橘始黄その四 若夫婦

 女が持ってきた弁当は握り飯と香の物だけの質素なものでした。それでもその心遣いを嬉しく感じた間渡矢の面々。お浪の採った蛤で潮汁を作り、恵姫の釣った石鯛を刺身にすると、八人が集まった赤鯛の間はちょっとした宴の席のようになりました。


「これはまた豪勢な昼食ですね。有難くいただきます」

「菖蒲丸、お行儀よく食べるのですよ」

「はい。いただきまする」


 夫婦とその子の心温まる食事の風景に、恵姫たちも心が和みます。


「才も食いに戻って来れば良かったのにのう。それほど病持ちの者が多い村なのか」

「名医と名高い才姫様がお見えになったとあって、さほど具合の悪くない者まで押し寄せているのですよ。それでも才姫様は丁寧に診ておいでのようです」


 どうやらこの夫婦の家で村の者たちを診ているようです。女にとってはさぞかし迷惑な事でしょう。


「才は夢中になると寝食を忘れるからのう。お福が病の時は飲まず食わずで治療しておった。その点だけは尊敬に値するわい」

「姫を見るのは初めてという者も居りまして、皆、一目会いたいと思っているのでしょう。私も伊瀬の姫にお会いするのはこれが二度目でございます」

「ほう、一目度は誰に会ったのじゃ」

「名前は……はて、忘れてしまいました。大きな剣を背負っていた事だけは覚えているのですが」


 女の言葉を聞いた若者は少し驚いた顔をしました。


「おや、おまえもその姫に会ったのか。実は私も昔会った事がある。女とは思えぬ男勝りで大柄の姫であった。確か名は……」

「毘沙じゃ。彼奴はあちこちほっつき歩いておるからのう。まあ、会う機会が一番多い姫と言えような」

「そう、毘沙姫様です。思い出しましたよ。ははは」


 愉快そうに声を上げて笑う男と女。きっと面白い思い出があるのでしょう。毘沙姫なら何かやらかしていたとしても不思議ではありません。


「ところで恵姫様たちはどうしてこの地にお出でになったのですか」

「うぐっ!」


 食べていた石鯛の刺身を喉に詰まらせそうになる恵姫。まさか変な夢を見ていたら知らぬ間に船が浜に打ち上がっていた、などとは、伊瀬の姫衆の名誉に懸けても言えるはずがありません。


「あ~、そ、それはじゃな、つまりじゃな……」


 恵姫の頭は急回転しています。磯嶋との化かし合いの日々で培った、言い訳と作り話と誤魔化しと戯言の成果を発揮するのは今しかありません。


「わらわたちは参勤交代で国許へ帰る父上を迎えに江戸へ行ったのじゃがな。残念ながら父上の病が重く、わらわたちだけ戻る事となったのじゃ。その途中、夢枕に女神様が現れてのう。『志麻に帰る前に尾治に寄りなさい』と言われたのじゃ。ほれ、尾治の熱田には神宮様があるじゃろう。三種の神器のひとつ草薙剣を祀っておる有難い神社じゃ。恐らくそこに参れとの意味じゃと思い船を北に向けたのじゃが、運悪く波は高く風は強く、お浪お弱の必死の努力も空しく、この様な目に遭ってしまったというわけじゃ」

「それはお気の毒な事でございましたね。昨晩、それほど海が荒れていたとは気が付きませんでした」


 同情する若夫婦を尻目に、恵姫以外の者たちは何も言いません。ここは知らん振りを決め込むのが一番です。


「ならば明日は宮宿へ行かれては如何ですか。女神様のお告げとあれば従わないわけにはいきますまい」

「それは御遠慮させていただく」


 男の申し出をきっぱりと断る雁四郎です。


「女神様は神宮に参れと言われたのではない。尾治に行けと言われたのでござる。こうして中野村に来たのだから目的は達せられたと考えてよいはず。宮宿へ行く必要はないと思われまする」

『ちっ、雁四郎の奴め。宮宿見物を企てたわらわの腹の内を見抜きおったか』


 胸の内で舌打ちをする恵姫。嘘の言い訳と同時に宮宿へ行く算段までしていたのですから、物見遊山に対する恵姫の情熱は凄まじいものがあると言えましょう。


「そうですか。では何もない村ですがゆっくりとしていってください」


 実に気の好い若者です。乗里とはまるで正反対で、恵姫たちの言葉を微塵も疑っていません。その傍らに寄りそう女も気立ての良さそうな娘です。どんな成り行きで夫婦になったのか、少し気になる恵姫、女に尋ねてみました。


「そなたたちは良き夫婦であるな。どのように知り合ったのじゃ」


 いきなり問われて顔を赤らめる女。男も照れたように笑うと、


「いえ、私たちの馴れ初めなど、そこらに転がっている有り触れた話に過ぎません。それでも聞きたいと言われるならば、そろそろ昼も終わりますし、夜、我が家にてゆっくりお話し致しましょう」


