金盞香その三 お見送り

 翌朝は生憎の曇り空でした。恵姫たち四人は朝食を済ませた後、直ちに姫屋敷へ出発しました。今日は斎主たちが江戸を発つ日。伊瀬の姫衆である以上、斎主の旅立ちを見送らないわけにはいかないのです。


「やはり昨日のうちに姫屋敷に行っておけばよかったのう。寒いし眠いし冬の朝は大嫌いじゃ」

「出発前日ともなれば様々な雑用に追われ、姫屋敷の皆様も我らを持て成す事などできぬはず。お屋敷に行っても迷惑を掛けるばかりです。旅立ちの支度が整ってから屋敷を訪れるのが礼儀というものです」


 朝から元気な雁四郎の声を聞いても恵姫の気分は晴れません。それもこれも昨日の夕食と今日の朝食が極端に質素だったからです。昨日の昼食は斎主のおかげで豪勢なものでしたが、今朝などは飯と汁だけで香の物すらなかったのです。


「左右衛門め、昼に贅沢させた分、夕と朝で手を抜きおったな」

「仕方ないさね。ただでさえ貧乏大名の比寿家なのに、大食いの恵が何日も居着いてるんだからさ。左右衛も遣り繰りに四苦八苦してるんじゃないのかい」

「これだけ飯が質素になると、わらわたちも早々に間渡矢へ帰った方が良さそうじゃな。その内、夕食のお菜すら出なくなるような気がするわい」

「気がするんじゃなくて間違いなく出なくなるだろうさ」


 才姫の不吉な予言に身震いする恵姫。そうなったら生類憐みの令など無視して下屋敷に移り住み、毎日こっそり釣りをして自給自足するしかありません。


 数日前に姫屋敷に向かった時と同じく街道に入る四人。しばらく進むと、葱とよく似た草が道端に群生しているのが目に入りました。満足に朝食を取れず小腹が空いている恵姫。駆け寄って引き抜こうとしました。


「これは野蒜のびるではないか。朝飯の香の物代わりに齧っていくとするか」

「馬鹿、およし!」


 間髪入れず才姫から馬鹿呼ばわりされ、空いていた腹が立ってしまった恵姫。当然、言い返します。


「馬鹿とは何じゃ。貧しい朝飯の代わりに野蒜を摘んで食う事の何が悪いのじゃ」

「それは野蒜じゃないからさ。よく見てごらんよ、花が咲いているだろう」


 才姫が指さす場所を見てみると、たった一輪ですが花が咲いています。白い花冠の真ん中に黄の副花冠。明らかに野蒜の花ではありません。


「そうか水仙であったか。済まなかったな、才。わらわの早とちりであった」

「謝らなくてもいいさ。間渡矢でもよく間違える奴が居るんだ。腹痛で済みゃいいけど、食い過ぎて命を落とす奴も居るからね」


 朝っぱらから失敗してしまった恵姫。それでも悪びれることなく、一輪だけ咲いている水仙の花に顔を近付けます。


「毒があるとは思えぬほど良き香りじゃ。先日通った時は咲いてはおらなんだのにのう。それだけ冬の気も立ち始めてきたというわけじゃな」

「十月中には間渡矢に帰りたいもんだね。冬の船旅なんざ、考えただけで寒くなって来るよ」

「お二人とも、無駄口はそれくらいにして急ぎましょう。斎主様たちを待たせては申し訳ない」


 旅の途中の道草ほど楽しいものはないのじゃぞ、と言いたかった恵姫ですが、これは旅ではなく御用の途中でございます、と言い返されるのは明らかなので、口答えせずとっとと歩き始めました。


 姫屋敷は海岸沿いに作られています。前回訪れた時は気が付きませんでしたが、比寿家の下屋敷と同じく船蔵を備えており、斎主の御座船はそこに収納されていたようです。今は出港を控えて船蔵から出され、小ぢんまりとした姿を海の上に浮かべていました。


「ほう、これが斎主様の御座船か。間渡矢のものより小さいとは、ちと物足りぬのう」

「斎主様が船に乗る事なんて滅多にないんだ。大きいのを作っても仕方ないだろう」

「皆様、一旦、屋敷の中へお入りください」


 四人が船を眺めていると、開きっ放しになっていた門の内側から、先日使いにやって来た女が声を掛けてきました。どうやら斎主たちはまだ船に乗り込んではいないようです。

 言われるままに表御殿の小居間に上がる四人。そこには旅支度を整えた斎主、布姫、禄姫、寿姫の四人が座っています。やはり恵姫たちの到着を待っていたようです。さっそく雁四郎が居住いを正して頭を下げました。


