楓蔦黄その二 恵姫の動揺

 将軍家の家政を実質的に執り行っているのは、譜代大名の中から任命される複数の老中たちです。月番制で一名が江戸城本丸御殿御用部屋に詰めて、朝廷外交、知行地、法度に関する諸問題の解決、大名から出される諸届け請願等への対応などなどのお役目をこなし、重要な案件は全員で審議。そして老中の決定がそのまま公儀の決定となるのです。


 これだけの権力者ですから、当然誰もが老中に会いたがります。大名だけでなく旗本、豪商、果ては坊主に至るまで、その権力を少しでよいので自分の方にも向けてくださいとばかりに陳述に来るのです。

 そのため老中には御対客日と御逢日が設けられていました。この日は老中の屋敷の門が開かれて、早朝から老中が登城するまでの間、誰でも老中に会う事ができるのです。これはその月が非番の老中にも設けられています。比寿家と松平家は話し合いの結果、十月の月番老中で「善人の良将」と噂に高い、阿部正武に面会する事にしたのでした。


「ほう、結構人が集まっておるではないか」


 駕籠から降りた恵姫は物珍しそうに目の前の光景を眺めました。まだ閉じられたままの門の前には、既に二十人近い人々。そのほとんどは身なりから察するに大名とその供の者のようです。


「やあ、恵姫、遅いじゃないか。僕らは朝一番で会うんだから一番に来てもらわないと困るな」


 声を掛けてきたのは乗里です。こちらも恵姫同様、正装とは言わないまでも相当格式の高い装束を身に着けています。


「ふん、二人そろって順番待ちする必要などなかろう。お主だけが先に来てわらわを待っておればいいのじゃ」


 相も変わらず減らず口を叩く恵姫。乗里は他の大名の手前もあって、苦笑いしながら答えます。


「やれやれ、口を閉じていてくれれば小野小町も逃げ出すくらいの綺麗なお姫様なのにね。門が開くのを待っている皆さんも、今の口振りでがっかりしちゃっているよ」

「な、何を申しておる、お主がわらわに世辞など、に、似合わぬ事を……」


 恵姫は大いに狼狽していました。まさか「綺麗なお姫様」などという言葉が乗里の口から飛び出ようとは思ってもみなかったからです。言い返そうにも気の利いた憎まれ台詞が思い浮かびません。落ち着かない気分でどうしてやろうかと考えているうちに、屋敷の門が開きました。


「これより御対客日の面会を始める。ゆえあって本日は松平家、比寿家が最初である。両名の者、居られるか」

「はい、ここに」


 左右衛門と松平家の留守居役が同時に声を上げました。取次の者は頷くと「では付いて参れ」と歩き出しました。恵姫と乗里も慌ててその後を追います。


 四人が通された対面場所は屋敷の小書院です。この場所も対面相手の家柄によって変わります。比寿家だけなら単なる客間だったのでしょうが、十八松平家のひとつである大給松平家の家柄を考慮して、この場所に通されたのです。

 四人が腰を下ろすと一服する間もなく老中阿部正武が入って来ました。平伏して出迎える四人。正武は上座に落ち着き、低く威厳のある声で話します。


「松平家、比寿家、此度は両家の縁談の届け出に関してであったな。書状は持参しておるか」

「はい、ここに」


 素早く差し出す二人の留守居役。正武は二枚の書状をじっくりと眺めます。


「ふむ、城主と城主格、官位にそれほど差はなし。禄高は少し開きがあるがこの点は不問にされよう。この程度の家柄の差なれば問題はなかろうな。両家の縁談届け出、確かに受け取った」

「ははっ、有難き幸せ」


 深々と頭を下げる留守居役の両名。恵姫と乗里もそれにならって再び平伏します。


「礼を申すには早いぞ。届け出を受け取っただけでまだ認めたとは言っておらぬ。問題は比寿家の嫁が伊瀬の姫衆である事だ。松平家当主乗里、そのほうに尋ねる。姫衆を嫌う武家が敢えて姫衆のひとりを嫁に選んだのは何故だ。何か下心があるのではないか」


