東風解凍その二 海女小屋で甘酒


「姫様、めぐみ姫様ではありませぬか」


 声を掛けてきたのは白い磯着の女性です。ずぶ濡れの全身と手に持った木桶、一目で海女と分かりました。いきなり声を掛けられた少女、恵姫は、驚いた様子もなく返事をしました。


「いかにも、姫じゃ」

「こんな大晦日の浜に何用です?」

「ん、なに、海女小屋から煙が立ち上っているのが見えたのでな。こんな大晦日にも潜っておるのかと気になって見に来たのじゃ。そうか、潜っておったのはお浪か」

「はい。お心遣い、ありがとうございます」


 海女のお浪は深々と頭を下げました。恵姫が声を掛けられても驚かなかったのは、知り合いの海女だったからなのです。

 一方、恵姫はこっそりと苦笑いをしています。海女小屋の煙が気になったというのはたった今思いついた理由で、本当は穴に落ちたウミガメをからかうために浜に下りてきたからです。しかし、こんな年になってそんな子供じみた理由を正直に言えるはずもありません。咄嗟に口から出たのが海女小屋の焚火の煙だったのです。


「それにしてもこんな年の暮れまで漁をするとは、働き者じゃのう」

「いえいえ、年の暮れだからこそ漁をしているのですよ。あっちこっちの掛け取りが家に押しかけて来ますからね。お金の工面が付かず、こうして漁をしていたのです。冬の貝や魚は値が張りますから」

「ほう、それは殊勝な心掛けじゃな。うむうむ」


 恵姫は感心して頷きました。掛け帳を手にした商家の遣いが城下を走り回るのは盆と暮れの風物詩。普通の庶民ならば借金取りから逃れようとあれこれ算段するものですが、お浪はキッチリ返そうとしている、その心意気は見上げたものだと、恵姫は感じたのです。


「こんな所で立ち話をしていては体も冷えましょう。よければ海女小屋に寄って行きませんか。持参の甘酒を火にかけてあるのです」


 途端に恵姫の頬が緩みました。甘酒という言葉が耳からではなく口から飛び込んだかのように、舌も喉も甘酒の香りと温もりを味わい始めていたからです。口の端から垂れそうになったよだれを慌てて飲み込んだ恵姫は、


「ほほう、年の瀬に飲む甘酒か。これは珍しい。うむ、寄って行くぞ」


 と返事をするや、海女小屋に向かってスタスタと歩き始めました。その後を、顔に笑みを浮かべたお浪が付いて行きます。大人びていてもまだまだ子供でいらっしゃると思いながら。


 海女小屋は砂浜の奥、一段高くなった平らな荒れ地の上に建っていました。満ち潮になると砂浜は完全に水没するため、浜辺を避けてそんな場所に作ったのです。


「中は存外と暖かいものじゃな」


 この小屋には何度も来たことがある恵姫でしたが、こんな冬の日に中に入るのは初めてでした。屋根は無く、竹と葦で囲っただけの粗末な作りの小屋の中は、焚火の火と空からの日のおかげで思ったよりも暖かく感じました。

 お浪は手桶を置くと、濡れた磯着のまま焚火に木をくべ、掛けてある小さな鉄鍋の蓋を開けました。甘酒の芳香が微かに漂います。


「いい塩梅に温まっておりますよ」


 それから小屋の隅に立て掛けてあるゴザを振るって砂を払い、土の上に丁寧に広げました。草履を脱ぎ横座りをした恵姫は、ゴザの上で大人しく待っています。手伝おうなどとは決して考えません。姫として招かれた以上、余計な手出しをせず黙って持て成されるのが礼儀というものです。


「お召し上がりください」


 しばらくして差し出されたのは、白磁に藍の波文様と赤い鯛を絵付けされた湯呑でした。粗末な小屋には余りにも不釣り合いな立派な茶器です。それもそのはず、実はこの湯呑は恵姫専用のものなのです。

 幼少の頃から恵姫は頻繁に浜辺を訪れ、ついでに小屋も訪れていました。訪れればそれなりに持て成さねばなりません。その時、海女が普段使っている、古びて茶渋が付き縁が欠けたりひびが入ったりしている湯呑で持て成すのは、さすがに失礼に当たると考え、わざわざ恵姫専用の湯呑を小屋の隅の木箱に用意してあるのです。赤鯛は恵姫のお気に入りの絵柄でした。


