橘始黄その五 終着点

「杜若と綾目……」


 その名を聞いた時、恵姫の頭の中に忘れていた風景が蘇りました、お福を見ると、やはり話の意外な成り行きに目を丸くしています。


「驚いたのは私も同様でございました。偶然出会った若者の名が父と同じ、杜若だったのですから」


 綾目は愉快そうに笑うと、杜若に代わって話を始めました。


「私の生国は京の都です。父は若い頃、美農で宮大工をしていたそうですが、縁あって京に移り住み、そのまま母と所帯を持ったのでした。腕の良い父に仕事の依頼は絶える事なく、私は弟と二人で何不自由なく暮らしておりました。毘沙姫様とは、まだ弟が生まれていない幼い頃、父が初めて京の都で建てたという神社でお会いしたのです。それは会ったというより見掛けたと言った方が正しいかもしれません。父と親しげに話された後、帰っていく私たちを見送る毘沙姫様の姿は、神社を守護する軍神のように見えました。それから何年も経って熱田の神社を改修するため、私は父と二人でこの尾治の地にやって来たのです。そこで杜若様とお会いし、こうして縁を結ぶ事となりました。父と同じ名を持つ若者、それだけで私の心は決まってしまったのかもしれません」

「ははは、名に惚れたってわけかい。まあ、それもひとつの恋の形さね」


 何も知らない才姫は半分冷やかすように笑っています。

 これで二人の話は終わってしまったのでしょう。もう何も言おうとせず、少し照れた表情をして菖蒲丸の世話をしています。


「そなたたちの親は顔を合わせる事はなかったのか」

「いえ、たった一度だけ、式を挙げる日、互いに互いの家族と顔を合わせました。義父は京に帰る前だったので義母と義弟に尾治まで足を運んでもらい、私は家族を美濃から呼び寄せました。私の母は滅多に泣かないのですが、その日ばかりは不思議と涙脆かったように記憶しております。ポロポロと涙を流しておりました」

「私の父もそうですよ。あんなに涙を流す父は初めて見ました。けれどもそれは私と別れる悲しみと言うより、久しく離れていた大切な何かにようやく出会えた、そんな喜びを感じさせる涙に見えました」

「親なんてそんなものさね。中には嫁の貰い手が見付からず泣いている親もいるんだ。嫁に行く時に親を泣かせるのは孝行娘の証さね」


 少し酔っている才姫。まだ嫁に行っていない自分自身を揶揄っているようです。しかし恵姫とお福は真剣な面持ちで二人の話を聞いていました。確信は持てないものの、これはあるひとつの物語の続きなのではないか、そんな考えを二人は抱いていたからです。


「そなたたち、根付を持っているのではないか。もしあれば見せてくれぬか」


 突然恵姫に声を掛けられ、顔を見合わせる二人。それでも綾目は帯に手を差し入れると、そこから小さな巾着袋を取り出しました。口を縛る紐には花姿の彫られた木製の根付がついています。


「はい、持っております。式を挙げた日に父からいただいたカキツバタの根付。煙草入れに使っていた根付をわざわざ外し、『もう私には必要ない、おまえが持っていなさい』そう言われて私にくださったのです」


 その根付を見た杜若も帯から財布を取り出しました。やはり花姿の彫られた根付がついています。


「私は母からいただきました。やはり式を挙げたその日、巾着袋に使っていたアヤメの根付をわざわざ外し、『私たちの想いは叶えられました。これはおまえに託します』そう言って手渡してくれたのです。こうして並べて見ますとよく似ている、というよりもそっくりだ」

「本当! 今まで気付かなかったのが嘘みたいに似ておりますね」

「へえ~、ならあんたたちの名だけじゃなく、根付までもが二人を引き合わせたって事かい。まるで前世から結ばれる事が決まっていたような話じゃないか」


 もう間違いない、恵姫はそう思いました。五カ月前、毘沙姫から聞かされた物語の結末を、今、ようやく知る事ができたのです。人と人のめぐり逢い、その間に働く縁という力。その力の持つ底知れぬ不可思議さと温もりを、恵姫は改めて思い知らされたような気がするのでした。


