第五十三話 こさめ ときどきふる

霎時施その一 二者協議

「そうか。乗里様がそのような事を仰られたか」


 表御殿の小居間で向かい合って座っているのは左右衛門と雁四郎です。二人の間には少しばかり重苦しい雰囲気が漂っています。


「本来ならば直ちにご家老様のお耳に入れるべきかと思いましたが、恵姫様の陰口を叩くような気が致し、本日までどうすべきか思い悩んでおりました。しかし、これは比寿家のみならず松平家にもかかわる問題だと思い直し、本日ご報告申し上げた次第です」


 恵姫と雁四郎が出府の挨拶のために松平家の上屋敷に赴いてから三日が経っていました。恵姫の無礼な態度はいつもの事なので仕方がないとしても、公儀への受け答えに対する乗里の注文を恵姫が無視した事、そして最後に乗里が放った言葉、この二つはずっと雁四郎の心に引っ掛かっていたのです。


「いや、よく話してくれた、雁四郎。確かに恵姫様をおとしめるような話ではあるが、だからと言って一人の胸の内に留めておくには重すぎる内容であるからな」

「ご家老様はどのように思われますか。乗里様らしからぬ振る舞いと言葉、松平家の親切の裏に何か別の目的があるような気がするのですが」

「それは邪推であろう」


 即座に答える左右衛門。解せない思いを抱きながらも雁四郎は話を聞きます。


「厳左殿も毘沙姫様もそしてお主も、武に生きる者は単純すぎるようだ。己に牙を向けば敵、己に追従すれば味方、どちらかだと思っておる。人はそのように一律的に決められるものではないぞ。味方であっても尻を叩かねばならぬ時がある。乗里様にとっては、此度の恵姫様の態度がよほど腹に据えかねたのであろう。それゆえに出てしまった言動なのであろうな」

「乗里様は怒っているようには見えませんでしたぞ」

「それは友乗殿の教育の賜物であろう。上に立つ者、みだりに怒りを表すべからず。その教えが身に染み込んでおられるのだ。しかし、恵姫様の態度はそんな乗里様ですら怒りを覚えずにはいられぬものであったのだ。公儀の前で失態を演じれば、それは松平家の体面にかかわる。恵姫様の出方によっては、肩入れしている松平家まで何らかのお咎めを受ける恐れもある。その苛立ちが言動となって表れたのであろう」


 考えてみれば乗里は恵姫より年下、感情の起伏が激しくて当然の年頃なのです。それを領主という鎖で縛り付け、分別ある大人のように振る舞っているに過ぎないのです。

 しかもこの策は乗里不在の状態で考え出され、決定され、否応なく従わされているのです。にもかかわらず公儀の矢面に立たされるのは乗里ひとり。恥をかくのも責任を取るのも全て領主である乗里です。


 ここまで貧乏くじを引かされ、更に協力者であるはずの恵姫が反抗的な態度を取るのですから、頭に来ない方がどうかしています。恵姫に襲い掛かろうとしたり、雁四郎を脅すような言葉を吐いたりしたのも、無理からぬ事と言えましょう。ようやく乗里の心情が理解できた雁四郎です。


「それでは乗里様があのような言動を取られた真意は、どこにあると思われますか」

「このままでは策は失敗する、もはや松平家では手の打ちようがない、そちらで恵姫様を何とかして欲しい、大方こう言いたかったのではあるまいか」

「我らがあの恵姫様を何とかできましょうか」

「何とかせねばなるまい。もはや比寿家だけの問題ではないのだからな」


 陽気な左右衛門も珍しく困り顔です。寛右や友乗の説得によって比寿家断絶の件は受け入れてくれたものと思っていたのですが、雁四郎の話を聞く限りではそうでもなさそうです。公儀からの質問のされ方によっては、隠していた尻尾がたちまちのうちに暴かれてしまうでしょう。


「それでもう一度訊くが、殿が生きておられる間は判断を殿に任せるのでどうするかは決められぬ。殿が亡くなった後は我が子を養子に出して存続させるつもりである。恵姫様はこのように仰られたのだな」

