではございません」

「そ、それは、その通りであるが」

「ならば何を迷われるのです。姫様のような活発な方こそ、髷を結うべきなのです。とっくに髪上げも済ませたのに、いつまでそのような成りをしておられるつもりですか」

「いや、だから、力が……」

「何と言われようと此度の正月だけは髷を結って過ごしていただきます。さあ、そなたたち、かかりなさい!」


 いつの間にやって来たのでしょう、三名の女中が恵姫の背後に近付きました。その内の二名は右腕と左腕をがっちりとつかみ、最後の一名は恵姫の長い黒髪に木の棒を押し当てると、くるくると巻き付け始めました。


「こりゃ、髪に触るな。丸めるな。そんなことをされては、力が……」


 恵姫は逃れようと体をジタバタさせましたが、三人対一人では適うはずがありません。思わず愚痴がこぼれました。


「やれやれ、これでは穴に落ちた亀同然じゃのう」


 すっかり観念した恵姫の姿を見て、磯島は満足だと言わんばかりのにんまり顔になりました。が、すぐに顔を引き締めると、有無を言わせぬ凄みのある声で三人の女中に命じました。


「さあ、ただちに奥御殿へお連れして姫様の髷を結いなさい。抵抗するようなら、どんな手荒なことをしても構いません。手足を縛り、猿轡をはめ、そうそう、姫様の大嫌いな五器齧ごきかじりを顔に這わせるのもいいですね」

「ひっ!」


 五器齧は大きな油虫で、台所に潜んで飯や器を齧り、時には灯に向かって飛んできたりする黒い虫です。恵姫は幼少の頃からこの虫が大嫌いなのでした。


「そ、そのようなことをすれば、父上が黙ってはおらぬぞ」

「ああ、言い忘れておりました。三人とも心配は無用です。江戸屋敷の殿の了解は半月前に取り付けてございますから。『恵姫にはそろそろ婿取りを真剣に考えてもらわねば困る、そのためには髷結いもやむを得まい』書状にはそうしたためておられました。さあ、そなたたち、気後れすることなく思うがままに姫様を持て成しておあげなさい」

「これ、磯島、横暴ではないか。おい、待て、話し合おうではないか。これからは無断で城の外へは出ぬ。だから、おい、磯島……わ、分かった、髷を結うのは認めよう。しかし、せめて今日ではなく明日からにしてくれぬか。年始の客が来るのは明朝であろう。結うのは明日でも遅くないはず……おい、聞いておるのか、磯島、磯島ぁ~!」


 恵姫の体は三人の女中によって奥御殿へと運ばれていきます。その様子を眺めながら、磯島は「はあ~」と深いため息をつきました。



 最初に恵姫たち四人が向かったのは湯殿でした。そこで体中の砂を払った後、着物を脱がされて手も足も顔も体もごしごし擦られ、髪を洗われ、ついでにちょっと切り揃えられ、新しい着物を着せられ、それからようやく奥御殿に入り、待ち構えていた髷師に髪の毛をいじられ、様子を見に来た磯島にあれこれ注文を付けられ、そんなこんなで一段落ついた頃にはもう夕食の時間になっていました。


 その間、恵姫は黙ってされるがままにしていました。抵抗して五器齧を顔に這わせられることは、なんとしても避けたかったのです。以前、

『五器齧を這わせるなど単なる磯島の脅し文句、そのような真似が本当に出来るはずがない』

 と、高をくくって反抗し続けたところ、本当に五器齧を顔に這わせられたことがあったのです。どうやら磯島は台所で密かに自分の意のままになる五器齧を飼育しているようなのでした。以来、磯島の口からこの虫の名が出れば、恵姫は全ての抵抗を放棄するしかなくなってしまったのです。


 それになにより磯島の言い分は理に適っていました。

『髷を結われるのは嫌だが、それも正月の間だけ、ならば辛抱できぬでもない、ここは磯島の顔を立ててやることにしよう』

 恵姫はそう決めて女中たちの好きにさせていました。こうして外見だけはすっかり磯島好みの女性へ変貌した恵姫。座敷に入って来た磯島は、恵姫の姿を見るや歓喜の声をあげました。


「まあまあ、なんとお美しいお姿でしょう。島田髷がよくお似合いですよ、姫様。やはり磯島の目に狂いはありませんでした。あんな垂れ髪よりもこちらの方が余程愛らしくて、大人びて、優雅でいらっしゃいます。三国一の美女とは、今の姫様にぴったりの言葉です」

「そ、そうか」


 髷を嫌っていた恵姫も褒められれば嬉しくなります。頬が少し緩みました。


「そうですとも。この麗しくも妖艶なお姿を見れば、どのような殿方も姫様の虜になりましょう。さすれば婿養子の相手など選り取り見取り。正室となられた姫様は多くのお子様に恵まれ、お家は安泰。磯島は安心して余生を送ることができまする」

「こ、これ、世辞が過ぎるぞ、磯島」


 恵姫の頬がほんのり紅色に染まりました。歯の浮くような磯島のお世辞には大変な論理の飛躍があるのですが、そこに気付かないほどに舞い上がっているようです。かくもお世辞の効果とは恐ろしいものですね。


「磯島の言い付けに素直に従っていただいた姫様に、ご褒美を用意いたしました。夕食の晦日蕎麦には海老の天ぷらをのせ、更には特別にハマグリの酒蒸しもお付けしております」

「おお、でかしたぞ、磯島」


 恵姫の頬は上気して、更に濃い紅色になりました。やはりまだまだ色気より食い気のお年頃、完全に我を忘れてしまっているようです。かくも餌付けの効果とは恐ろしいものですね。

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