第五十四話 もみじつた きばむ

楓蔦黄その一 御対客日

 老中と面会する御対客日は明日に迫っていました。


 比寿家と松平家の縁談を公儀に届ける際、布姫に口添えをしてもらって話を丸く収めたい、そう考えて老中との面会をずっと引き延ばしていた左右衛門。それなのに姫屋敷から帰ってきた恵姫に、


「布はわらわの縁談に関して口添えする気はないと言っておった。左右衛門、そなただけが頼りじゃ。任せたぞ」


 と言われ、気の毒なくらいに慌てふためいてしまったのです。


「な、何故そのような事態になったのですか。布姫様に力を貸していただけると聞かされていたからこそ、公儀の催促を撥ね退けて面会を伸ばしてきたのです。これでは布姫様の到着を待っていた意味がありません」

「布が口添えしてくれるのはあくまでも与太郎の件に関してだけじゃ。わらわの嫁入りについては案を出しただけで、それ以上の口出しは最初から考えておらなかったようじゃぞ。まあ、わらわも布は力を貸してくれるものと思い込んでおったからのう。そなただけを責めるわけにはいかぬ。とにかくよろしく頼むぞ」


 一気に顔が青ざめる左右衛門。布姫到着の知らせを受けて今月当番の老中、阿部あべ正武まさたけから、面会の日時は今日から四日後の御対客日早朝に致せ、と言い渡されてしまっていたのです。


『何たる事か。恵姫様の暴走をわし一人で止められるはずがない』


 怖いもの知らずの恵姫。老中の前でも言いたい放題、平気で暴れまくるのは目に見えています。松平家からは乗里と江戸留守居役が来るはずですが、その二名が加わったとしても果たして恵姫を止められるかどうか……布姫に全てを任せようと思っていた自分の浅はかさを思い知らされる左右衛門です。


 こうして左右衛門の胃が痛くなるような四日間が始まりました。時の流れは無情なもの。為す術なく日は過ぎていき、気付けば今日はもう三日目、その三日目も既に日が暮れてしまいました。

 比寿家上屋敷は夜の静寂の中に包まれています。ただ、恵姫が居る奥御殿の座敷だけはまだ賑やかな様子です。


「いよいよ明日、老中と面会か。与太郎はちっともこちらにやって来ぬのう。下田で姿を見せてから半月も音沙汰無しじゃ。あの時の例にならって時々与太郎の噂話をしておるが、影も形も現われぬ。彼奴、江戸に来るのを嫌がっておるのではないじゃろうな」

「与太には与太の事情があるんだろうさ。お喋りはいいから早く寝たらどうなんだい。明日は早いんだろう。老中の前で居眠りしても知らないよ」


 座敷には既に寝床の用意もされています。お福は日中の女中仕事で疲れたのか早々と横になっており、寝酒を楽しむ才姫と、姫屋敷から土産代わりに持って来た鯛人形で遊ぶ恵姫が、行燈の灯りの元でお喋りをしているのです。


「与太郎が居れば縁談届けと一緒に用を済ませられるのじゃがのう。これでは二度も足を運ばねばならぬ。面倒な事この上ないわい」

「何でもかんでも恵の思い通りにはならないって事さ。あたしはもう休むからね。灯りを消すよ」


 才姫は行燈に近付いて火を消し、寝床に横たわりました。暗くなった座敷の中に、西の空で沈みかけている月が、薄ぼんやりと光を投げ掛けてきます。

 賑やかだった奥御殿にもようやく夜の静寂が訪れたようです。時々聞こえてくるのは犬の遠吠え。犬可愛がりの綱吉公が出したお触れのために、江戸には野犬が溢れているのです。


「恵、あんた明日、公儀の前で何を言うか、もう決めてあるのかい」


 どうやら眠れないようです。横になったまま才姫が声を掛けてきました。やはり眠れない恵姫、すぐに返事をします。


「わらわは公儀に問われた時のみ答えよと言われておる。何を問うてくるかは分からぬからな。何を答えるかもまだ分からぬ」

「そうかい」


 そう言ったまま才姫は静かになってしまいました。何という事もない才姫の問い掛け。どうしてそんな事を訊くのか、逆にこちらから訊き返そうかと思う恵姫でしたが、すぐに思い留まりました。きっと才姫自身も分からないに違いない、そう感じたからです。

