霎時施そのニ 座敷の二人

 左右衛門と雁四郎の密会から更に二日が経ち、今日は十月最初の日。朝から小雨が降り続いている比寿家の上屋敷奥御殿では、八つ時のお茶を済ませた恵姫が座敷でゴロ寝をしています。


「この屋敷に来て今日で六日目じゃ。布も与太郎も一向に姿を見せぬ。一体いつになったらやって来るのかのう」

「またその話かい。いい加減、耳にタコができちまったよ」


 文机の前に座って草双紙くさぞうしを読んでいる才姫は、書から目を離さずに恵姫の相手をします。


「こうなると暇で仕方がないのう。船に乗っている時は思う存分海遊びができたが、この屋敷は海まで遠いうえに、左右衛門の奴が無闇に外へ出るなと言いおる。その癖、己はどこぞへ出掛けておるではないか。いい気なものじゃ」

「今日は登城日じゃないのかい。殿様の代わりに城へ行って老中と会ってるんだろ」


 在府の大名は式日の他に月三回定例の登城日があります。恵姫の父は病のため夏頃から登城できない日が続いていました。そこで江戸家老にして留守居役の左右衛門が、殿様の病状説明のために登城していたのです。


「ああ、そうじゃったな。忘れておったわ。父上もまだお元気だった頃は、行列を仕立てて大手門まで歩き、家来を置いて城内に入り、城坊主に気を遣い、控えの間で待たされ、その挙句に何をするかと思えば、大広間に並んで頭を下げて帰ってくるだけじゃ。登城の後の父上のやつれようは痛ましいほどであった。江戸に来るたび病になるのも無理はないのう」


 以前、恵姫が江戸屋敷に滞在したのは幼い頃、ほんのひと月の間だけです。それでも鮮明に記憶に残るくらい、恵姫の父は登城のお役目を気苦労に感じていたのでした。


「その頃、あたしが江戸に来て診てやっていりゃ、ここまで重くはならなかったかもしれないねえ」


 才姫は草双紙から目を離すと縁側の障子を眺めました。小雨はやんで少し日が差してきたようです。


「あ~、暇じゃ。これほどやる事がないと、お稽古事が懐かしくなってくるわい。庭の草花でも引っこ抜いて床の間にでも飾ってやろうかのう」


 ここ数日は雨続きで、朝も昼も夜も座敷でゴロゴロしてばかりいる恵姫。あれほど嫌がっていたお稽古事ですら恋しく思えてくるのですから、小人閑居して不善をなすの諺通り、このまま放っておくと何を仕出かすか知れたものではありません。


「庭にも池はあるだろう。魚でも釣ったらどうだい」

「左右衛門から池の鯉には手を出すなと言われておる」

「それならお福を見習って、奥の女中を手伝うのはどうだい」


 手持ち無沙汰なのは恵姫だけではありません。お福もまた毎日暇を持て余していたため、自分から進んで奥の女中たちのお役目を手伝い始めていたのです。


「言われるまでもなく、お福と共に手を貸そうとしたのじゃ。ところがのう、何故かは分らぬがわらわが手を貸せば貸すほど、女中の仕事が増えていくのじゃ。仕舞いには『お願い致しますから恵姫様は座敷に居てくださいまし』と言われる始末。逆にお福は皆に喜ばれておる。よくできた娘じゃ」


 才姫は自分の発言を後悔しました。恵姫に女中仕事が務まるはずがない事は分り切っていたはずです。しかも既に試していたとあっては、ますます無用な忠告になってしまいました。


「それなら三味線でも教えてあげようかねえ。この屋敷にも二棹くらい置いてあるだろうし」

「それはお断りじゃ!」


 有無を言わさず拒否する恵姫。どんなに暇でお稽古事が懐かしくなっても嫌なものは嫌なのです。冷たくあしらわれた才姫は再び書に目を落として読み始めました。


「何を読んでおるのじゃ、才」

「これかい。草双紙だよ。暇なら恵もお読みよ。いい時間潰しになるさね」

「この屋敷の書はどれも詰まらぬ。どれだけ探してもよだれが垂れるような書は見つからなんだわ。あれでは時間潰しではなく時間の無駄じゃ」


 潰すのも無駄も大して変わらないだろ、そもそも書はよだれを垂らすために読むものじゃないだろと思いつつ、口に出しても仕方がないので無視して読み続ける才姫。返事がないので恵姫もしばらく座敷でゴロゴロしていましたが、よほど暇なのかまた話し掛けてきます。


