小雪

第五十八話 にじ かくれてみえず

虹蔵不見その一 女医与太郎

 江戸でのお役目が終わったのに間渡矢へ帰ろうとしない恵姫たち。斎主から貰った百両で美味い物ばかり食べています。おまけに銭の問題がひとまず片付いた左右衛門はにこにこ顔で「いつまで江戸に居てもらっても構いませぬ」などと言うのですから、帰国の意思は薄れていくばかりです。


 恵姫は何もしないで毎日ゴロ寝。才姫は殿様の具合を診た後は読書や三味線を鳴らして暇を潰し、お福は上屋敷の女中仕事がすっかり板につき、今では屋敷の外へお使いに出たりもするようになっています。雁四郎は木刀で剣の修行に励んでいますが、日が暮れかかると父と左右衛門の三人で外に出て、最近見掛けるようになった夜鷹蕎麦を楽しんでいるようです。


 どうして今も江戸に留まっているのか、その理由すら忘れ始めている間渡矢の四人。思い掛けない出来事はそんな時に起こるのです。「天災と与太郎は忘れた頃にやって来る」の諺通り、それはやって来ました。


「ふむふむ、今日は雨か。十月の雨は冷たくて気が滅入るのう」

「時雨だろ。じきに止むさ」


 朝食を終え、そろそろ巳の刻になろうとしていました。座敷の恵姫と才姫は今日ものんびりと寛いでいます。と、


「失礼致します。入ってもよろしいでしょうか」


 襖の向こうから非常に懐かしい声が聞こえてきました。女言葉ですが声色は男。恵姫に対してこんな芸当を見せようなどと考える者は一人しか居ません。


「ああ、構わんぞ、入れ」


 恵姫の声を受けて入って来たのは与太郎です。既に女中たちと同じく小袖に着替えています。


「早々と女の格好かい。お福と同じでよっぽど女中仕事が好きなんだねえ、与太は」


 女装している与太郎を揶揄う才姫。とんでもないとばかりに首を振る与太郎。


「違うよ。前回は城に上るまで表御殿の小居間で休ませてもらったけど、今回は別に用事はないでしょ。そうなると雁さんが稽古を付けてやると言って、また木刀素振り千回とかやらされるかもしれないから、それを避けるために、仕方なく、止むを得ず、不本意ながら、こんな格好をしているんだよ」


 与太郎も一応年頃の男子なので見栄というものはあるのです。女装好き男子などと思われたくないのです。


「だけどさ、その格好で奥に居れば女中仕事を手伝わされるじゃないか。つまり剣の修行よりは女中仕事の方を選んだって事だろ」

「えっ、うん、まあ、それは、そうだけどね……」


 どんなに誤魔化そうとしても軟弱な性根を隠す事はできません。結局才姫の言う通り、お福と一緒に女中仕事をするのが好きなのです。


「おい、それよりも左右衛門のところへは行ったのか。お主が来れば知らせるように言われておるのじゃ」

「あ、それは大丈夫。めぐ様のお世話係の女中さんが行ってくれたから。それよりもさ、せっかく来てあげた僕に感謝の言葉はないの? めぐ様」

「はあ? 感謝じゃと」


 突然与太郎の態度が変わりました。威張っています。女の格好をしていてもそこだけは真っ平らな胸を突き出し、これでもかと言わんばかりに踏ん反り返っています。恵姫の機嫌が一気に悪くなりました。


「何じゃ、その偉そうな態度は。どんな理由でわらわが家来に感謝せねばならぬのじゃ。ふざけた物言いをすると、その舌、引っこ抜いてやるぞ」

「ヤダなあ、もう忘れているよ。まだ江戸に留まっているって事は僕を待っていたんでしょ。ほら、江戸城で言っていたじゃない。お殿様が病気だから診てくれって。あの後、元の時空に帰ってから図書館で色々調べたんだ。そして江戸煩いの治し方を覚えてきたんだよ」

「……ああ、そうか。そう言われればそうであったな」


 ここでようやく思い出した恵姫。吉保が要らぬ言い掛かりを付けてきたために、与太郎は江戸城の大広間で消えてしまい、比寿家の上屋敷へ戻って来られず、殿様の診察も出来ず仕舞いになっていたのでした。


「へえ~、じゃあ江戸煩いの薬でも持って来てくれたのかい、与太」


 才姫に言われてよく見てみれば、与太郎は御馴染みの布袋を持っています。さっそく駆け寄って中を覗こうとする恵姫。しかし与太郎はしっかりと胸に抱いて渡そうとしません。


「ちょっと待ってよ、めぐ様。先にお殿様に会わせてくれないかな。本当に江戸煩い、僕らは脚気って呼んでいるんだけど、間違いなくその病気なのか確かめてみたいんだ。もし違っていたら誤った治療を施す事になっちゃうでしょ」

