霎時施その三 姫屋敷からの使者
恵姫と才姫が表御殿の客間に入ると、中には左右衛門の他に一人の女が座っていました。どうやらこれが使いの者のようです。
「ようやく布が来おったか。今、どこに居るのじゃ」
客間に入るなり挨拶もせずにこの言葉。そんな無作法を気に掛ける素振りも見せず使いの女は答えます。
「布姫様は本日昼頃、江戸湊にお着きになられ、只今は姫屋敷にてお休みされております。乗里様と共に登城される前に、姫屋敷を訪ねて欲しいと仰っておられました」
姫屋敷は伊瀬や記伊の姫衆が江戸に滞在する時に使う屋敷です。大名の江戸屋敷と同じと考えてよいでしょう。何故このようなものが必要になるかと言うと、公儀の姫衆嫌いが周知の事実だからです。
かつては江戸の寺も神社も、他の土地と同じく姫衆の世話を快く引き受けてくれました。しかし徳川の世となり江戸が将軍のお膝元になると、公儀に遠慮して姫の世話をしたがらなくなったのです。
足利の世でも京の都では同じ事が起きましたが、公家の力との兼ね合いで今ほど酷くはなく、京に姫屋敷が作られる事はありませんでした。その頃の京とは違い、今の江戸には徳川家だけでなく諸国の大名も多数住んでいます。その結果、武家と仲の良くない姫衆を冷遇する雰囲気が、寺や神社にも作り出されてしまったのでした。
「姫屋敷か。話に聞くだけで行った事はないのう。どこにあるのじゃ」
「この屋敷からですと一里ほどの場所にございます」
「よし、ならばすぐに会いに行こうぞ。案内致せ」
今日の恵姫はいつも以上にせっかちです。使いの者としか口を利かず独断で話を進めています。さすがに左右衛門が口を挟んできました。
「お待ちくだされ、恵姫様。一里ともなりますと、とんぼ返りで帰ったとしても日暮れまでには戻れますまい。姫様に夜歩きをさせるような真似はできませぬ。それに布姫様はお着きになられたばかり。長旅の疲れも残っておりましょう。姫屋敷に参られるのは明日になさっては如何ですか」
「そうだよ、恵。いくらあんたが暇でも布は暇じゃないんだからさ」
二人に言われてようやく我に返る恵姫。暇を持て余し過ぎて少々暴走してしまった自分に気付いたようです。
「うむ、それもそうじゃな。では布に会うのは明日にして、使いの者と話でもするか」
その後はお福と雁四郎も呼んで、お茶を飲みながらのお喋りとなりました。姫屋敷についてほとんど知らない恵姫たちに、使いの者が色々と教えてくれます。
「布姫様が参られて
「禄と寿か。わらわも初めて会う姫ゆえ楽しみじゃ。才も初めてなのであろう」
「ああ、そうだよ。あたしが斎主宮に入った時には、二人とも江戸に居たんだからねえ」
徳川の世になって大名が正室と嫡子を江戸に置くようになった時、姫衆に対しても同じ行動を取る事を公儀は暗に求めてきたのです。勿論拒否してもよかったのですが、武家との関係がこれ以上悪化する事を危惧した斎主が了承し、姫屋敷には常に一名以上の姫が滞在する事となったのでした。
今居る禄姫と寿姫は双子の姉妹。先代の斎主の頃から江戸に住んでいます。どちらも伊瀬の姫衆です。かつては記伊の姫衆が居た事もありましたが、伊瀬の方が姫の数は圧倒的に多いので、姫屋敷に住むのはほとんどが伊瀬の姫衆となっています。
「禄姫様、寿姫様は時と場所に関与できる力をお持ちと聞いております。どのような業を使われるのか大変興味深いですなあ」
「おい、雁四郎、姫の業は見世物ではないのだぞ。気安く興味深いなどと申すものではない。しかし、それほどまでに二人が喜んでおるのなら、布が来ずとも姫屋敷に行っておけばよかったのう。惜しい事をしたわい」
いい暇潰しができたのにと悔しがる恵姫。さすがに一度も訪れた事のない姫屋敷への訪問は遠慮していたのです。なにしろそこには顔見知りは一人も居ないのですから。何の用もなくただ暇だから来た、だけでは余りにも相手に失礼過ぎます。如何に姫衆同士でも初めての訪問とあっては、それなりの大義名分が必要なのです。
