雪下出麦その二 厳左の冬

 冬になって池の水温が下がると、鯉は水の底に沈んでほとんど動かなくなります。毎朝餌をやりに来ていた厳左も、今は昼下がりの晴れた日に池に来て様子を見るだけになりました。


「餌がやれずに張り合いがないのう、厳左」


 瀬津姫の件が一段落した翌日、釣りを終えて厨房から座敷に戻ろうとしていた恵姫は、池に佇む厳左に声を掛けました。所在なさげに水面を眺めるその姿には老境の憂愁すら感じます。実際、間渡矢襲撃の一件以来、厳左の覇気は目に見えて衰えていました。既に自分の役目は終わった、そう感じているのかもしれません。


「今日の釣果はいかがであった、恵姫様」

「まずまずじゃ。それよりも才に何の沙汰も下さなかった事、礼を言うぞ」


 厳左は表情を変えずに首を振って答えました。


「あれは寛右殿や目付方とも協議の上で決まった事。礼を言われる筋合いではない。それにお福が記伊の姫ならば、連れ帰ろうとした瀬津姫だけが悪いとは言い切れぬ。己の素性を隠していたお福にも非はあるのだからな」


 厳左の言葉に顔を曇らせる恵姫。お福に悪気がないのは分かってはいるものの、自分の身分を隠していたのは事実なのです。騙されていた、と感じるのは厳左だけでなく他の者とて同じ気持ちなのでした。


「時にお福の様子はどうだ。これまで通り、役目に励んでおるか」

「いや、やはり何やら感付いておるようじゃのう。お福が記伊の次期斎宗様と分かった以上、わらわたちも知らぬ間によそよそしく接してしまう。それを敏感に察しておるのじゃろう。何も言わずとも何かあったと薄々気付いておるようじゃ」


 あの夜の出来事はお福には教えていません。昨日の大書院での吟味もお福に知られぬよう細心の配慮の元に行われたのです。ただ、そんな状態をいつまでも続けるわけにはいかない事も分かっていました。いつかはこの件に関してお福に問いたださなくてはならない日が来るはずです。それをいつ、どのように行うべきか、厳左も寛右も名案を思い付けなかったのです。


「厳左、ここは寛右の申し出に従って伊瀬の斎主様に文を書くのが一番ではないか。こんな事態を招いたのはお福ではなく、むしろお福を女中に推挙した神宮、つまりは斎主様じゃ。お福は斎主様の命に従い己の素性を隠し続けたわけじゃからのう。お福を問いただすより斎主様を問いただす方が理に適っておる」


 恵姫の意見はもっともでした。しかしそれは厳左にとって容易には実行し難いものでした。伊瀬の斎主は江戸において将軍綱吉公や側用人の吉保を言い負かし、姫衆に有利な立場をもぎ取るほどの口達者。それほどの者を相手に事を構えるような真似は、できる事なら避けて通りたいのでした。


「姫様の考えはよく分かる。しかしここで我らの方から動く必要は無いのではないか。お福が間渡矢に来たのは、恐らくほうき星の出現と関係があるからだ。ならば立春が過ぎ、ほうき星が消えれば、お福が間渡矢に居る必要もなくなり、斎主からも何らかの動きがあるはず。それまで待ってみるのも一つの手だ」


 恵姫は厳左の顔をまじまじと見詰めました。気が付かぬ間に頬の肉が落ち、皺が増え、目の窪みも深くなっています。屈強の武人厳左にも老いの影は確実に忍び寄っているのでした。それは体だけでなく心もまた同じなのでしょう。


「厳左も随分と丸くなったものじゃな。以前ならばその日のうちに伊瀬へ出向き、斎主と直談判したであろうに」

「ははは、如何に血気盛んな頃のわしであっても、そこまでの無分別はない。今は事を荒立てたくないだけなのだ。恵姫様の輿入れが決まった以上、比寿家の醜聞となるような行為は絶対に避けねばならぬ。でなければ松平家にまで迷惑が及ぶばかりか破談になる恐れすらある。ここは慎重に事を進めたいのだ」


 つまりはお福の素性など知らなかった事にして、このまま放っておけと言いたいのです。厳左にしては少々弱気な策ですが、それもこれも恵姫の縁談を第一に考えているからです。お福の件など今の厳左にとってはさして重要な事柄ではないのでした。