「ふむ、一理あるのう」


 珍しく真っ当な与太郎の言い分に、恵姫も引き下がらざるを得ません。診察せずに薬だけ渡すなど、藪医者ですら滅多にやらぬ暴挙と言えましょう。


「そうと決まれば善は急げじゃ」


 さっそく左右衛門に言い付けて準備を整えさせる恵姫。与太郎に御典医同等の資格を与え、左右衛門、才姫らと共に、四人で殿様の居る表御殿中奥の座敷へ向かいました。


「殿、与太郎様がお見えになりました。江戸煩いを治せるかもしれぬゆえ、診察をしたいと申しております」

「ピーピー!」


 襖の向こうからは殿様の声ではなく、鳥の鳴き声が聞こえてきました。「入れ」の返事を貰って襖を開けると、殿様は寝床の上で半身を起こし、手の平に飛入助を乗せています。


「ややっ、この阿呆雀が性懲りもなく……ではなくて、お福の飛入助がどうして父上のお座敷に?」


 殿様の前なので慌てて猫を被る恵姫です。殿様は飛入助を畳に下ろし、座敷に入って来た一同を眺めました。


「そうか、この雀がお福の神器、飛入助か。雀離れしたでかい図体をしている理由がやっと飲み込めた。最近明かり取りの格子窓によく飛んで来るのでな、中に入れてやったら妙に人に懐くのだ。時々こうして手に乗せて気晴らしをしておる」


 殿様は以前、間渡矢で鶯を飼っていたほどの鳥好きです。飛入助がまだ雛だった頃に入れていた鳥籠は、昔殿様が使っていたものを拝借していたのです。


「左様でしたか。父上は鳥がお好きですものね。飛入助、そこで大人しくしているのですよ」

「ピッ、ピー?」


 恵姫の言葉遣いがいつもとは全然違うので、飛入助は戸惑っているようです。与太郎も同様に少々面食らっていましたが、恵姫の変わり身の早さはいつもの事なので、さして気にせず殿様に話し掛けます。


「お殿様、初めまして。僕、与太郎って言います。前回来た時は忙しくて挨拶できずに帰ってしまってごめんなさい。その分、今日はしっかりとお殿様を診察して、病気を治したいと思っています」

「後の世の者に診てもらえるとは嬉しい限りだ。ところで与太郎殿は男だと聞いていたのだが、はて、女であったか」


 殿様が首を傾げるのも無理ありません。与太郎は女中姿のままなのですから。


「あ、いえ、これは、間渡矢に居る時に色々ありまして……」

「父上、与太郎殿は想い人のおふうと同じ大名家に奉公するため、間渡矢では女中修行をしているのでございます」


 また余計な事を殿様に吹き込む恵姫です。言い訳するのも面倒なのでそのままにしておく与太郎。よく理解できないものの、後の世の話の事なので深く追求しない殿様。結局、与太郎女装の件はうやむやのまま診察が始まりました。


「えっと、まずは質問させてください。お殿様は毎日何を食べているんですか」

「殿と奥方様は白米を召し上がっておられます。我ら家臣は国許と同じく玄米、麦飯を食しております」

「白米以外にも色々食べているでしょ。どんな物を食べているんですか」

「殿は幼少の頃より食が細く、米以外はほとんど口に致しませぬ。奥方様は米よりも菜を好まれますので、豆、魚、芋などをよく召し上がられます」

「ふ~む。実に興味深い。どうやら思った通りのようだ」


 顔の前に指を三本立てて、変な声でぶつくさ言っています。与太郎なりに何か考えているようです。


「じゃあ今度は診察させてください。お殿様、寝たまま左足の膝を曲げて立ててください。そしてその膝の上で右足を組んでブラブラさせてください」

「むっ、こうか」


 夜着から足だけ出して、言わるれるままに足を組む殿様。与太郎がいつになく真剣な顔で近寄っていきます。


「はい、それでいいです」


 いつの間に取り出したのか、与太郎の右手には小槌が握られていました。それを殿様の右膝に近付けます。


「は~い、いきますよ~。いっせーの」


 掛け声と共に小槌を振るい、殿様の膝を叩く与太郎。その瞬間、与太郎の体が畳の上に吹っ飛びました。


「ぐはっ!」

「何を為される!」

「この不埒者めが!」

「ピーピー!」


 怒鳴り声を上げたのは左右衛門と恵姫と飛入助です。何が起きたのか分からず、畳に這いつくばったまま二人と一羽を見上げる与太郎ではありました。

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