霜降
第五十二話 しも はじめてふる
霜始降その一 江戸湊
下田を発って五日が過ぎていました。御座船間渡矢丸の甲板上で仁王立ちになった雁四郎は、間近に迫って来た早朝の江戸
「なんと早く過ぎ去った五日間であった事だろう」
島羽から下田までは苦悩と寝不足に
下田までは朝、昼、夕と日に三度も釣りをして、その度に船を止めていたのですが、下田を出てからは昼釣りの一度だけになってしまったのです。
また御座船はこの五日間、正確に江戸を目指して進んでいました。恵姫が変な夢を見て進路を逸れるような事は一度も起きなかったのです。
「このような船旅ならば喜んで恵姫様の
雁四郎をしてこのように言わしめるほど、下田を出てからの恵姫は借りてきた猫のように、いつものお転婆が影を潜めていました。それもこれも了辿寺で聞いた布姫の話が心に引っ掛かったままだったからです。
「恵、そろそろ降りる支度をしなよ。江戸湊が見えてきたよ」
才姫にこう促されても、恵姫は船縁の柵に寄り掛かったまま、ぼんやり海を眺めているのです。
「お福と斎宗宮、一体どのような関係なのかのう」
そうして恵姫は五日前に起きた、了辿寺での出来事を思い出すのでした。
* * *
ほうき星が沈んでもお福の傍に居れば与太郎は留まり続ける、それだけでも驚きだったのに、本来なら与太郎は斎宗宮に現われるべきだったと聞かされた恵姫、一つの疑問を布姫にぶつけました。
「お福と斎宗宮を比べれば圧倒的に斎宗宮の方が大きいであろう、なのに何故与太郎はお福の元へ現れるのじゃ。強い磁石と弱い磁石があれば、金物は強い方へ引き付けられるのが道理であろう」
この疑問に対して布姫はこう答えました。
「磁石が引き付けるのは鉄だけではありません。磁石は磁石を引き付ける事もできるのです。与太郎様自身もまた場を持っています。その場が斎宗宮ではなくお福様を選んだのではないでしょうか」
「与太郎の意志が関係していると言うのか」
「恐らくは……」
この点について、布姫はまだ確証を持てていないようでした。ただ、恵姫は不思議とこの説明に納得していました。それは与太郎の想い人であるおふうが、どうやらお福の子孫らしいと聞かされていたからでした。好き嫌いの感情は人と人の間に働く力として非常に大きな影響を及ぼすはずです。与太郎がそうは思っていなくてもお福の中におふうの姿を見出し、引き寄せられたとも考えられます。
「なるほど。では、もうひとつ教えてくれ。お福と斎宗宮はどのような関係なのじゃ。何故同じ場を持っておるのじゃ」
「それは……私がお答えする事ではありません」
布姫はそう言うと、隣に座っているお福に目を遣りました。済まなそうに顔を伏せるお福。それだけで恵姫は自分の問いが如何に愚かであったかを悟りました。お福の素性を訊くに等しい問い掛けだったからです。
これまでお福は自分の身の上について一切話そうとしませんでした。話したくなければ話さなくていい、無理に口を割らせるような真似はせず、本人が話したくなった時に聞いてやればいい、誰もがそう考えていたのです。
「そうか……そうじゃな。下らぬ事を訊いてしまったのう。忘れてくれ」
恵姫の言葉を聞いて、畳に両手をつき頭を深々と下げるお福。それがお福の答えでした。そうしてこの件についてはこれでお仕舞いになってしまったのです。
それからは旅についての話になりました。恵姫も布姫も今は江戸への旅の途中、そして江戸では公儀との対決が控えています。早いうちに作戦を練っておきたいところです。
「わらわたちは御座船の支度が整い次第、今日の昼にでも下田を発ち江戸へ向かうつもりじゃ。布は如何致す。わらわたちと共に行きたいのであれば構わぬぞ」
