金盞香その五 春待二人

 斎主が伊瀬へ旅立ってから七日が過ぎました。与太郎を待ちながら座敷で暮らす毎日。恵姫は一日中座敷でゴロ寝。才姫は文机に向かって読書。お福は女中仕事の手伝い。雁四郎は庭で素振り。これはこれで平穏な日々と言えるでしょう。


「才よ、今日は何を読んでおるのじゃ」

「これかい、好酒五人女さ。どんな話か聞かせてやろうか」

「……いや、聞かずとも見当が付く。遠慮しておこう」

「恵姫様、才姫様、入ってよろしいでしょうか」


 二人の会話は襖の向こうから聞こえて来た声に遮られました。「入んな」と才姫が答えると、女中とお福が盆を持って入ってきます。八つ時のお茶です。

 日当たりの良い縁側近くで寝転んでいた恵姫が飛び起きました。最近の楽しみと言えば食う事と寝る事。そして当然ながら寝るより食う方が優先順位は高いのです。


「それでは失礼致します」


 湯呑に茶を注ぎ終わると女中は一人で座敷を出ていきました。お福は一服も兼ねて二人と一緒にお茶を楽しむのです。


「ほほう、今日の茶請けは栗粉餅か。近頃、値の張る菓子ばかり食わせてもらっておるが、これだけ続くと左右衛門の懐具合が心配になってくるわい、じゅる」


 心配になると言っておきながらよだれを垂らす恵姫。斎主の旅立ちを見送った日から、茶請けだけでなく三度の食事も見違えるように立派になっていました。それもこれも四つの切り餅のおかげです。


 あの日、恵姫に不審な目で見詰められながら、斎主から預かった風呂敷包みを大切に抱え、無事、上屋敷の左右衛門の元に届けた雁四郎。包みを解いて中を見れば予想通り、二十五枚の一両小判を和紙で包んで封をした切り餅が四つ現れたのです。


「ああ、斎主様、伊瀬の斎主様、かたじけなくも畏れ多くも勿体ない贈り物、深く感謝致しまする!」


 百両の銭を受け取った左右衛門は涙を流して喜びました。前日、此度の与太郎召喚にどれだけの銭が入り用だったかを斎主から訊かれてはいましたが、まさかその数十倍の銭を用立ててくれるとは思ってもみなかったのです。


 『左右衛門、そなたのおかげで公儀より姫衆安堵の確約を取り付ける事ができました。これはそのお礼です。お納めください』


 銭と一緒に添えられていた文は、今でも左右衛門の屋敷の神棚に飾られています。


「まあ切り餅を四つも貰えば、左右衛の懐も火傷しそうなほど暖かくなっているだろうさ」


 茶請けの栗粉餅を食べながら才姫が言います。世間慣れした才姫には、雁四郎が風呂敷包みを受け取った時点で、その中身は分かっていたのでした。勿論、恵姫は今に至るまで真相を知りません。


「切り餅四つ如きで懐は潤わんじゃろう」

「そうだね。じゃあ要らぬ心配はやめとくんだね。こうして美味い物が食えるんだ。それだけで十分さね」


 左右衛門が百両を受け取ったと知れば、どんな我儘を言い出すかしれない恵姫です。従って雁四郎も左右衛門も固く口を閉ざして教えようとしません。ここは永遠に知らないままにしておくのが、上屋敷に居る全ての人たちを幸福にする最良の選択なのです。


「それもそうじゃのう。知ろうとしても知られぬ物は多く、分かろうとしても分からぬ物もまた多い。布や斎主様が言っておった、時空だの、相だの、ほうき星の消滅だの、ここ数日ずっと考えておるが少しも分からぬ。才やお福は分かっておるのか」

「いいや、ちっとも分からないね」

「……」


 才姫もお福も首を横に振っています。突然聞かされた与太郎の世とこの世の関係。それは恵姫たちの理解を超えるものでした。三人揃って分からないのは無理からぬ事と言えましょう。