「遅れました事、お詫び致します。これは当家江戸家老左右衛門より預かって参りました餞別でございます。どうぞお納めください」


 雁四郎は紫の帛紗に包んだ銭を懐から取り出すと、斎主の前に恭しく差し出しました。旅立ちの見送りとあっては餞別を送らないわけにはいきません。これも左右衛門があちこち駆けずり回り、比寿家の体面を保てるほどの銭を工面して用立てたものでした。


「お心遣い感謝致します。左右衛門にはよろしくお伝えください。それでは皆様、盃を」


 小居間の八人に盃が手渡されました。旅立ちに当たっての水盃です。


「才、私たちが島羽を発つ時には、餞別や水盃などありませんでしたわね」


 これは恵姫の言葉です。斎主の前なので猫を被っているのです。


「あたしたちは旅じゃなくお役目で江戸へ来たんだからね。無くて当然さ。その代わり前の晩に宴を開いてもらったじゃないか」


 そう言えばそうだったと納得する恵姫。水盃を飲み終えた禄姫が名残惜しそうにつぶやきます。


「せっかく恵様、才様、お福様に会えたと喜んでおりましたのに、もうお別れとは何とも寂しい事でございますじゃて」

「まったくでございますじゃ。もう少し皆と遊びたかったものですじゃ」


 禄姫も寿姫も子供心満載の老婆。謹厳実直な斎主や布姫よりも、お転婆な恵姫や開けっ広げな性格の才姫と気が合うようです。


「それならば最後にお二人の業、恵姫様たちに味わわせて差し上げれば如何ですか」


 布姫が静かに言いました。驚いた顔をする禄姫と寿姫。しかしその二人以上に驚きの表情を浮かべていたのは斎主でした。それは驚きというより不可解と言った方が当てはまっているかもしれません。


「布、何を言っているのですか。二人の業ならば先日見せてもらいましたよ。片方が片方の場所へ瞬時に動くのでしょう」


 これは恵姫の言葉です。斎主の前なので猫を被っているのです。


「はい。されど動けるのは業を使う禄姫様、寿姫様だけではありません。他の者を動かす事もできるのです。その業を受けてみては如何ですか、恵姫様」

「そ、そのような使い方もあると申すか!」


 上擦った声を出す恵姫。驚きのあまり被っていた猫が剥がれてしまったのです。禄姫が瞬時に動いただけで湯呑を踏んづけるほど興奮したのですから無理もありません。一方、斎主は眉をひそめています。布姫の言葉を快く思っていないのは明らかです。


「おやおや、布様はよくご存じでいらっしゃる。誰からそんな知恵を授かったのじゃ」

「賢い布様のことじゃ。業を見ただけで本質を見破ったのじゃろうて。さすがは姫衆随一の知恵者、大したものですじゃな、ほっほっほ」


 機嫌の良い笑い声を上げながら二人は立ち上がりました。どうやら布姫の言葉に従って、他人を動かす業を見せるつもりのようです。


「昨日、斎主様のお力で大業を使ったせいか、昔の勘が戻ってきましたじゃ。あの業も簡単にできそうな気がしますじゃて」

「さりとて動かせるのは二人が精一杯ですじゃろ。さてさて、誰を動かしましょうかな」

「わらわじゃ、わらわを動かしてくれ!」


 一番に手を挙げたのは恵姫です。も有りなんとばかりに頷く禄姫。しかし二人目に名乗りを上げる者は居ません。仕方なく寿姫が指名します。


「才様、如何ですじゃ」

「止めとくよ。見てるだけで十分さ」

「ならば雁様はどうですじゃ」

「い、いや、拙者は己の足で動くのが好きなので」

「あれあれ、ではお福様はどうされますじゃ」

「……!」

「ピーピー!」


 お福は首を横に振ったのですが、肩に止まっている飛入助が勢いよく鳴いています。「おいらに業を味わわせてくれよ」そう言っているように聞こえます。


「決まりじゃな。飛入助がやりたいと言っておるのじゃ。お福、飛入助の主であるそなたが、わらわと共に業を受けるのじゃ」


 そう言われても尻込みして立ち上がろうとしないお福に近付き、「ほれ、早くせねば斎主様の船出が遅れよう」と、腕を掴んで無理やり立たせる恵姫ではありました。

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