水泉動その三 三者会議

 厳左も毘沙姫も既に諦めてしまった雁四郎の命。まさに風前の灯と言える状態に、珍しく友乗が愚痴めいた言葉を発しました。


「毘沙姫様は怪力と神速の業の持ち主。此度も素手だけで雁四郎を制したと聞いております。それほどの力と速さがありながら、何故雁四郎の抜刀を防ぐ事ができなかったのでしょうか」


 毘沙姫を咎めるような口振りに、さすがの寛右も失礼と思ったのか慌てて口を挟みます。


「友乗殿、そのような言い方をされては……」


 しかしその寛右の言葉へ更に毘沙姫が口を挟みます。


「いや、いいのだ寛右。友乗がそう考えるのも無理はない。普段の私なら容易く防げただろうからな」

「なんと……では何故」


 驚く寛右と訝し気な友乗を前にして、毘沙姫は滅多に見せない笑みを浮かべました。


「怯えていたのだろうな、私は。斎主様の業に」


 浮かんだ笑みはすぐに消え、毘沙姫は数日前の風景を見ているような遠い目をして話し始めました。


「断罪剣、初めて見る斎主様の業。それは私の地の力と布の風の力、二つの力を融合させた斎主様のみが使える業だ。止められなかった。恵目掛けて突き進む剣に私は恐れを感じたのだ。もしこの剣を止めれば私の髪も断たれるに違いない……そんな恐れが私の体を縛り、雁四郎の動きすら目に映らなかった。気付いた時には雁四郎は刀に手を掛けていた。声を出して制したが体はすぐには動かなかった。ようやく足が前に出た時には、刀は既に抜かれていた……」


 豪胆かつ冷徹、どのような時にも物怖じしない大胆不敵な毘沙姫。その毘沙姫でさえ斎主の業の前では足がすくむほどの恐れを感じたのでした。友乗と寛右はありのままを正直に話してくれた毘沙姫に感謝すると共に、計り知れぬ斎主の大きさを今一度痛感せずにはいられませんでした。


「左様でありましたか。詰まらぬ物言いをしてしまいました。許してくだされ」

「いや、謝るのはこちらだ。私が止めていれば雁四郎もおまえたちも、こんな目に遭わさずに済んだのだからな」


 頭を下げる友乗を見て自分も頭を下げる毘沙姫。責められる理由など全く無いにもかかわらず申し訳なく感じている毘沙姫の姿に、氷から解け出した清水の如き心の純粋さを感じる寛右です。

 友乗はまだ腑に落ちぬ点があるようで、重ねて毘沙姫に尋ねます。


「これもまた愚痴となってしまいますが、布姫様はどう思っておられたのでしょうか。恵姫様が真実を知ってしまえば、与太郎殿を逃がそうとするのは十分推測できたはず。そして斎主様が怒り、断罪剣を使うのもまた分かっていたはず。にもかかわらず布姫様は何故全てをお話しになったのでしょう」

「それは私にも分からぬ。布に訊いても『今はまだ申せません』としか答えてくれぬからな。ただ斎主様が断罪剣を使うとは思っていなかったようだ」

「ほう、あの布姫様でも読みを誤る事があるのですか」

「布も所詮は人の子、神ではない。間渡矢襲撃の一件でも磯島が怪我を負うとは思っていなかったようだ。その点についてはひどく後悔していた。此度もそうだ。与太郎が来ぬとなれば姫の力だけで解決せねばならぬ。恵が潜在的に持つ姫の力の大きさは伊瀬の姫衆随一。その力を断髪によって弱める事などあり得ない、それが布の考えだったようだ」

「つまりそのような常識すらも無視するほどに、斎主様の怒りは激しかった、と言いたいのですな」


 頷く毘沙姫。布姫が人の子であるように斎主とて人の子。明らかに自分たちに不利になると分かっていながら、それをせずにはいられなかったのです。


「お二方とも、話がずれておりますぞ。そのように済んでしまった出来事をあれこれ議論しても意味はない。今は雁四郎の助命を考えてくだされ」


 寛右に言われて「これは失礼」とばかりに頭を下げる友乗。仏頂面で腕組みをする毘沙姫。考えろと言われても既に二人は十分考えています。それでも名案が出て来ないので話がずれてしまったのです。さほどの間も置かずに友乗が答えました。


