霎時施その四 布姫の要請
次の日の朝早く、恵姫たち四人は上屋敷を出て姫屋敷へ向かいました。使いの女にもらった地図は非常に細かく分かりやすく書かれていたので、道に迷う心配はなさそうです。
「この地図によりますれば随分と海に近いようですな。しかも品川宿の近くのようです。宿場目指して歩くとなると、伊瀬参りの旅人のような気分になりますな」
「城の近くでは公儀が嫌がるゆえ、そのように離れた地に姫屋敷を作ったのであろうな。随分と気を使っておるのう」
地図に書かれた指示に従って、大名屋敷の並ぶ通りを南西に進んだ後は東海道に入り、品川宿目指して歩く恵姫一行。五街道の中で最も賑やかな街道だけあって、行き交う人々も大勢です。
「こうして街道を歩く旅も良いものでございますな。次は船ではなく徒歩にて江戸に参りたいものでござる」
旅好きの雁四郎はすっかりご機嫌です。お福と恵姫も初めて歩く街道とあって、やはり物珍しそうに景色を楽しんでいます。ただ才姫だけは早くも
やがて地図の指示に従って街道を外れ、西に向かいます。そこからさほど遠くない、ほとんど海岸に近い場所に姫屋敷はありました。いつものように恵姫が門を叩いて叫びます。
「おーい、布。恵じゃ。望み通り会いに来てやったぞ。早く門を開けるのじゃ!」
ほどなく門は開けられ、昨日の使いの女が四人を招き入れてくれました。比寿家の上屋敷よりも小さい敷地ながら、表と奥の二つの御殿が建てられています。
恵姫たちは表御殿の大広間に招かれました。どうやら茶を飲みながらのんびりと話をするのではなく、謁見という形できちんと会いたいようです。
「堅苦しいのう、布の奴め。奥御殿の座敷で寝そべって話をしようかと思っておったが、これでは気が休まらんわい」
控えの間で茶を出されてしばし一服した後とはいっても、大広間に入れば嫌でも緊張してしまいます。やがて上段之間に布姫が現れました。
「おお、布よ。久しぶりじゃのう」
大広間だろうが居間だろうが態度も言葉も変わらない恵姫。布姫は軽く頭を下げると下段之間に居る四人に向かって挨拶をします。
「皆様、よくお出でくださいました。このような場所からの物言いは本意ではありませぬが、恵姫様にどうあっても飲み込んでいただきたき儀がございますので、敢えて大広間を選ばせていただきました」
いつも真面目な布姫ですが、今日はいつも以上に真剣な様子です。恵姫も姿勢を正して座り直し、布姫の言葉を待ちます。
「恵姫様、結論を先に申しましょう。公儀に対して、比寿家を断絶させるつもりであると申し上げていただきたいのです」
「な、何じゃと!」
せっかく姿勢を正して座ったのに、すぐさま立ち上がる恵姫。布姫は話を続けます。
「昨日、使いの者が左右衛門様の文を携えて戻って参りました。お殿様亡き後は養子に出した我が子を領主にし、比寿家は存続させる、それが恵姫様のお考えのようですね」
「そうじゃ。父上存命中は口出しできぬが、亡くなった後はわらわが比寿家の頭領。断絶など決してさせぬ」
「それでは公儀が納得致しませぬ。これからもずっと隠密の監視の目が恵姫様を狙い続ける事となりましょう。松平家への嫁入りの条件は公儀が比寿家から手を引く事。これが果たせないとあらば嫁入り話すら流れましょう」
「ふっ、乗里なんぞの嫁になどならずとも良いわ。公儀も改易したいのならすれば良いのじゃ」
「嫁に行かぬまま比寿家がなくなれば、家臣はどうなります。恵姫様自身はどうされるのです。あるいは松平家が優秀な家臣を何人か召し抱えてくれるかもしれませんが、家を無くした恵姫様を拾ってくれる物好きな武家などありませんよ」
「ぬぐぐ……」
返答ができず歯ぎしりする恵姫。布姫相手に口論をするなど、毘沙姫に素手で立ち向かうくらい無謀な事です。言い負かされるに決まっています。
「恵姫様。比寿家存続の志を捨てよとは申しません。されど此度はそれを口にせず、公儀には嘘偽りを述べていただきたいのです」