「はい。さすがの乗里様もすっかり匙を投げられて、説得もやめてしまわれたのです」


 左右衛門の困り顔が諦め顔に変わりました。こうなれば江戸家老の自分が恵姫の説得に当たるしかありません。しかし寛右、友乗、乗里ですら説得し切れなかったのです。三人より交渉下手の自分にできようはずがありません。


「これはもう布姫様の到着を待つより他はないであろうな。この策は寛右殿、友乗殿だけでなく布姫様のお知恵も借りて立案されたもの。布姫様の読みの深さを考えれば、恵姫様が容易に協力してくれぬ事すら見通しておられるかもしれぬ」

「なるほど。それは良きお考えですな」


 結局はかつての厳左同様、布姫頼りになる比寿家の面々です。いずれにしても布姫と与太郎が江戸に姿を現さない限り、話を進める事はできないのです。ここは気長に構えるしかないでしょう。


 取り敢えず先日の松平家挨拶の件については、これが二人の出した結論となりました。一段落したところで茶を飲み心を寛がす二人。まだ昼間ですがどちらも急ぎのお役目はありません。冷たい雨が降っているので外に出るのも億劫です。

 所在なげに小居間に座り続ける二人。こんな時は日頃思っている事が口に出てしまうものです。左右衛門が愚痴っぽくつぶやきました。


「殿がお元気になられれば、我らも安心できるのだがな。厳左殿や寛右殿もさぞかし心配しておる事だろう」

「国許へ帰らず江戸に留まる事について、公儀からのお咎めはないのですか」

「それは心配無用だ。国許に留まれば大問題であるが、江戸に留まるのならば公儀は何も言わぬ。病だけでなく領地の災害や飢饉で参勤交代を免除される事もあるのだからな。しかも最近は仮病を使ってまで江戸に留まろうとする大名も居るらしい」

「ほう、それは興味をそそられる話でございますな」


 身を乗り出す雁四郎。左右衛門はいつもの陽気な顔に戻ると、井戸端で噂話をする長屋の女のように話し始めました。


「江戸に正室と嫡子を住まわせるようになって随分になる。生まれた時から江戸住まいの嫡子にとっては、国許など話に聞くだけの未知の土地。本来の住まいは江戸であると思い込んでしまうようになる。それが突然領主になったところで国許への愛着など抱きようがないであろう。参勤交代で初めて己の領地へ足を踏み入れれば、見知らぬ土地に知り合いは居らず、城代家老が威張り散らしている。そのような国許へ戻りたくないと思うのは無理からぬ事であろうな」


 確かに無理からぬ事かもしれませんが、それでは領主としての責務を果たしているとは言えません。雁四郎はすっかり呆れてしまいました。


「同じ武家の者として実に情けない話でございますな。さりとて仮病を使う大名など、滅多に居らぬのではないですか」

「それがそうでもないのだ。仮病で滞府を願い出る大名は年々増しているらしい。ただでさえ江戸には武士が多いのに、これでは増える一方だと公儀も頭を悩ませておるようだ。わしも今年は頭が痛いわい。殿が江戸に居られる年は屋敷の経費が跳ね上がるのでな。それが二年続くとなると、国許へも相当な負担を強いる事となる。できれば殿には国許へ帰っていただきたいのだ。厳左殿や寛右殿も殿のお体以上に銭の心配をしておるだろうな」


 また気が滅入るような話になってしまいました。銭の話題になると、その場の雰囲気が暗くなるのは比寿家の昔から続く伝統なのです。

 雁四郎はため息まじりに言いました。


「銭のない国へ行きたいものですな」

「まったくだ。いや、それは簡単ではないか。間渡矢に帰ればよいのだ。あそこには銭がないからな。ははは」

「……」


 それは左右衛門渾身の冗談だったのですが、雁四郎には通じなかったようでした。


 外からはしとしとと静かな雨の音が聞こえてきます。日差しのない小居間に座り、すっかり冷めてしまった茶をすする左右衛門と雁四郎ではありました。

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