 結局、何の解決策も見出せぬまま結論は先送りされ、恵姫は何とも中途半端な気持ちのまま日々を過ごす事となりました。時々お福と顔を合わすたびに胸がキュっと引き締まる思いがします。悪巧みを隠す事には何の抵抗も感じない恵姫でしたが、この隠し事だけは不思議と胸が痛むのでした。


『このような毎日、早く終わって欲しいものじゃ。いっその事全てをお福に喋ってしまおうか』


 そんな想いに囚われる時もありましたが、そんな事をしてしまえば斎主への尋問は避けられなくなります。厳左や寛右の意向を無視して勝手な振る舞いはできないのでした。

 悶々としたまま数日が過ぎたある日、間渡矢に届いた一通の文により事態は予想外の展開を見せる事になりました。


「斎主宮から文じゃと。見せてみよ」


 それは斎主直々に書かれた文でした。内容は至極簡単、間渡矢の姫たちは皆、直ちに伊瀬の斎主宮へ参上する旨書かれていたのです。ただし一緒にお福も連れてくる事、与太郎を連れてくる必要はない事、この二つも付け加えられていました。


「恵姫様、如何思われる。お福の素性が露見した事に斎主様は気付いたのではないか。その弁明の為に召集を掛けられた、そう考えるのが最も自然に思われるが」

「いや、それならば斎主宮へ赴くのはわらわとお福だけで十分であろう。黒や才などに弁明する必要はないからな。むしろ厳左や寛右を呼ぶはずじゃ」

「では、この召集の真意はどこにあると考える」

「恐らくほうき星に関しての召集なのではないか。既に師走に入り立春まで残りひと月。毘沙も師走になれば伊瀬に向かうと言っておった。召集を掛けたのは間渡矢の姫だけではなく、毘沙や布にも同じ文が届けられているのではないかのう」


 恵姫の思惑通りならば厳左の口出しは無用です。ほうき星に関しては完全に姫衆の専権事項だからです。

 斎主の真意はどうであれ召集が掛かった以上はそれに従わざるを得ません。すぐに黒姫、才姫に文の内容が知らされ旅の支度に取り掛かりました。前回は伊瀬へ最短の磯辺街道を使いましたが、冬の逢阪峠越えは強風と雪の心配があるため、今回は島羽周りで行く事となりました。

 こうして師走六日の朝、雁四郎を警護に加えた恵姫たち五人は間渡矢を発ったのです。


「師走の旅って初めてだよ~。ちょっとわくわくしちゃうかも」


 黒姫は大はしゃぎですが、それ以外の四人は表情が冴えません。江戸往復の長旅を終えて間渡矢に戻って来てからまだ二十日も経っていないのです。旅の疲れが抜け切らないうちに再び旅を始めるのですから、気が進まないのも無理はないのでした。


「恵、あんたも機嫌が悪そうだねえ。島羽や伊瀬で飲み食いできるんだよ。嬉しくないのかい」


 普段の恵姫ならば伊瀬に行けると聞いただけで小躍りするのですが、珍しい事にそんな様子は全くありません。


「此度だけはどうにも気が乗らぬのじゃ。実は文を読んだ寛右が妙に不安げな顔をしおってな。斎主様の書かれた文字、筆遣いには迷いが感じられる。何かを腹に含んだまま書いているような気がしてならぬ。くれぐれも軽率な振る舞いは控えるようにとわらわに言いよったのじゃ」

「寛右様は人の心の機微には大変敏感なお方ですからなあ。公儀の企みをいち早く見抜いたのも寛右様です。恵姫様も忠告に従って、斎主様の前ではこれまで以上に猫を被っていただいた方がよろしいかと思われまするぞ」


 列の最後尾から聞こえてきた雁四郎の声に振り向く恵姫。その姿を見て笑いが漏れます。


「ぷぷっ、城を出る時から思っておったのじゃがな、雁四郎よ。その刀は何じゃ。鞘が桜色ではないか。いつもの黒光りした刀はどうしたのじゃ」

「これも寛右様の言い付けでござる。これからは武家と姫衆が手を取り合う世なれば、斎主宮の女官たちの気を乱す事がないように、これ以降、伊瀬へ赴く時は必ずこの桜の刀を帯びるようにとのご命令なのです。あれで寛右様も意外と女心に精通しておられるようですな」


 そこまで斎主宮に気を使う事もなかろうものをと思いつつ、桜色の刀ならば自分も差してみたいものだと、ちょっと雁四郎が羨ましくなる恵姫ではありました。

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