「そうか、杜若と綾目の想いは叶えられたのか。二人ともさぞかし嬉しかったであろうな。今日は良き話を聞かせてもらった。のう、お福、そなたもそう思うじゃろう」


 恵姫が声を掛けると、お福は大きく頷きました。その目尻に光っているのは、言うまでもなく嬉し涙に違いないのでした。


 * * *


 翌日、まだ巳の刻にならないうちから、間渡矢丸が打ち上げられた浜には大勢の人々が集まっていました。恵姫が大業を使うと聞き、中野村のみならず宮宿からも人が押し掛けていたのです。


「恵姫様ー、板はしっかりと貼り付いておりますー。思う存分業を使ってくだされー!」


 船首の下から杜若が大声で叫びました。既に間渡矢の六人は船に乗り込んでいます。


「うむ。わらわの姫の業、とくと目に焼き付けるがよい」


 船の尾部に立ち海に向かって両手を広げる恵姫。扇形に持ち上がる黒髪。青色に光り出す髪の先端。そして浜に響き渡る恵姫の声。


「満ちよ!」


 たちまちのうちに浜が海水で満たされました。間渡矢丸は船体を揺らしながら重々しく浮かび上がります。まるで津波が押し寄せてきたかのような光景に集まった人々は恐怖を感じているのか、声を上げる者は一人もいません。


退け!」


 恵姫の声と共に間渡矢丸は反転すると、船首を南に向けて波と共に沖へ退いて行きます。ここで観衆からは一斉に歓声が湧き上がりました。


「杜若殿、綾目殿ー! 世話になった。礼を申すぞー!」


 雁四郎が手を振りながら叫びます。それに答えるように浜で手を振る杜若、綾目、菖蒲丸の三人。その背後に立つ黄色い実をつけた橘の木。それらの姿もやがて遠ざかり小さくなっていきます。

 最後まで浜を見詰めていた恵姫とお福。陸地がすっかり遠ざかってしまうと二人で顔を見合わせました。


「昨晩の事は黒にも話してやらねばならぬのう。この手の話が大好きな娘じゃからな。泣いて喜ぶに違いないわい。ああ、毘沙には話す必要はないな。話したところで『そうか、よかったな』の一言しか返って来ぬのは目に見えておるからのう」


 笑いながら頷くお福。二人の話を聞き付けた才姫が声を掛けてきました。


「なんだい、二人だけで内緒話かい。昨晩からあんたたち様子が変だったし、何か隠し事でもあるんじゃないのかい」

「そうじゃな、才には話してもよいじゃろうな。黒に教える時に一緒に聞かせてやろう。此度は実に有意義な道草であった」


 これを聞き付けた雁四郎も声を掛けてきました。


「どこが有意義なのですか。この道草のおかげで到着は遅れ、余計な銭も使ってしまったのですよ。これでは伊瀬の滞在は短縮してもらわねば困ります」

「堅い事を言うんじゃないよ、雁。それに恵の魚やあたしの診察のおかげで、修理代は半分に負けてもらえたんだろう。伊瀬でものんびり過ごそうじゃないか」


 言い返せない雁四郎。その通りだったからです。


「さてと、今日は日差しもなくて寒いし、あたしは中に入るよ」


 才姫は赤鯛の間へ歩いていきます。お福、雁四郎もそれに続きます。一人残った恵姫は間渡矢丸の帆柱を見上げました。


「此度ほどそなたを愛おしく思った事はないぞ、間渡矢丸。わらわが見た夢、あれは間渡矢の座敷で聞いた毘沙の話、あの時の風景であったのだな。そしてわらわの意思を汲んで、杜若と綾目の子らが住む、あの常世の国の浜まで連れてきてくれようとは……」


 恵姫は間渡矢丸の帆柱を優しく撫でました。それはまるで生き物のような温かさを持っています。


「間渡矢丸、今日でそなたとの旅も終わりじゃ。最後はしっかりわらわを島羽まで送り届けるのじゃぞ」


 杜若と綾目、ずっと彷徨っていた二人の想いはようやく終着点にたどり着けました。そして恵姫たちの旅も間もなく終わろうとしています。ふた月近い旅の中で起きた様々な出来事、それはもう遠い過去の日々のように思われます。曇天下を南へ突き進む間渡矢丸の上で潮風を受けながら、今一度、長かった旅の思い出に耽る恵姫ではありました。

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