金盞香その二 二人の猿芝居

 左右衛門血涙の大盤振る舞い昼食が終わり、食後の茶と茶請けの柿を齧る恵姫。禄姫と寿姫は二間ある座敷のもう片方で、気持ち良さそうに昼寝をしています。お福は疲れを物ともせず、片付けの女中と一緒に厨房へ行ってしまいました。お福にとっては座敷で寛ぐより、女中たちと体を動かしていた方が身も心も軽くなるのでしょう。


「それにしてもさ、布。まさかあんたの連れの女が斎主様だったとは驚いたねえ。吉保たちも腰を抜かしそうになっていたじゃないか」

「皆様を驚かせてしまい申し訳ありません。切り札は最後まで隠しておくものでございますゆえ」


 斎主が居なくなって気が休まっているのは恵姫だけではありません。才姫と布姫もこれまでの緊張から解放されてお喋りに興じているのです。


「だけどさ、変じゃないか。どうして吉保たちは斎主様が江戸に来たのを知らないのさ。船で江戸に入るなら下田に寄るし、駕籠なら箱根の関所を通るだろう。だったら下田奉行か箱根の関所のどちらかから知らせが行くはずじゃないか」

「その理由は簡単です。斎主様は下田の港も箱根の関所も通らず江戸に来たのです」

「な、何じゃと!」


 これには恵姫も驚きました。いくら斎主でも関所や番所を通らずに抜ける事は掟破りです。それが事実なら公儀から然るべき沙汰があるはず。悠長に食後の茶など飲んでいる場合ではありません。


「おやおや、それはまずいんじゃないのかい、布。綱吉公の前で恥をかかされた吉保が、腹いせに何を仕出かすか知れたもんじゃないよ」

「ご安心ください。斎主様が下田に寄れなかった理由は書状にして老中正武様に届けてあります。斎主さまは遭難しておられたのです」

「遭難? 布、そなた何を言っておるのじゃ。さっぱり話が掴めぬぞ。ガリガリもぐもぐ」


 寝転んで二人のお喋りを聞いていた恵姫も布姫の話に興味が湧いてきたようです。柿を齧りながら口を挟んできました。


「斎主様は御座船に乗って伊瀬を出られたのです。そう、その文を受け取ったのは恵姫様たちと下田でお会いした日の夕刻でございました。私が下田に逗留しているのを知って、わざわざ早飛脚にて届けてくれたのです」

「それじゃ何かい。御座船が遭難して下田に寄れなかったとでも言うのかい。そんな事になったら下田は勿論の事、江戸にだって来られるはずがないじゃないか」


 才姫も布姫の話には全く付いていけません。どうやら布姫はわざと遠回しに話しながら二人の反応を楽しんでいるようです。


「いえ、御座船は無事下田に入港致しました。遭難したのは斎主様お一人だけだったのです。あの日、私は御座船が入ると同時に下田から出港しました。そのまま江戸に向かって船を進めておりましたところ、偶然にも板切れに乗って海の上を漂っている一人の女を発見したのです。女を助け上げて船に乗せた後、私はどうしようかと思案致しました。しばらく考えた末、下田へ引き返すより江戸へ向かった方がいいと判断し、そのまま江戸湊を目指したのです。救助された遭難者となれば着の身着のまま、手形も何も所持しておりません。下田へ寄らず江戸へ向かったとて何のお咎めがありましょうや」


 ここまで聞けば二人にも事情が飲み込めました。板切れに乗って漂っていた女が斎主だったのです。しかも遭難などと言ってはいますが、予め文で打ち合わせておき、わざと御座船から降りて海の上で布姫が来るのを待っていたのは明白です。才姫も恵姫も大笑いを始めました。


「ははは。まさか生真面目な布と斎主様がそんな猿芝居を打ってくるとはね。そりゃ公儀も騙されるはずさ」

「騙してなどおりません。斎主様が遭難されたのも、私がそれを発見したのも、全て、たまたまでございます」

「はいはい、分かったよ、そういう事にしといてあげるよ」


 あくまでもシラを切り通そうとする布姫。戒律を破らず生きている布姫にとって、今回の策略は戒律違反ギリギリの企てだったはずです。それでもそれを実行に移したのは、公儀に対する斎主の怒りが我慢ならないほどに大きかったからです。

