虹蔵不見その四 最後の顔合わせ

「あ、めぐ様、お帰り~」


 恵姫と乗里が小居間に戻って来るや与太郎が声を掛けてきました。恵姫は無言で座布団に腰を下ろしますが、乗里は出て行った時よりも機嫌が良いように見えます。


「おや、左右衛門殿は如何されましたか」

「ああ、お役目があるからって一旦家老屋敷に戻ったよ。ここは江戸家老が留守居役を兼ねているんだね。働き者だなあ」


 こんな褒められ方では左右衛門も大して嬉しくないだろうと思う雁四郎です。乗里の言い方には人を見下すような意味合いが含まれているので、それが雁四郎の気に障るのでした。


「恵姫、さっきから元気ないけど、どうかした?」


 乗里に尋ねられても何も答えようとしない恵姫。雁四郎の目がキラリと光りました。


「乗里様、またみだりに恵姫様のお体に触れたのではないでしょうな」

「やだなあ。雁四郎君ってさあ、絶対僕の事を誤解しているよね。意味もなく触っているわけじゃないんだからさあ、そこらの色惚け坊主と一緒にしないでくれる」


 恵姫は何も言わずにチラリと乗里を盗み見ました。先ほどの言葉、吉保亡き後、自分を間渡矢の女城主にしてみせると言った乗里の言葉が、胸の中に引っ掛かり続けているのでした。

 勿論それは老い先短い殿様や奥方を安心させるためについた嘘、大法螺に過ぎない事は分かっているのです。あの後、座敷は大きな笑い声に包まれたのですから。それでも恵姫は乗里の言葉に不思議な現実味を感じたのでした。


「さてと、これで用は済んだし、そろそろ帰ろうかな。恵姫、しばらく会えなくなるけど元気でね」


 いきなりお別れの挨拶を切り出され言葉が出ない恵姫。間渡矢に帰れば一年間は乗里と会えなくなります。もう少し話がしたい、そんな気持ちに駆られはするものの表には出せません。いつものように憎まれ口を返します。


「あ、ああ。そなたも達者でな。これでしばらく顔を見ずに済むかと思うと清々するわい」


 硬い口調の恵姫。その心の内が分かっているのかいないのか、乗里は返事をせずに、座ってお茶を飲んでいた与太郎の手を取りました。


「じゃあ、与太郎君、行こうか。今日は松平家江戸上屋敷でのんびり過ごしていってくれよ」

「へ?」


 手を握られたまま石のように固まってしまった与太郎。これまた誰も予期していなかった乗里の突飛な行動です。直ちに恵姫が反論します。


「おい、与太郎はわらわの昔の家来で今は才の家来なのじゃぞ。主の許可なく勝手に連れ出されては困るではないか」

「えっ、そうだったっけ。んじゃ、才姫様、家来の与太郎を連れて行っていいですよね」

「ああ、構わないよ。武家の男は両刀使いが多いって聞いていたけどさ。あんたも女だけじゃなく男にも興味があるんだねえ。まあ衆道は武士の嗜みでもあるし、あたしはとやかく言わないよ」


 才姫の言葉を聞いた恵姫、まるで汚らわしいものでも見ているかのような目付きに変わりました。


「そ、そうなのか、乗里。まさかそなた、与太郎と褥を共にする気なのではあるまいな」


 ドン引きの恵姫です。女の自分よりも先に男の与太郎を相手にするような乗里に、大きな幻滅を感じてしまったのでした。それは与太郎も同じです。両手でお尻を隠しています。


「こ、困るよ~、乗邑さん。僕、そっちの趣味はないし、それに女の子よりも先に男の子と体験しちゃうなんて、そんなの嫌だよ~」


 気が付けば、にやついている才姫以外の者は皆一様に、白々とした眼差しを乗里に向けています。


「えっと、君たちねえ、ど偉い勘違いをしているんじゃないのかな。僕は単に与太郎君との永遠の別れを惜しみたいだけなんだよ。僕が与太郎君と会う事は、もう二度とないんだからね」

「永遠の別れ?」


 白々とした眼差しを向けていた一同が一斉に首を傾げました。恵姫が不審な顔で乗里に尋ねます。


「永遠は言い過ぎであろう、乗里。ほうき星が昇れば与太郎はやって来る。必ず来るとは言えぬが、それでも月に一度はやって来ているのじゃ。次に来た時にじっくり話をすればよいではないか」