「同行したいのは山々でございますが、昨日、急ぎの文が届き、しばらく下田に留まらねばならなくなりました。せっかくのお申し出ですのに申し訳ございません」
「そうか。では布が着くまで江戸で待つとしようぞ」
なんと多忙な身である事かと恵姫は思いました。これまでの長い年月を旅の中で過ごし、多くの人々と触れ合って来た布姫。一つ所に留まっている恵姫には想像もできないほど沢山の
「ご迷惑をお掛け致しますね、恵姫様。さりとて、これで与太郎様がいつ出現するかを気にする必要がなくなりました。これまでは出現から半日以内に全ての用を済ませなければなりませんでしたが、これからは与太郎様を好きなだけこちらの世に引き留めておけるのです。もし私の到着前に与太郎様が現われましたら、四六時中お福様に付き添わせて、私の到着をお待ちくださいませ」
正直な気持ちとしては、あの与太郎をお福の傍に近付けるような事はしたくないのです。しかし今はそんな我儘も言ってはいられません。
「うむ、不本意ながらそのように致すとしよう。できれば与太郎よりも早く江戸に参るようにな、布よ」
不承不承ながら布姫の頼みを聞く恵姫です。
こうして恵姫たちは江戸での再会を期して布姫と別れました。一晩預けておいたお福と共に港へ向かうと、お浪とお弱が明るい笑顔で迎えてくれます。
「恵姫様、すっかり準備は整ってございます。船の方の傷みは大した事もなく、手間代も随分安く済みました」
「それは重畳、感謝致すぞ」
宿で思わぬ出費をしてしまった雁四郎、ほっと胸を撫で下ろしました。
「酒樽は満杯にしてくれたんだろうねえ」
「はい。昨日捕れたアワビを譲ったところ、安くて旨い酒が手に入りましたよ」
にやりと口元を緩ませる才姫です。
「干し
「ピーピー!」
お福の肩にとまっている飛入助が羽をばたつかせて怒っています。干し蝗はあくまで飛入助の餌で、釣りの餌ではないからです。
「少し手間取りましたが何とか手に入れました。ただ少量でしたので他に干しエビなども積み込んでおります」
「干しエビか。魚に食わすには惜しいのう。わらわが食うと致そう」
海老で鯛を釣るという諺をすっかり忘れている恵姫です。
* * *
こうして下田を無事出港した御座船間渡矢丸。五日目の今日、無事に江戸へ到着となりました。雁四郎もお福もお浪もお弱も、初めて見る江戸湊の風景にすっかり心奪われてはしゃいでいます。けれども恵姫だけはまだ布姫の言葉が心に残り続けているのでした。
「与太郎か。考えてみれば、何故にあんな腑抜けで間抜けで意気地がなくておのこかおなごか分からぬような奴が、こちらに来る事になったのかのう。与太郎の世にはもっとマシなおのこが大勢居ろうものを」
「そんな奴だからこそ、来る事になったんじゃないのかい」
船縁の柵に持たれている恵姫の横で才姫が言います。
「磁石だって全ての金物を引き付けるわけじゃない。鉄なんてさ、黒くて、錆びて、その辺にゴロゴロしていて、磨いてもたいして綺麗にならず、金や銀に比べたら全然有難味のない金物さね。それでも磁石は鉄しか引き付けない。与太郎もそれと同じなのさ」
「そんな愚にも付かぬ者に何の用事があると言うのじゃ。鯛焼きや扇風機を作らせるために引き付けたとでも言うのか」
「さあね。それも立春までには分かるんだろうさ。余計な頭を使わず、待ってりゃいいんだよ」
才姫は恵姫の背中をポンと叩くと柵を離れ、屋形の赤鯛の間へ入って行きました。下船に当たって身の回りの荷物をまとめるためです。
次第に近付いてくる江戸湊からは、こちらに向かってくる二隻の伝馬船も見えます。恵姫は柵を離れると、散らかり放題になっている自分の荷物をまとめるために、屋形の黒鯛の間へと入って行きました。
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