虹蔵不見その五 月命日

 江戸を発つ日は明日に迫っていました。縁談の届け出、与太郎召喚の儀、殿様の病の診察。全てを終えた恵姫たちに残されたお役目は後ひとつ、間渡矢へ帰る事です。

 明朝の出発に向けて今日は朝から大忙しの間渡矢の面々。荷物の整理に追われている才姫。上屋敷の番方たちへ挨拶周りをしている雁四郎。お福は世話になった女中たちに手作りのお礼の品を渡しているようです。


「で、恵、あんたはいつもと同じように寝転がっているけど、出発の支度はできたのかい」

「ふっ、別に支度などないわ。わらわが持って来た荷などたかが知れておる。女中に命じて左右衛門の屋敷に放り込んでおけば、今日のうちに御座船へ運んでくれるはずじゃ」

「松平家への挨拶はいいのかい。乗里ともしばらく会えなくなるんだろう」

「それも左右衛門が行ってくれるはずじゃ。わらわが足を運ぶまでもない」


 気の乗らない事は全て他人任せの恵姫。これ以上何を言っても無駄だと悟った才姫は、無駄口を止めて荷物の整理を続けます。と、ここで思いも掛けない人物が座敷の襖を開けました。


「恵、少し付き合ってくれませんか」


 声を聞いただけで恵姫は飛び起きました。奥方だったのです。


「は、母上。このような小汚い座敷に参られずとも、呼んでいただければこちらから伺いましたのに」


 自分で自分の座敷を小汚いと評するとは、自分の無精を自ら認めているようなものです。それでも奥方は気にもせず、小春日和のような声で話します。


「いえいえ、私のところに参ってもらっても仕方がないのです。屋敷の外に出るのですからね。恵、今日が何の日か忘れたのですか」


 そう言われて恵姫はようやく気付きました。今日は飛魚丸の月命日、奥方は恵姫を墓参りに誘いに来たのです。


「いえ、忘れてなどおりませぬ。母上、お供させてくださいませ」


 出発前日の慌ただしさの中ですが恵姫には関係ありません。色好い返事を貰えた奥方はにっこりと微笑みました。

 

 ほどなく恵姫と奥方は警護の雁四郎と共に、江戸における比寿家の菩提寺、海鳴寺にやって来ました。生憎小雨が降りしきる日和でしたが、寺に着いた時にはほとんど止んでいました。


「そなたたちが江戸に着いたのは九月の月命日を済ませた翌日。このまま墓に参る事もなく間渡矢に帰ってしまうのかと思っていましたが、こうして共に墓参りをする事ができました。きっと飛魚丸が会いたがっているのでしょう」


 奥方の言葉通り、恵姫たちは結局丸ひと月の間、江戸に滞在していたのでした。飛魚丸の墓参りに行こうと思えば行けたはずです。しかし、いつ来るか分からぬ与太郎を待っている身としては、なるべく無用な外出を避けたかったのです。

 境内を進む三人。恵姫は例の如く猫を被って奥方に話し掛けます。


「ここは初めて参る寺です。比寿家の御先祖様が多く眠っておられるのですか」

「いいえ、ここに居るのは飛魚丸と女たちだけ。先代も先々代の当主も、皆、国許で亡くなられたので間渡矢の寺に眠っております。飛魚丸も男一人だけではさぞかし張り合いの無い事でしょうね」


 やがて三人は境内の片隅にある比寿家の廟所に着きました。小さな檜皮葺ひわだぶきの棟門と墓石を囲む土塀。奥方は一礼した後、袖が汚れるのも厭わず墓を清め始めました。これには雁四郎と恵姫も手を貸します。墓石の汚れを落とし、枯れた花を捨て、清められた墓前に新しい花を供え、三人は手を合わせました。


「飛魚丸、今日は姉上が来てくれましたよ。懐かしいでしょう」


 まるでそこに飛魚丸が居るかように話し掛ける奥方。もう亡くなってから何年も経っているのに、奥方にとってはまだつい先日の出来事のように思えているのでしょう。

 それは恵姫も同じでした。飛魚丸と共に過ごしたのはたったひと月の間だけ。なのに今でもその時に見せてくれた可愛らしい笑顔や、たどたどしい言葉が、言いようのない懐かしさと共に恵姫の脳裏に蘇ってくるのです。


「飛魚丸は幸せ者ですね。こうして毎月母上に会えるのですから」

「そう……でも親不孝者ですよ。親より先に逝ってしまったのですからね。子に先立たれた親ほど辛いものはありません。だから恵、あなたは親孝行な娘、母よりも長く生きているのですから。そしてあなたの母もまた幸せだったはず、子よりも先に逝けたのですから」


