第五十九話 きたかぜ このはをはらう
朔風払葉その一 手向け花火
御座船間渡矢丸の上で釣糸を垂れる恵姫。今日は朝から「
「大漁でございますな、恵姫様」
雁四郎が声を掛けてきました。江戸に向かっている時には、こうして船を止めて釣り糸を垂れているだけで文句を言ってきたのに、今はにこにこ顔で竿捌きを眺めています。
「随分と機嫌が良いではないか、雁四郎。わらわが釣りをしておっても良いのか。道草しておっても良いのか」
「構いませぬとも。行きと違って帰りに到着の期限はありません。それに今日まで船は順調に進んでおります。この調子ならば予定通り、明日の昼前には下田に着きましょう」
江戸を発って既に四日。行きと同じく帰りも下田に宿を取ってあります。
「ふむ、明日はもう下田か。江戸も遠くなってしまったのう」
そうして恵姫は四日前の江戸湊を思い出すのでした。
* * *
ひと月に渡って江戸に滞在した恵姫たち四人。様々な思い出を作った比寿家上屋敷を去る日がとうとうやって来ました。
「恵姫様、間渡矢の皆様、道中のご無事をお祈り致しております」
屋敷の門前にずらりと並ぶ見送りの番方、役方、女中たち。恵姫は皆に顔を向け別れの挨拶をします。
「うむ、世話になったな。父上はもう一年江戸に留まる事となった。これからも変わらぬ忠義を尽くしてくれ。では参るとするか。皆の者、達者で暮らせよ」
歩き出す恵姫。その後に続く才姫、お福、雁四郎。そして行きと同じく左右衛門と供の者。早朝の光の中、六人は下屋敷へ向けて出発しました。
「早いものでございますな。同じ道を歩いて上屋敷へ向かっていたのが昨日の事のように思われまする」
「あの時の雁は陸酔いで、ふらふらしながら歩いていたからねえ。今朝は昨晩の酒が残ってふらついているんじゃないのかい」
「御冗談はおやめくだされ、才姫様。さほど飲んではおりませぬ」
と弁解しつつも昨晩開かれた「間渡矢の皆様を送る宴」ではいつになく盃を傾けてしまった雁四郎なのでした。斎主様からいただいた百両ですっかり気が大きくなった左右衛門が、日ごろ滅多に口にできない銘酒やら山海の珍味やらを用意したため、舞い上がった恵姫や才姫に釣られる形で、雁四郎も少々深酒をしてしまったのです。
「雁四郎だけでなく、某も昨晩は騒ぎすぎました。しばらくは節制に努めようかと思っておりますわい」
「それがいいよ、左右衛。ここ数日で随分太ったようだしね。殿様を見習って酒と米を断ち、三食麦飯とお新香だけにしな」
「そ、それはご勘弁くだされ、わははは」
情けない声を出しながらもその顔は笑っています。与太郎の言葉に従って殿様の食事を玄米、麦、豆、糠漬けなどに切り替えたところ、徐々にではありますが改善の兆しが見え始めていたのです。毎日殿様を診ていた才姫もその効果に驚くと共に、これなら来年は国許へ戻って来られるだろうと太鼓判を捺したのでした。
「恵姫様。元気がないように見受けられますが、どうかなされましたか」
左右衛門や才姫の明るさとは対照的にむっつりと黙り込んで歩く恵姫。雁四郎に問われても「眠いだけじゃ」と素っ気ない返事。触らぬ神に祟りなしとばかりに雁四郎は首を引っ込めますが、才姫はにやにや笑っています。
「恵、松平家に挨拶に行かなくてよかったのかい」
いきなり図星を突かれて気が動転する恵姫。慌てて否定します。
「ななな、何を申しておるのじゃ。松平家へは左右衛門が挨拶に行ったであろう。何故わらわまで行かねばならぬのじゃ」
「ふうん、そうかい。ならいいけどさ」
才姫のにやにやは収まりません。恵姫のむっつり具合はますますひどくなります。お福はいつも通り大人しく歩いています。雁四郎と左右衛門は蕎麦掻きと蕎麦切りはどちらが美味いか、激論を戦わせています。そんな五人の後ろを付いていく左右衛門の供の者。こうして冬の早朝を長閑に進んでいく六人はやがて海沿いの下屋敷に到着しました。
