霜始降そのニ 江戸家老左右衛門

 江戸湊には比寿家の船蔵が設けられていました。これは江戸への行き来を船で行うようになったため、削減された参勤交代の費用を当てて造営されたものです。江戸に着いた御座船間渡矢丸はこの船蔵に収容され、間渡矢への出港を待つ事になります。


「姫様、恵姫様! 左右衛門さえもんでございます。無事にお着きになられましたか。目出度い目出度い!」


 船蔵の水夫たちの手を借りて収容されていく間渡矢丸を眺めていた恵姫一行。そこへひとりの従者を引き連れ、大声を張り上げながら駆けてきたのは、江戸家老にして江戸留守居役の左右衛門です。比寿家の家臣にしては珍しくでっぷりとした体格。既に老境に入ってはいるものの、顔の色艶は良く、活力に満ちています。


「おう、左右衛門か。しばらく見ぬ間にまた肥えたのではないか」


 恵姫に腹を叩かれ、にこにこ顔で自分も腹を叩く左右衛門。厳格な厳左、寡黙な寛右、この二人とは対照的に陽気で饒舌な左右衛門は、江戸に来る前は国許の次席家老でした。食いしん坊の恵姫と気が合うので、二人で御馳走を分け合ったり奪い合ったりする仲だったのです。


 そんな左右衛門が江戸へ来る事になったのは、飛魚丸の早すぎる死去によるものでした。その責任を取らされる形で江戸家老の職を解かれ国許へ送られてきた寛右に代わり、悲しみに沈む江戸屋敷の雰囲気を少しでも明るくしようと、左右衛門が江戸家老の職に就いたのです。


「江戸には美味い物が溢れておりますのでな。ついつい食べ過ぎてしまいまする。わははは」

「ほう、それは聞き捨てならんのう。厳左に言い付けて江戸へ回す金子を減らしてもらう事に致そう」

「いや、これは恵姫様、相変わらず手厳しい事で。わははは」


 左右衛門のお気楽な性格は長年の江戸暮らしでも少しも変わらないようです。二人の遣り取りが終わったところで雁四郎が挨拶です。


「左右衛門様、拙者、雁四郎と申します。城勤めとなってまだ数年の若輩者ながら、恵姫様の警護の任を仰せつかり参上致しました。短い間ですがよろしくお願い致します」

「お主の事は父上から聞いておるぞ。なかなかに腕が立つようではないか。さりとて此度のお役目は警護というよりお守りではなかったのかな。恵姫様を姫髪付きの船に乗せればどうなるか、磯島様でなくても見当が付こうと言うもの。よくぞ無事に船を江戸まで運んでくれた。礼を言うぞ雁四郎。お役目ご苦労であった」


 恵姫とは懇意の仲である左右衛門、島羽から下田まで雁四郎がどれだけ恵姫の気紛れに振り回されたか、よく分かってくれているようです。


「いえ、そんな、礼など……」


 夜も満足に眠れぬほど苦労したのに、誰からも労いの言葉を掛けてもらえなかった雁四郎。左右衛門の優しさに触れて、思わず言葉を詰まらせてしまいました。


「さてさてこちらは才姫様ですな。これまた以前と変わらぬお美しさ。よくぞ間渡矢に戻ってきてくださった。才姫様会いたさに病の振りをして療養所にやって来ていた間渡矢の男たちも、さぞかし喜んでおることでしょう」

「左右衛、江戸には長いんだろ。もう少し粋な言い方はできないのかねえ。それじゃ江戸の町娘だってはなも引っ掛けてくれないだろうさ」

「これはまた辛辣な、わははは」

『左右衛門様、何故笑っていられるのだろう』


 首を傾げる雁四郎。左右衛門にとって女性からのキツイ一言はお仕置きではなくご褒美なのですが、雁四郎にそのような男心が分かろうはずがありません。嬉しそうに笑う左右衛門が不思議に思えて仕方ないのでした。