 恵姫の心が揺れました。それは考えもしなかった言葉でした。これまで自分が親孝行だと思った事も、実の母が幸せだと思った事もなかったからです。

 けれどもこうして亡くなった子の墓に参る奥方を見ていると、この言葉の意味がよく分かるのでした。子である自分が生きている、ただそれだけで親は喜び、幸せを感じるのです。毎月墓に参り、その度に自分の不幸を再認識させられる奥方の胸の内は、どれほどの悲哀に満ちている事か。恵姫は返す言葉が見つからず、ただ奥方の横に立っているだけでした。


「ほう、蓑虫でございますな」


 雁四郎の声に振り向けば、廟所の横に立つ木の枝に、粗末なあばのような蓑虫がぶら下がっています。


「蓑虫は鳴くのですよ。知っていますか、恵」

「はい。昔、間渡矢で母上……今は亡き母に語って聞かせてもらいました。父を恋うて『ちちよ、ちちよ』と鳴くのだと」

「そう、蓑虫は鬼の捨て子。みすぼらしい着物を与えられ、秋風の吹く頃に迎えに来ると言われ、そのまま見捨てられたのです。そうして風が吹くたびに迎えに来るはずの父を恋うて『ちちよ、ちちよ』と鳴くのです。飛魚丸もそうでした。九月になると江戸に来る父を恋うて『父上はまだ来られぬのですか』と私に尋ね、九月になると国許へ帰る父を恋うて『父上はもう行かれるのですか』と私に尋ねるのです。その時ばかりはこの蓑虫のように不憫な子に思えて仕方ありませんでした」


 不意に、奥方のため息のような冬の風が吹いてきました。儚げに風に揺れる蓑虫。その薄幸な姿を見ていると、聞こえるはずのない蓑虫の鳴き声が聞こえるような気がするのでした。


「聞きましたよ、恵。殿が亡くなれば比寿家は断絶するのでしょう。もし殿が国許で亡くなれば、この墓に入るのは私が最後となりましょう。そして比寿家の名が忘れられていくにつれ、この墓も荒れ果てていくのでしょうね」

「母上、申し訳ありませぬ。全ては私の不徳の致すところでございます」


 今でも比寿家断絶には抵抗を感じている恵姫。しかし老中の前で断絶を了承してしまった以上、もはや何を言っても単なる弁解に過ぎません。唇を噛んで俯く恵姫を優しい眼差しで見守りながら、奥方が答えました。


「よいのです、恵。思えば飛魚丸が逝った時、比寿家の命運は決してしまったのでしょうね。もし殿に先立たれる事があれば、私は頭を丸め、この寺に入るつもりです。そして余生を飛魚丸と殿の供養に捧げようと心に決めております」

「母上……」


 そのような生き方は恵姫には考えられませんでした。正室として比寿家に迎えられながら、江戸屋敷でひっそりと過ごし、殿様が亡くなれば出家して寺で余生を過ごす……まるで籠の中の鳥のような生き方。しかし、それはこの時代のほとんどの武家の女の人生でもありました。


「恵、そなたは武家でありながら姫衆のひとり。他の女たちには叶わぬ生き方ができるはずです。他の女たちの持ち得ぬ多くの幸をその身に帯びているのです。その幸せを常に感じて生きていきなさい。義理とは申しても私はそなたの母。この江戸の地でいつもそなたの幸を願っていますよ」

「有難いお言葉、感謝致します母上。恵もまた父上、母上から受けた恩義を忘れる事無く、精進して参りたいと思います」


 恵姫は顔を上げました。覆っていた雲が切れて青空が見えています。墓地を囲む樹木の枝から落ちる雨の滴が、日に照らされて金剛石のように輝いています。


「虹は……出ていないようですね。春になるまではあの美しい姿は見られないのでしょうね、母上」

「いいえ、虹は出ておりますよ、恵」


 奥方が顔を向けている空を見上げる恵姫。そこにあるのは切れ始めた雨雲と僅かな青空。虹は見当たりません。


「母上、どこに出ているのでしょうか。見えませぬ」

「見えぬと思っていては見える物も見えませぬ。見ようと思って初めて見えてくるのです。恵、そなたがどれほどの幸を帯びているか、まだ気付いてはいないのでしょう。これからは隠れた虹を探すようにその幸を見出すように努めなさい。それに気付いてさえいれば、どれほどの不幸に落とされようと決して挫けはしないでしょう」


 奥方の言葉を聞いて再び空に顔を向け、見えぬ虹を探そうとするふたつの瞳。その瞳に虹が宿っている事にも気付かず、ただ無心に空を見詰め続ける恵姫ではありました。

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