 晩秋の夜は更け、月も沈み、座敷には闇が広がり始めています。しばらくして、また才姫が声を掛けてきました。


「ねえ、恵。自分勝手に生きているあたしがこんな事を言ったところで、ただの薄っぺらい言葉にしか聞こえないと思うけどさ、たまには人を喜ばせてあげてもいいんじゃないのかい」

「人を喜ばせる……どういう意味じゃ」

「ここに着いた日、恵は殿様を喜ばせた。奥方を喜ばせた。猫を何匹も被って二人の喜ぶ恵になろうとした。それができるんだったら、左右衛や乗里、間渡矢や島羽の家臣が喜ぶ恵にだってなれるんじゃないのかい。あんたの一言で大勢の者が落胆し、大勢の者が喜ぶ。だったら喜ばせてやった方がいいじゃないか。左右衛の落ち込んだ顔なんて、あたしゃ見たくないからね」


 他人事に無関心な才姫にしては珍しい、忠告めいた言葉でした。そして才姫が何を言いたいのかも恵姫には分かっていました。数日前、姫屋敷の大広間で布姫に説教された時、才姫もそれを聞いていたのです。あの時は自分でも驚くほどに頑なだった心、けれども今は才姫の言葉が不思議と胸に沁みるのでした。


「そうじゃな。考えてみよう」


 それがその夜、奥御殿の座敷で交わされた最後の言葉でした。


 翌日は青空が広がり冷え込んだ朝となりました。比寿家上屋敷は日の出前から出発の準備で大忙しです。ここ奥御殿の恵姫の座敷でも、朝食を早々と済ませ、大勢の女中たちが恵姫の支度に掛かりっ切りになっています。


「恵姫様、じっとしていてくださいませ」

「面倒じゃのう。老中に会うくらいの事でこのように大仰おおぎょうな装いをせねばならぬとは」


 将軍に会うのではないにしても、面会の相手は老中です。いくら何でも大名の娘が、そこらの町娘と同じような格好で会いに行くわけにはいきません。それこそ比寿家の名誉にかかわる問題です。それなりに体裁を整える必要があります。


 姫衆の正装は公家の姫と同じです。ただし今日は単なる届け出に過ぎないので、身に着けるのは単、五衣いつつぎぬ小袿こうちき、紅袴のみにして、唐衣や表衣はまとわぬ事としました。髷は結わずに垂れ髪のまま、絵元結えもとゆいによって首の下辺りで束ねられています。


「へえ、馬子にも衣装じゃないか」


 ようやく支度が整った恵姫を見て才姫が揶揄います。お福は滅多に見られぬ恵姫の正装に、感激もひとしおの様子です。


「こんな物、重いだけじゃ。有難くも何ともないぞ。それでは行ってくるからな。二人とも留守番を頼むぞ」


 いつもと変わらぬ荒っぽい仕草で襖を開け、どたどたと廊下を歩いていく恵姫。身なりを整えてもがさつな性格は変わらないようです。


「おお、恵姫様、ようやくお見えになられましたか。松平様は既にお発ちになられたそうです。お待たせしては申し訳ない、ささっ、我らも急いで出発致しましょう」


 準備が整って表に行けば、すでに左右衛門を始め、供の者たちが駕籠を仕立てて待ち構えています。その中には雁四郎とその父の姿も見えます。


「何じゃ、駕籠で行くのか。あれは足腰が痛くなるからのう。わらわは歩くぞ」

「そのような振る舞いは比寿家の名を汚すも同じです。仮にも大名家の娘が歩いて老中様のお屋敷を訪れるわけにも参りますまい。駕籠にお乗りください」


 左右衛門に言われて渋々駕籠に乗る恵姫。朝一番から炸裂した恵姫の我儘に、今日は一体どうなるのだろうと不安に駆られる左右衛門。そんな左右衛門の心中を知る由もなく、供の一人に加われて晴れ晴れしい顔をする雁四郎。三者三様の思いを胸に、とにもかくにも西之丸下の老中の屋敷に向けて出発する比寿家の一行ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る