 公儀が嫌う姫衆の嫁を貰う以上、松平家に謀反の恐れありと疑われるのは当然の事です。乗里は伏していた頭を上げると、明瞭かつ風格のある声で言いました。


「そのような御心配は一切無用と存じ上げます。既に戦国の世は去り、今は天下泰平の時。にもかかわらず武家と姫衆が仲違いをしていては、再び世が乱れる遠因ともなりえましょう。姫衆の一人である恵姫を嫁に貰うのは公儀への逆心などではなく、あくまでも徳川の世の存続を考えての事。姫衆と武家が手を取り合い共存共栄の道を歩めば、天下泰平は盤石のものとなりましょう。その先鞭を付けるべく、此度の縁談を引き受けたのでございます」

「ふむ、良き心掛けだな」


 満足げに頷く正武。二人の留守居役もひとまず安心した様子です。しかし恵姫は違っていました。心の中は驚きで一杯だったのです。


『な、何じゃ、この受け答えは。いつもの乗里とは全く別人ではないか。ただのお飾り城主だと思っておったのに、これほどしっかりした物言いができるおのこじゃったのか。いや、あるいはこれこそが本当の乗里の姿であったとでも言うのか』


 恵姫は隣に座っている乗里の横顔を見ました。そこに居るのは紛れもなく島羽城主乗里。それなのにいつもの幼稚さはすっかり影を潜め、精悍さと聡明さが感じられる堂々とした風格を漂わせているのです。それは松平家当主と呼ばれるに相応しい一人の若者の姿でした。

 恵姫は乗里から目が離せなくなりました。この先どのような受け答えをするのか、声だけでなく姿も見ておきたかったのです。そんな恵姫に気付いたのか、正武が再び乗里に問い掛けてきます。


「家同士が決めた縁談とは申せ、間渡矢の恵姫と言えば暴れ鯛と称させるほどのお転婆娘。しかも年はその方より上。正直に申せ。本当は嫌ではなかったのか」


 砕けた言い方ですがこれも心の内を探るひとつの手です。姫衆の一人が大名の正室になるという前例のない重大事である以上、敢えてそれを行おうとする松平家の本音を、是が非でも引き出したいのです。

 乗里は落ち着いていました。これまでと全く変わらぬ態度で正武に答えます。


「人の評判は時が経つにつれ、ありもしなかった尾鰭を付け、大風呂敷を広げ、面白おかしく伝わっていくものです。確かに恵姫は激情に駆られ男勝りな振る舞いをする面もありましょう。されどそれは内に秘めた義侠心と慈悲の心によって引き起こされたもの。これほど義と仁に溢れた人物は武家にも姫衆にも見受けられませぬ。比寿家の家臣全てが忠誠を誓い、間渡矢の領民全てに慕われている恵姫を嫁に迎えずして、誰を迎えよと言うのでしょう。恵姫を松平家に迎えれば、その家臣は皆、この乗里に忠誠を誓い、その領民は皆、この乗里を慕う事になりましょう」


 正武の口元が綻びました。最後に乗里の本音が聞けたからです。この縁談の本当の目的は恵姫ではなく、その家臣と領民を手懐ける事。既に比寿家断絶の後、間渡矢領を松平家に預ける話が内々に決まっているのです。


『此度の縁談は、あくまでも領地統合後の間渡矢統治を容易にするために打った手であり、恵姫が姫衆のひとりだったのは単なる偶然にすぎぬというわけか』


 正武は満足でした。それが分かった以上、乗里への問いはもう必要ありません。乗里もそれを悟ったのでしょう。小さく礼をすると横を向いて、自分を見詰めている恵姫に笑顔を見せました。


「……!」


 慌てて目を逸らす恵姫。頬は酒を舐めた時のように火照り、胸の鼓動は自分にも聞こえるほどに激しく脈打っています。人に見られて目を逸らしたのも、理由なく頬が火照るのも、胸の高鳴りを覚えたのも、恵姫にとっては初めての経験でした。


『な、何をしているのじゃ、わらわは。乗里如きに笑顔を見せられたくらいで目を逸らすなど。しかも何故これほどに心が騒めく。乗里の言葉は全て公儀をたぶらかすための出鱈目。真実ではないのじゃぞ。落ち着け、落ち着くのじゃ、わらわよ』


 顔を伏せ、胸を押さえて自分を律しようとしながらも、先ほどまで見せていた凛々しいほどの乗里の姿が、今もまだ目に焼き付いて離れない恵姫ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る