「では、いただくぞ」


 そう言いながら受け取った恵姫は、しかし直ぐには飲もうとしません。湯呑を左手にのせて右手を添えたまま、目線よりも高く持ち上げ、顔を動かしてまじまじと湯呑を観賞しています。しばらくして湯呑を下げると、今度は右に二度回して、ようやく口を付けました。

 お浪はクスクス笑いながら、自分の湯呑に甘酒をつぎました。恵姫が茶道の流儀を真似ていることは、先刻から分かっています。武家の娘でありながらこんな茶目っ気をたっぷりな所もまた、姫の魅力のひとつでした。


「ほー。結構なお点前であったぞ。夏に飲む甘酒も温めて飲むと美味いものじゃな」

「お粗末様でした。まだ残っておりますが、お代わりはいかがですか。残しておいても仕方ないですし」

「う、うむ。では、いただこうかのう」


 少し照れた顔をして湯呑を差し出す恵姫。笑顔で受け取りお代わりの甘酒を注ぐお浪。二人は遠くから聞こえる波の音に身を任せて、静かに甘酒を味わっていました。


「ところで姫様」

「なんじゃ」

「先ほどの満ち潮は姫様の仕業なのでしょう」


 突然の質問に恵姫はギクリとしました。もしや、ウミガメと戯れていたところを見られたのではないか、そんな疑念が湧き上がってきます。口ごもりながら返答しました。


「き、気が付いておったのか。いかにもわらわの仕業であるぞ」

「驚きましたよ。海の中でも潮の流れの変化が分かるほどでしたから。寄せた波が返っていって、潮が落ち着いたところで海から上がってみると、恵姫様が立っていらっしゃたので、もしやと思ったのです」

「そ、そうか。驚かせてすまなかったな」


 恵姫は胸を撫で下ろしました。どうやらお浪はウミガメに関しては何も知らないようです。それならば、有り体に語っても問題はないでしょう。


「実はな、亀が一匹穴にはまって難儀をしておったのじゃ」

「亀、こんな季節に浜に亀がいたのですか」

「そうじゃ。大きな亀でな。わらわの力では到底穴の中より助け出すことは出来ぬ。やむなく浜辺を波で満たして亀を浮かせ、無事、海へ帰してやったのじゃ」

「それは良きことをなされましたね」


 誇らしげに語る恵姫をお浪は目を細めて見ています。まるで吉事が我が身に起こったように嬉しそうな様子です。が、すぐに顔を伏せ灰色の土に視線を落としました。何か考え事をしているようです。


「いかがした、お浪」

「いえ、最近、妙に気に掛かることが多いのです。姫様、ここ数日の東風をどう思われますか。一番寒いはずのこの時期には似合ぬ暖かさ」

「確かに、暦の上では春とはいえ、大晦日にしては風がぬるいのう」

「だからと言って夏が暑いわけではありませんでした。今年の冷夏には本当にはらはらさせられましたし」

「確かに、今年はさほど暑くもなく、いささか物足りぬ夏じゃったな。まあ、そのおかげで過ごしやすくはあったが」

「そして、今日、姫様に助けられたという亀。本来なら初夏に卵を産みにやって来るはずなのに、こんな時季外れに浜に上がるとは……」

「確かに、この頃、奇妙なことが続いておるな」


 それは恵姫も薄々感じていることでした。いや、この二人だけではなく、この国に住む誰もが感じていたと言ってもいいでしょう。普段との違い、たとえそれがほんの僅かな差異だったとしても、人の心には大きな疑心を産みつけるものです。そして、その原因が分からないとあっては、疑心は不安となって人の心に重く圧し掛かるのです。


「いったい、何が……」


 いつにはなく沈んだ顔をしているお浪。恵姫は湯呑を置くと、殊更に明るい声で言いました。


「お浪、考えても始まらぬよ。暑くない夏はこれまで何度もあった。寒くない冬も何度もあった。今日、浜に来た亀も少しトボケタ顔をしておった。大方おおかたぬるい東風に吹かれて、春が終わったと勘違いしてやって来たのであろう。つまらぬ事に頭を悩ませるより、楽しい事を考えようぞ。そうじゃ、お浪、何故、この飲み物を『あまざけ』と呼ぶか、知っておるか」

「それは、甘いからでございましょう」

「違うな。海から上がって冷えた海女の体を温めるのに最適だからじゃ。海女の飲む酒、ゆえに『あまざけ』じゃ」

「姫様……」


 お浪の胸は甘酒を飲んだ時よりも熱くなりました。自分を元気づけようとしてくれる恵姫の心遣いが、身に沁みて有難く感じられたからです。


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