「嘘を申せじゃと。そのような真似ができようか。わらわは姫じゃぞ。伊瀬の姫衆の一人として己の志と違える言葉を吐くなどできるはずがなかろう。布よ、そなたとてこれまで戒律を守って生きてきたはずじゃ。もしそなたがわらわの立場ならばどうする。公儀に嘘を言えるのか」
「言えませぬ」
恵姫お得意の無茶ぶりにも平然と答える布姫。恵姫の悪人面がほくそ笑んでいます。
「見よ、言えぬであろう。そなたができぬ事をわらわにせよと申すのか。余りに理不尽な要求とは思わぬのか」
「嘘は言えませぬ。しかしながら私は武家に対して何の未練もありませぬゆえ、真実を申し述べた後、領主の娘としての立場を捨て城を出ます。嘘を言えない恵姫様にそのお覚悟がおありならば、嘘を言えとは申しません。己の思うところを存分に公儀に申し上げた後、城を捨て、家を捨て、出家するなり旅に出るなり好きになさいませ」
「うぐぐ……」
またも言い負かされた恵姫。武家として生きてきた以上、それを捨てる事などできようはずがありません。
「武家として生きたい、しかし姫としての誇りは捨てられない、これは単なる我儘です。今の世の武家はすべからく徳川家の家臣。公儀の顔色を窺い、機嫌を取り、平伏して生きていくしかないのです。嘘偽りを述べるのも武家として生きていくのであれば仕方のない事。武家としても姫としても道を踏み外さず生きていく事など、今の世では不可能なのです。恵姫様、どちらかをお選びなさいませ。己に正直に生きるため武家を捨てるか、嘘をついてでも武家として生きていくか」
「……」
恵姫は答えられませんでした。呻き声すら出ませんでした。布姫の言わんとする事は分っていました。理屈は全くその通りです。しかし頭では理解できても感情がそれを拒否するのでした。
『わらわは姫の誇りを守ったまま武家として生きていきたいのじゃ。そう思う事の何が悪いのじゃ』
顔を伏せ拳を握り体を強張らせたまま何も言えない恵姫。布姫もこれ以上何も言おうとせず、冷たい目で恵姫を見下ろしています。
「さてさて、布様の冷淡さは、幾つになってもお変わりない事じゃて」
大広間の隅から皺がれた声が聞こえてきました。恵姫を始めとする四人が一斉に振り返ると、二人の老婆が座っています。
「布様、それくらいにしておあげなされませ。恵様もすっかりお困りのご様子ですじゃ」
「そうそう、いきなりどちらかに決めろと言われて、すんなり決められるような話でもありませぬじゃ。ここらで一休みして美味い菓子でも楽しみませぬか。せっかく姫屋敷まで参ってくださった方々、手厚く持て成さねば罰が当たりますぞな」
二人の老婆からそう言われた布姫。小さくお辞儀をすると抑揚のない声で言いました。
「そうですね。恵姫様、少しきつく言い過ぎました。お許しください。この話はこれで終わりに致します。後は恵姫様のお心のままになさってください。この件に関して私は公儀への口添えを致しません。乗里様、そしてご家老様のお二方だけを頼りにして、上手く切り抜けてくださいませ」
布姫は静かに立ち上がり大広間を出ていきました。姿が見えなくなるとそれまで場に張り詰めていた緊張がようやく解け、皆、安堵の吐息を漏らしました。早速才姫が二人の老婆に話し掛けます。
「あんたたち、もしかして禄と寿かい」
「はいはい、左様でございますよ。こちらは禄、そちらは寿。よろしゅうお願い致しますじゃ」
気さくに答える禄姫と寿姫。どちらも相当な年月を生きてきたのは間違いない容貌をしています。長生き比べをしたら、間渡矢の生き神様と言われる大婆婆様にも引けを取る事はないでしょう。しかも二人の容姿は非常によく似ていました。どうやら双子の姉妹のようです。
「どちらかに、決めよ、か……」
場の空気が和んでも恵姫の心は晴れませんでした。今日の曇り空のように、胸の内には今にも降り出しそうな雨雲が広がっていたのです。
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