「だけどさ、ひとつだけ分かった事がある。与太がこっちでどれだけ無茶をしても、与太自身の世には何の影響もないって事さ。ふたつの世は別物なんだからね」

「ほほう、と言うことはじゃな。彼奴が言っておった『徳川の世が終わる頃、比寿家は無くなっている』という言葉も、その通りになるとは限らぬわけじゃ」

「そういう事さね。だからと言ってこのままなら、十中八九無くなるだろうけどさ」


 既に比寿家断絶は決定事項。恵姫の父が養子を取らぬと決めている以上、どう転んでも存続できるとは思えません。


「ふっふっ、才は諦めが早いのう。正武と会い吉保と会って、わらわは分かったのじゃ。吉保を亡き者にすれば比寿家存続に異議を唱える者は居なくなる事をな」

「お待ちよ。まさか吉保を殺っちまおう、なんて考えてるんじゃないだろうね」


 いくら恵姫でもそれは許されざる行為です。それにそんな事をすれば、歩み寄り始めていた武家と姫衆の仲が、再び悪化する恐れすらあります。


「んっ、まあほんの一瞬、考えはしたのじゃがな。もし公儀に露見すれば改易は免れぬじゃろう。そんな危険を冒すつもりはない。そうではなくて、要は父上が吉保より長生きをしてくれれば良いのじゃ。姫衆嫌いの彼奴が居なくなれば風向きが変わるかもしれぬ。わらわにおのこが生まれておれば比寿家へ養子に出しても文句を言われぬかもしれぬ。大婆婆様を見習って父上にも長生きして欲しいものじゃ」


 納得する才姫。確かに吉保一人が居なくなるだけで、公儀の雰囲気はがらりと変わるはずです。恵姫の話もあながち夢物語とは決めつけられません。


「全ては与太に懸かっているってわけか。殿様の病も、ほうき星も……」


 不意に才姫の表情が険しくなりました。何かを思い出したかのように焦点の定まらぬ目をしています。


「どうした、才。蠅でも飛んでおるのか」

「違うよ。与太で思い出したんだ。大広間で斎主様が業を使った時、目に銀が宿っていただろう。あれはあたしの業だったんだよ」


 才姫にそう言われて恵姫も記憶をたどりました。恵姫は斎主の横顔しか見えなかったのですが、確かにその目は銀色の光を放っていたような気もします。


「別に良いではないか。斎主様は七人の神器持ちの姫の業を全て使えるのであろう。それゆえに髪も七色に光るのじゃ。それに使えると言っても、それぞれの業の威力は本家の姫に比べれば格段に小さいはず。取り立ててどうこう言う必要もなかろうが」

「そうなんだけどさ。どうしてあそこで使ったのか、ちょっと引っ掛かるんだよ」

「斎主様自身の業を使うために七つの業を発動させる必要があったのではないか。目だけでなく髪も七色に光っていたではないか。才よ、余計な心配は無用と言ったのはそなたじゃ。斎主様の業をあれこれ考えたところで仕方ないであろう」

「……ああ、そうだね。何を拘ってたんだろう、あたしらしくもない。下らない話を聞かせて悪かったね。忘れておくれ」


 才姫はぬるくなったお茶を飲み干すと、正面に座っているお福に目を遣りました。口に含んだ栗粉餅の美味しさに綻んだ顔は、やはり斎主と似ています。いや、似ているのは顔だけではありません。仕草や笑い方、立ち居振る舞い、そんな些細な事ですら、お福には斎主と通じ合う何かを感じさせるのです。


「お福様、そろそろお手伝い、よろしいでしょうか」


 襖の向こうから声が掛かりました。お福は恵姫たちに向かって小さく頭を下げると襖を開け、自分の湯呑と菓子皿を持って出ていきました。また二人だけになった恵姫と才姫。互いに何を考えているかは分かっているようです。


「やはり似ておるな。他人とは思えぬほど似ておる」

「そう……だけど他人の空似って言葉もあるんだ。余計な詮索は止めておこうじゃないか」


 斎主の登場によって多くの謎が解明されると同時に、新しい謎が生まれました。それでも全ての謎はほうき星の消滅と共に明らかになるはずです。

 春になれば全てが終わり、そして全てが新しく始まる……床の間に飾られた水仙の一輪挿しを眺めながら、そんな淡い期待を抱く恵姫ではありました。

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