「才よ、昨日も同じ書を読んでおったではないか。それほどに面白いのか。どのような題名の草双紙なのじゃ。どのような事が書かれておるのじゃ。教えてくれぬか」

「ああ、もう、うるさいねえ。これじゃ落ち着いて読めやしない」


 才姫は読んでいた書を閉じて立ち上がると、障子を開けて縁側に出ました。雨上がりのひんやりした空気が座敷に流れ込んできます。恵姫は文机の上に置いてある書を取り上げました。


「ほう、好酒一代女こうしゅいちだいおんなか。如何にも才の好きそうな題名じゃのう。どのような話なのじゃ」


 人に話を語って聞かせるのは全く性に合わない才姫でしたが、このままでは恵姫が邪魔をして続きを読めないのは明らかなので、渋々話して聞かせます。


「その題の通り、無類の酒好き女の話さ。七才で酒の味を覚えて以来、近所の酒屋、ご隠居の濁酒どぶろく、漬物屋の粕漬、虎屋の酒饅頭、ありとあらゆる酒に手を出し、遂に十九の時に親に勘当されちまう。それでも酒への情熱は収まらず、三味線一棹持って諸国を放浪。各地の酒豪に飲み勝負を吹っ掛けながら酒修行に励み、三十五の時、久しぶりに郷里に帰れば父親は既にこの世を去った後。それでも生きて帰ってきた娘に大喜びした母親が、遺産の二千五百両を分け与えるのさ。すると今度はこの大金を元手にして、女だてらに遊女を侍らせての酒遊び。江戸の吉原、京の嶋原、大坂新町、博多柳町と、有名処で豪遊を繰り返す日々を送り、ふと気が付けばもう還暦。長崎の丸山で遊び納めをした後は、山盛りの酒樽と粕漬を好酒丸に詰め込んで、馴染の遊女七人と共に、酒が川となって流れているという酒護島目指し、海の彼方へと船出していったのさ。その後の行方は誰も知らない……」


 珍しく恵姫の眉間に皺が寄っています。自分が想像していた物語と才姫が語った物語の落差が、華厳の滝もかくやと思われるほどに大きかったためです。


「……まあ、何じゃな。やはり読まずにおいて良かったわい。才はその話のどこが気に入ったのじゃ」

「女ひとりで諸国を巡りながら自由気ままに暮らせるなんざ、それこそ夢物語さね。現実離れしているから楽しめるんだよ。もう二回も読んじまった」


 そんなものかと思う恵姫。これが「好酒一代女」ではなく「好鯛一代女」なら、きっと恵姫も夢中になったに違いありません。


「さっ、これで気が済んだろ。あたしの邪魔をしないでおくれよ」


 縁側から座敷に戻った才姫は、文机の前に座るとまた書を読み始めました。さすがにこれ以上のお喋りは気が引ける恵姫。邪魔にならないよう縁側に出たのですが、今度は別の邪魔者がやって来ました。


「恵姫様、才姫様、入ってもよろしいでしょうか」


 襖の向こうで女中の声がします。才姫は軽く舌打ちすると「入んな」と短く答えます。


「失礼致します」


 入ってきたのは上屋敷奥御殿で恵姫たちの世話係りとなった女中です。てきぱきとよく働く割に口数が極端に少ないので、磯島の小言に辟易していた恵姫にはとても気に入られていました。


「どうしたのじゃ。まだ夕食には早いであろう。お福が何か仕出かしたか」

「いえ、ご家老様がお呼びなのです。至急、表御殿に来ていただきたいと」

「左右衛門が呼んでおるじゃと。城へ行っていたのではないのか」

「いい加減帰って来てもいい時分だよ。それにしても面倒だねえ。用があるなら向こうがこっちに来りゃいいのに。何の用か言ってなかったのかい」

「姫屋敷から使いの者が来たようです。何でも布姫様というお方が先ほど到着されたと……」

「おおっ! 遂に来たか。待ちかねたぞ」


 喜びの声を上げながら座敷を飛び出し、玄関目掛けて廊下を走る恵姫ではありました。

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