 恵姫の命を奪おうとしただけなく、姫衆同士を争わせようとした公儀の遣り方に対し、斎主は烈火の如く怒りを露わにしていました。その斎主に押し切られる形で、布姫は秘密裏に斎主を江戸に入れ、与太郎召喚の場に姫衆全員を招き入れる手筈を整えたのです。


「まあ、斎主様の件はそれで納得するとしてもじゃな、与太郎の件はどうなのじゃ。お福一人が居れば与太郎はこちらに留まり続けるのであろう。正武に宛てた文は寿が書いたゆえ見逃してやったが、昨日は謁見を引き延ばすために嘘偽りを申していたような気がするのう。屋敷の外に出れば姫の力が散逸するだの、与太郎は消えてしまうだの。はて、そのような話をこれまでに耳にした事があったかのう」


 恵姫の嫌味ったらしい口振りは姫屋敷での説教をまだ根に持っているからでした。老中との会談で嘘を付くように言われ、渋々それに従った恵姫。自分と同じように吉保の前で嘘を付いた布姫を揶揄しているのです。

 恵姫に皮肉られても布姫はどこ吹く風です。顔色一つ変えずに淡々と答えます。


「ええ、確かにそのような事を申しましたね。けれども私は戒律を破ってはおりません。恵姫様は私の言葉を正確に覚えていらっしゃらないようです。私は、姫の力が散逸する恐れがある、与太郎様を引き留めておけぬかもしれぬ、と申したのです。それはあくまでも推測であって断言したわけではありません。私の言葉に反して、力は散逸せず、与太郎様を引き留めておけたとしても、私が嘘を申した事にはなりません」

「むぐぐ……」


 何という布姫の抜け目なさ。絶対に嘘は付きたくないという執念が感じられる言い回しです。さしもの恵姫も唸り声を上げる事しかできません。


「やれやれ、布も悪知恵が働くようになったもんだねえ。若い頃はお福みたいに純真な娘だったのにさ。まあ、古狸みたいな公儀と遣り合おうと思ったら、こちらも古狐にならなきゃいけないってわけだね」

「古狐などではありません。今も純真な娘でございます」


 布姫にしては珍しい茶目っ気のある返しに、クスリと笑う恵姫と才姫。これが真実なのか嘘偽りなのかは布姫にしか分からぬ事。何はともあれ布姫が斎主の事を隠していた経緯はそれなりに理解できたので、恵姫も才姫もこれ以上の追及は止める事にしました。


 お喋りが一段落した三人は禄姫と寿姫と同じように横になりました。途端に眠気が襲ってきます。江戸城に泊めてもらったと言っても寝床も無く、左右衛門が差し入れてくれた夜着に包まるだけ。しかも与太郎という若い男がすぐ近くで寝ているのですから、気を落ちつけて眠る事などできなかったのです。座敷の五人は初冬の昼下がりの中ですっかり寝込んでしまったのでした。


 五人の目を覚ましたのは八つ時の鐘の音です。その時には左右衛門との話を終えた斎主が座敷に戻って来ていました。


「おやおや少し眠り過ぎたようですじゃな。皆さま、起きなされ」


 禄姫と寿姫に体を揺すられ目を開ける恵姫たち。ほどなくお福と女中が茶と茶請けを持って座敷に入って来ました。皆が座布団に座り、お茶を飲み始めたのを見計らって斎主が話します。


「皆様、よく眠れましたか。そろそろ私たちはお暇致します。恵姫、才姫、お福。此度の働きご苦労さまでした。それから私たちは明朝、江戸を発って伊瀬へ帰ります。恵姫、あなた方も江戸での用が済み次第、速やかに志麻へ帰るのですよ」

「やれやれ、忙しい事じゃ。これでは今晩も満足に眠れませぬじゃ」


 突然の斎主の言い渡しに愚痴で答える禄姫。しかし本来なら斎主宮に居続けなければいけない斎主にとって、江戸に滞在している事自体が有り得ない状態なのです。一刻も早く伊瀬に帰ろうとするのは仕方がないと言えるでしょう。

 これでまた布姫や禄姫、寿姫としばらく会えなくなるのかと思うと、ほんの少し寂しさを感じる恵姫ではありました。

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