「寛右殿、残念ながら雁四郎は諦めるしかないのではないか。江戸における乗里様の貢献を名目にしてわしも口添えをしてはみるが、さほどの効果があるとは思えぬ」

「私も同じ考えだ。こうなったら雁四郎の助命より、厳左を如何に思い留まらせるかを考えた方がいい。なんなら私が間渡矢へ乗り込み、力尽くで厳左を黙らせても良いぞ。無想剣、まさかまだ生きていたとはな。久しぶりに生死を懸けた戦いにこの身を置けるのかと思うと、体中の血がたぎってくる」


 毘沙姫の髪の先端が淡く光っています。そこに居るのは寛右との話し合いに応じてくれる伊瀬の姫ではなく、力と技の闘争に喜びを見出す一人の武人でした。こうなっては毘沙姫から名案など出て来るはずがありません。寛右は二人に向かって頭を下げました。


「お二方の考え、よく分かった。ならばこれで話し合いは終わると致そう」

「うむ。余り良い知恵が出て来なかったな。申し訳ない」

「いや、友乗殿には明日同行していただけるだけで十分有難いと思っておる。それから毘沙姫様、お申し出は嬉しいが厳左殿と一戦交えるのは斎主様との謁見が済んでからという事にして、ひとまず雁四郎の事は某に任せてくれぬか」

「それは構わぬが……何か考えでもあるのか、寛右」


 雁四郎に関しては何の策も見出せていないのです。このまま終わって良いのかどうか心配顔の毘沙姫に対して、寛右は頼りなげな、それでいて自信を感じさせる声で答えました。


「お二方の申す通り雁四郎に関しては完全に八方塞がりだ。だがひとつだけ、針の穴ほどの突破口があるのだ。一か八か明日はそこを突いてみようと思う。時に毘沙姫様、重ねてお尋ねするが、雁四郎は二刀を得意としていると聞く。此度も脇差と本差の両方を抜いたのであろうか」

「いや、本差しか抜いていない。確かに雁四郎は二刀に秀でているが速さと強さでは一刀に劣るからな。最初の一撃に己の全てを懸けて挑んだのだろう」


 毘沙姫の返事を聞いて厳左の顔が少し綻びました。どうやら満足のいく答えだったようです。


「それを聞いて針の穴ほどだった突破口が蓮根の穴ほどに広がりました。さて明日は比寿家と松平家の命運を懸けた謁見。今宵はゆっくり休みましょうぞ」


 こうして三人の話し合いは終わり、その日は酒を飲む事もなく早々と床に就いたのでした。


「このように眠れぬ夜を迎えるのはあの時以来だな」


 隣の客間から聞こえてくる毘沙姫の寝息を聞きながら、寛右はもう何度も寝返りを打っていました。眠れない寛右の中に蘇るのは飛魚丸夭折の記憶。あの時も今と同じく眠れぬ一夜を過ごした後、自らの腹を切って全ての責任を取ろうとしたのでした。間一髪のところで未遂に終わったものの、あれ以来寛右は自分の命は既に無きものと覚悟を決め、比寿家に奉公してきたのです。


「もし、雁四郎の助命嘆願が不首尾に終われば、某自らが腹を切って厳左殿を思い留まらせるよりあるまい」


 毘沙姫の武の力を借りて厳左の斎主宮攻めを阻止しようとすれば、間違いなくどちらかの命が失われるでしょう。最悪の場合、共倒れの可能性すらあり得ます。どのような結果になろうと、その後の姫衆との関係、公儀との関係は今より悪化するのは目に見えています。

 武よりも情で厳左の心に訴えるのが最善の策、そして自分に残された唯一の道……寛右の心は既に決まっていました。


「飛魚丸様が亡くなった時に一度は捨てた命なのだ。良き使い道が見付かったというものだ」


 さりとて寛右は雁四郎助命の道を完全に諦めたわけではありませんでした。完全に凍り付いた湖面の下で微かに動き始めた水のように頼りなげな希望を抱きながら、眠れぬ夜を過ごす寛右ではありました。

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