「恵姫様、皆様、お帰りなさいませ」
御座船は既に船蔵から出されて岸壁に横付けされており、岸から船に架けられた舷梯の前にはお浪とお弱が並んで立っています。
「おう、お浪、お弱、ひと月ぶりじゃのう。元気にしておったか」
「はい。毎日海に潜っては海女仕事に精を出しておりました。私たちが採りました鮑や栄螺は口に合いましたでしょうか」
「……何じゃと、鮑に栄螺、じゃと」
険しい目付きで左右衛門を睨み付ける恵姫。そんな物が膳に並んだ事は一度もなかったからです。
「左右衛門、そなたまさか独り占めしたのではあるまいな」
「め、滅相もございません。比寿家の窮状は恵姫様もご存じのはず。召し上がっていただきたい気持ちをぐっと堪え、銭に換えたのでございます。お浪、お弱、その方たちのおかげで間渡矢の皆を手厚く持て成す事ができた。礼を言うぞ」
目を白黒させて言い訳する左右衛門を見てくすくす笑うお浪とお弱。自分たちの採った貝が銭に換えられているのは先刻承知だったのです。
「恵姫様、そのまま食べるより銭に換えた方が、余程美味しい物が食べられるのです。左右衛門を許してあげてください」
「ふむ。言われてみればそうかもしれぬな。わらわも貝より魚の方が好きじゃからのう。左右衛門、そなたの遣り繰り上手、これからも頼りにしておるぞ」
「ははっ、今以上に倹約に励み、国許への負担を減らすべく精進致します」
頭を下げる左右衛門。最近少しばかり金遣いが荒くなっていましたが、これで少しは元通りの算盤高い江戸家老に戻ってくれる事でしょう。
「さて、では行くとするか」
舷梯を歩いて御座船へと乗り込む恵姫たち六人。最後のお弱が渡り終えると舷梯は取り外され、御座船はゆっくりと進み始めました。
「恵姫様―! 此度は有難うございましたー! 旅のご無事をお祈りしておりますぞー!」
岸壁で両手を振る左右衛門。その大声も姿も次第に遠ざかっていきます。恵姫は柵にもたれてぼんやりと江戸湊を眺めていました。今、御座船は二隻の伝馬船に曳かれています。沖に出るまでは浅瀬や岩礁に乗り上げる恐れがあるので、恵姫の力を使わずに曳いてもらっているのです。
「名残惜しいのかい、恵」
隣に立っている才姫が曰くありげに尋ねてきました。
「べ、別に江戸には何の未練もない。次にいつ見られるか分からぬ風景なので見ておるだけじゃ」
「ふうん、そうかい……おや、あれは何だい」
才姫が目を凝らして海を見詰めています。恵姫もすぐに気が付きました。岸から少し離れた小島に舟が横付けにされ、そこに三人の男が立っているのです。
「あれは……あれは乗里殿ではありませぬか!」
雁四郎も気付いたようです。その声を聞いてお福もお浪もお弱も、皆、柵に取り付きました。
「乗里、一体何をしておるのじゃ」
従者らしい二人の男は大きな筒を持っています。乗里は先刻から御座船に気付いていたのでしょう。ふんぞり返って恵姫たちを眺めています。そして恵姫たちもこちらに気付いたと悟るや、二人の男に合図をしました。
――ドカーン!
大音響と白煙、上空に広がる火玉の花。余りの衝撃に驚いて尻餅をつく乗里。
「ははは、見送りの花火のようだね。間渡矢での大砲といい今日の花火といい、火遊びの好きな男だねえ、乗里は」
煙に咽ながら立ち上がって手を振る乗里。供の男たちも手を振っています。何か叫んでいるようですが遠くて聞こえません。
「ほら、恵。あんたも手を振ってやりな」
才姫に言われて最初は片手でおずおずと、しかし次第に大きくなり、最後は笑顔で両手を振る恵姫。これで心残りなく江戸を去れる……今回ばかりは乗里の心遣いがしみじみと胸に沁みる恵姫ではありました。
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