「やれやれ、君たちはまだ気付いていないんだね。老中の正武様から聞いたよ。ほうき星は姫衆の尽力によって立春までに消える。高野山箒星始末記でも、全てのほうき星は立春までに消されたと書かれている。そして与太郎君はほうき星が昇らなければこちらには来ない。これがどういう意味か分かっていないなんて、可笑しくなっちゃうなあ。ふふふ」


 乗里は笑っていました。それは嬉しさの笑いではなく、憐みと哀しみが入り混じっているように聞こえました。そして恵姫もようやく乗里の言った「永遠」の意味が分かったのです。


「……与太郎は立春以降、こちらにはやって来られぬ……」

「その通り。そして君たちが間渡矢に帰れば、与太郎君が江戸に現れる事はなくなる。つまり今日が僕と与太郎君の最後の顔合わせ。僕の屋敷でじっくり語り合いたくなったのさ」


 与太郎は持っていた湯呑を置くと力なく立ち上がりました。その顔はいつも通りの腑抜け、と言うよりも、合格発表の掲示板に自分の番号がなかった時の受験生のように、お先真っ暗な表情になっています。


「……そうかあ、そうだよね。ははは、どうして今まで気が付かなかったんだろう。可笑しいよね、ははは」


 与太郎の虚ろな笑い。けれどもそれは恵姫たち全員の気持ちでもありました。ほうき星が立春までに消えると分かった時、与太郎がこちらにやって来られる期限もまた設定されてしまったのです。いや、恐らくは気付いていたのです、恵姫も才姫も雁四郎も。けれども気付かない振りをして心の底に沈めておいたのです。それが信じたくない事実であるがゆえに。


「恵姫、君は随分と与太郎君を軽々しく扱っているよね。でもそれで本当にいいのかい。あとふた月ちょっとで、ここに居る誰もが永遠に与太郎君と会えなくなるんだ。それを心に留めて与太郎君と接してあげなよ。じゃないと、きっと後悔する事になるよ」

「ふ、ふん。与太郎になんぞ会わずとも平気じゃ。頼みもしないのに勝手にやって来たおのこではないか。来なくなったとて別に哀しくも寂しくもないわい」

「……めぐ様、僕の事、そんな風に思っていたの……」


 不合格だった受験生のような表情が、この世の全てが終わったような表情へと変わる与太郎。そんな与太郎の肩を乗里が優しく叩きました。


「あ~あ、与太郎君、恵姫に嫌われちゃったみたいだね。じゃあさ、僕の屋敷で賑やかに盛り上がろうよ。今日は昼も夜も御馳走を食べさせてあげるよ。そして乗里様の将来がどれほど明るく輝いているか、語り合おうじゃないか」

「えっ、御馳走! わ~い、やったあ~!」


 この世の全てが終わったような表情は、一転してこの世の全ては自分の物みたいな表情に変わっていました、結局なんだかんだ言っても食い物には弱いのです。


「恵姫、与太郎君はあちらに帰るまで僕の屋敷に留めておく。構わないよね」

「好きにするがよい。与太郎、置きっ放しになっているお主の寝間着、忘れずに持って帰るのじゃぞ」

「大丈夫、今日着てきた服と一緒に布袋の中に入れてあるから。じゃあ、僕は乗邑さんの屋敷へ行くね。あ、それから残りふた月しかないんだし、これからはなるべくこちらに来るようにするよ。僕も思い出を沢山作っておきたいからね」


 与太郎は布袋を手に持つと、乗里と一緒に小居間を出ていきました。女中姿のまま外に出て、乗里の屋敷へ向かうつもりのようです。


「雁四郎、一応、警護のために付いて行ってやれ。才、わらわたちは奥へ戻るとしよう。そろそろ昼じゃ」


 こうして小居間には誰も居なくなりました。外に出ると降っていた雨は止んで日が差しています。


「雨の後に日が照っても虹は出ておらぬのう」

「立冬を過ぎれば日差しが弱くなるからね。虹も見えなくなるのさ。何だってそうさね。いつまでもあるとは限らない。見えなくなる時が来れば見えなくなる。虹も、与太郎もね」


 才姫の声はひどく物悲しく聞こえました。虹の見えぬ空から目を背け、無言で奥御殿へと向かう恵姫ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る