「そしてお福様。ふむ、評判通りの器量よし。恵姫様と違い胸もふくよか。なるほど、磯島様が絶賛されるのも無理はない」

「おい、左右衛門。今、どさくさに紛れて聞き捨てならぬ事を申したのではないか。お福の何がふくよかなのじゃ」

「ああ、これは失礼。頬がふっくらとして可愛らしいと申したかったのです。ははは」


 左右衛門の無駄口は止まりません。それまで黙って隣に立っていた従者が左右衛門の袖を引っ張りました。いい加減に話を切り上げろと言いたいのでしょう。


「さて、挨拶はこれくらいにして屋敷に向かうと致しましょうか。ああ、そなたたちはお浪とお弱であったな。日頃から海に慣れ親しんでいる海女とはいえ、女の身で水夫のお役目はさぞかし大変であったろう。姫様たちと一緒にさせてやりたいが、さすがに上屋敷に置くことはできぬのでな。この船蔵は比寿家の下屋敷も兼ねておる。ここで船の番をしながら出港までの数日間、気楽に過ごすがよいぞ」


 上屋敷は出府の大名が住む屋敷です。間渡矢では漁村に住んでいる海女を、大名と同じ屋敷に住まわせるわけにもいきません。御座船の出港までお浪とお弱はここで暮らす事になります。


「わらわからも礼を言うぞ。お浪、お弱。そなたたちにとっては海の見える場所の方が落ちつくであろう。何か不都合があれば遠慮なく申すがよいぞ」

「いえいえ、恵姫様。これほどのお屋敷で暮らせるのですから何の不満もございません。目の前の海を眺めながら、ここへ戻って来られる日をお待ちしておりますよ」


 そう言って深々とお辞儀をするお浪とお弱。二人の見送りを受けて恵姫たち一行は上屋敷に向けて歩き始めました。

 大名の上屋敷は登城に都合が良いように城の近くに置かれます。当然、江戸城周辺は大名屋敷だらけになります。比寿家の上屋敷は江戸城西の丸下に置かれていました。


「この辺りの屋敷は随分と新しいのですね」


 初めて歩く江戸の風景を物珍しそうに眺める雁四郎。通りには大名屋敷の石垣、生垣、土塀が延々と続いています。そのどれもが年代を感じさせない美しさを保っています。


「最近、大火が起きましてな。南風にあおられて北に燃え広がり、武家屋敷が数百、人は数千人も亡くなったのです。幸い、比寿家の屋敷は被害を免れましたが、もし焼かれていたらそれこそ下屋敷に殿を住まわす羽目になったでしょう」


 陽気な左右衛門ですが、さすがに神妙な顔付きに変わりました。比寿家の江戸屋敷は上と下の二カ所だけです。今の財政状況を考えれば屋敷の再建など全く不可能。焼けなかったのは本当に運のいい事だったのです。


「江戸は火事が多いからのう。数十年前に起きた明暦の大火では江戸城の天守が焼け落ち、未だに再建されておらぬからな。先日、布から聞いたのじゃが、与太郎の話によると結局徳川の世が終わるまで天守が再建される事はなかったそうじゃ。まあ、太平の世に天守など作っても無用の長物じゃからな。徳川家にしては良き判断を……」

「はっくしょん!」


 いきなり雁四郎がくしゃみをしました。話の腰を折られた恵姫はむっとした顔で雁四郎を睨みます。


「どうした雁四郎、風邪か」

「いえ、寒さのせいです。早朝とはいえ少し冷えますな。やはり東国は秋の深まりも早いようです」

「あと五日もすれば九月も終わりますからな。屋敷を出る時には霜が降りておりました。本来ならば今頃はもう江戸には居ないのですが、今年は致し方ありませんな」


 間渡矢での出来事については厳左や寛右からの文によって、左右衛門にも詳しく知らされていました。御座船出発間際にあれほどの騒ぎになっていながら、僅か数日の遅れで江戸にやって来たのですから、むしろ褒めるべき手柄とも言えます。


「遅れたとは言っても九月中に着いたのじゃ。これならば九月中に間渡矢へ発てるであろう。江戸への遅参は下手をすれば改易じゃが、国許への帰還が遅れる分には、公儀も喧しくは言わぬはずじゃ。父上にも早く間渡矢の海を見せてやりたいものじゃのう」

「その件に関しましては、恵姫様、実は……」


 言い淀む左右衛門。饒舌な口が半開きになったまま言葉を無くしています。


「何じゃ、口八丁手八丁のそなたにしては、はっきりせぬ物言いじゃな。何か言いたい事であるのか」

「はい。されどこれは歩きながら話す事ではありませぬ。屋敷に戻ってから聞いていただくと致しましょう」


 再び陽気な顔に戻るとすたすたと歩き始める左右衛門。おかしな奴じゃと思いながらその後に続く恵姫ではありました。

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