 そう言って二人は顔を見合せにっこりと笑いました。まるで友人同士のような気楽な姿に、ほんの少し羨望を感じる恵姫でした。


 昼からも恵姫たちは同じように時を過ごしました。お福は菖蒲丸を連れて女と一緒に村へ帰り、雁四郎、お弱、男の三人は船の修理。恵姫は釣り、お浪は海女仕事。波の音を聞きながらのんびりと流れる時間。やがてまだ日が沈まぬうちに船の修理は終わりました。


「これで膠が固まれば、余程海が荒れぬ限り島羽までは持つと思われます。明日の昼前には発てましょう」

「有難い。本当に助かった」


 頭を下げる雁四郎。男は笑顔で答えます。


「夕食には少し早いですが一緒に村まで戻りませんか。恵姫様の姿を見られれば村人も喜びましょう」


 昼前からずっと釣りをしていたので、さすがに恵姫も疲れていました。船を無人にするわけにはいかないので、お浪とお弱を留守番に残し、雁四郎と三人で村に向かいます。

 男の屋敷にはまだ大勢の村人が居ました。もう一人の姫が現れたとあって恵姫は大人気です。


「ああ、これこれ騒ぐでないぞ中野村の者たちよ。これはわらわたちが一日掛けて手に入れた海の幸である。皆で仲良く分け合って食べるがよいぞ」


 自分が釣り上げた魚とお浪の採った貝を村人たちに分け与える恵姫。村人たちは益々喜び、中には銭や野菜を置いていく者も居ます。伊瀬の姫が海から拾い上げた幸、それだけで有難く思えるのでしょう。


「珍しいね、恵がこんなに好かれるなんて。これだけでもここに来た甲斐があったんじゃないのかい」


 朝から休みなく働いていた割には元気な才姫。その手には小槌が握られています。どうやら与太郎から教わった打腱診断を、この村の人々で試していたようです。


「さあ、皆、今日はこれで終わりだ。悪いけど帰っておくれ。またここに来る事があったら診てやるよ」


 才姫の終了宣言と共に、村人たちは帰っていきました。誰もが心地よい疲労感に包まれていました。いつものお役目とは違う、本当に他者のためだけに働いた一日。それは日常を離れた旅の中だけで味わえる、非日常的な体験であったからでしょう。

 一日の獲物を分け与えたと言っても自分たちの分は残してあります。さっそく夕食の支度に取り掛かる恵姫たち。昼以上に豪勢な食事になりました。


「これはまた盆と正月と五節供が一緒に来たような賑やかさですな。有難くいただきます」

「菖蒲丸、お行儀よく食べるのですよ」

「はい、いただきまする」


 薄暮の中で始まった七人の夕食会。魚と貝をふんだんに使い、恵姫と女とお福が腕によりを掛けて作った料理が並んでいます。才姫は村人が持ってきてくれた酒を飲んでご満悦です。

 やがて食事も終わりに差し掛かった頃、ようやく男が言い出しました。


「さて、それではお話ししましょうか。私たち二人の馴れ初めを」

「馴れ初め? はは、そりゃいいね。恵たちと一緒に居ると色気のいの字もないからね。聞かせておくれ」


 乗り気の才姫に押されるように男は話し始めました。


「今でこそ尾治に住んでおりますが、私の生国は美農でございます。山里の、木こりと炭焼きを営む家に生まれたのです。幼き頃より木に慣れ親しんでおりましたせいか、木工細工の腕前は人並み以上に優れておりまして、炭焼きを継がせるには惜しいと感じた母の勧めもあり、大工の棟梁の元で働く事となりました。そこで腕を磨いた私はやがてひとつの夢を抱くようになったのです。船、それも巨大な船を作ってみたい、それが私の夢でした。山里に育ったせいか、海を見た事も、海を渡る船を見た事もありません。見た事がないゆえに憧れは日増しに強くなります。とうとうある日、私は両親に打ち明けました。尾治へ行って船大工になりたいと。父も母も快く認めてくれました。私は長男でありましたが弟もおりましたので、跡は弟に継がせる、お前は好きなように生きるがよい、父はそう言ってくれたのです。そうして尾治に出て船大工の修行を続けていたある日、熱田の神社を改修するために大工を募っているという話を聞き付けました。私は余り乗り気ではなかったのですが、人手不足でどうしても手を貸して欲しいと懇願され、渋々熱田の地へ向かう事となりました。そこで妻と出会ったのです。驚きました。妻の名は私の母の名と同じだったのです」

「名? おお、そう言えばそなたたちの名をまだ聞いてはおらなんだのう。何という名じゃ」

「はい、私の名は杜若とじゃく、妻の名は綾目あやめと申します。そして私の母の名も綾目なのです」

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