「ところで布はどんな様子じゃ。わらわたちに何か言ってはいなかったか」
「特にお疲れのご様子もなくお元気です。恵姫様にはこちらへ訪ねて来て欲しいと、それだけを申しておりました。ただ……」
ここで使いの女は口を閉じてしまいました。話してよいものかどうか迷っているようです。女の困り顔見て、才姫が冷やかすように言いました。
「ただ、なんて言葉を口にしちまったら、その続きを言わずに済ませられるはずがないさね。迷ってないでさっさと言っちまいな」
使いの女は苦笑すると閉じていた口を再び開きます。
「布姫様は年に一度は必ず姫屋敷に立ち寄ってくださいます。そしてこれまでずっとお一人でいらっしゃっていました。ところが今回に限ってはお連れの方が一名いらっしゃるのです」
「へえ~、あの布が道連れと一緒とはねえ。さすがに一人旅が寂しくなってきたんじゃないのかい」
揶揄うような口調の才姫。一方の恵姫は少々興ざめした顔をしています。
「何じゃ、勿体ぶって話した割には大した事ないのう。その同伴者と申す者、大剣を背負った大女で、着いた早々、腹が減ったから何か食わせろとか言い出し、食わせてやったら眠いから寝るぞとか言って、すぐに横になって寝てしまうような奴ではなかったか。それはな毘沙と言って、伊瀬の姫衆の中で一番行儀の悪い姫じゃ。まあ、力は化け物みたいに強いがな」
「いえ、毘沙姫様ではありません」
即座に否定する使いの女。また恵姫の暴走早合点だったようです。
「毘沙ではないと申すか」
「はい。毘沙姫様もニ、三年に一度ほど姫屋敷を訪れてくださるので、顔は知っております。此度の方は私が姫屋敷に奉公を始めてから、一度も見た事のない方です」
「ほほう。それは気になるのう」
布姫も毘沙姫もこれまで同伴者を連れて間渡矢を訪れた事はありませんでした。たまに二人で一緒に来る事はありましたが、姫以外の同伴者を連れて来た事は一度もなかったのです。
「拙者たちが下田を去った後も、布姫様はしばらく留まっておられました。同伴された方と何か関係があるのではないでしょうか」
雁四郎の言葉を聞いて下田での布姫の言葉を思い出す恵姫。所用があって一緒に江戸には行けない、布姫はそう言っていたのです。恵姫たちと一緒に行けないのは、別の人物と一緒に江戸に行くためだったからではないのか……それは十分あり得るように思われました。
「別に気に病むような事でもないさね。明日になれば布に会えるんだ。その時に聞けばいいんじゃないのかい」
才姫は興味なさそうです。江戸に来たのは殿様の病を診るため、そしてその目的が既に達せられている才姫にとって、これ以上江戸に留まる理由はないのです。布姫が誰と来ようがどうでもいい話なのです。
「うむ、それもそうじゃな。明日は朝食を済ませたらすぐに姫屋敷に向かうとしよう。異論はなかろう左右衛門」
「ございません。それよりも布姫様がようやくお着きになられたのですから、某は明日も城に赴き、松平家と比寿家の縁談について申し開きの日取りを決めてまいります。実は今日も老中より、嫁入りの話はどうなっているだの、与太郎とか申す者はいつ来るのかだのと詰問されましてな。与太郎殿の件は後回しにして、取り敢えず縁談の件だけでも早く片付けておきたいのです」
「そうか、よろしく頼むぞ。乗里にも布が来た事を知らせておいてくれ」
「はっ!」
明るい声で答える左右衛門。恵姫たちが江戸に来てから早六日。これまで何の進展もなかった比寿家上屋敷も、ようやく止まっていた歯車が回り始めたようです。
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