蟋蟀在戸その五 お福の場
翌日はどんよりとした曇り空でした。かなり遅い朝食を済ませて宿屋を出た恵姫たち三人の顔もどんよりとして冴えません。
「昨晩はちょっとばかり騒ぎ過ぎたねえ。さすがのあたしも頭がフラフラするよ」
「才が調子に乗って三味線を弾きまくるからじゃ。わらわも釣られて鯛の舞いやら鯨踊りやらを披露してしまったではないか」
「拙者もまだ目が覚めておりませぬ。まさか相部屋に木刀があるとは。知らぬ間に三味線に合わせて前後左右早素振りなどをしておりました」
寝不足気味のままお福の待つ了辿寺へ向かう三人。足取りは重く乱れています。無理もありません。昨晩は大騒ぎだったのです。
最初は大人しく夕食を取っていた三人でしたが、たまたま大部屋に三味線が置いてあったのが運の尽きでした。
才姫は伊瀬の置屋で仕込まれただけあってかなりの芸達者。見事な三味線の腕前に相部屋の泊り客は拍手喝采。
いつものように盃の酒をこっそり舐めていた恵姫が浮かれ出し、三味線に合わせて踊り出せば、他の部屋からも泊り客が見物に押し掛ける大盛況。
更に木刀を見つけ出した雁四郎が人間技とは思えぬ高速跳躍早素振りを始めたので、大部屋は興奮のるつぼと化してしまったのです。結局、ひとつと言っていたお銚子は三倍の三つになり、三人は他の泊り客と共に明け方近くまで騒ぎまくってしまったのでした。
「むっ、だいぶ日が高くなってきたようです。布姫様とお福様は待ちくたびれているはず。それに御座船の方も気に掛かります。急ぎましょう」
目が覚めていなくてもお役目には忠実な雁四郎です。のろのろ歩いている二人の手を取ると、動きの悪い大八車を引っ張るように歩を進めるのでした。
「お待ち致しておりました。どうぞ」
ようやく了辿寺の山門に着いた三人。昨日と同じ小坊主に案内され、宿坊の中へ入ります。布姫とお福が待っているはずの客間の前まで来ると、恵姫が襖を開けて気の抜けた挨拶をしました。
「布、お福、遅くなって済まぬのう。昨夜は少しばかり……」
ここで恵姫の言葉が途切れてしまいました。目を丸くして部屋の中を指差しています。
「な、何故じゃ、何故、お主が……」
明らかに驚いています。それは恵姫だけではありません。雁四郎も才姫も、まるで暗闇で妖怪にでも出くわしたかのような顔をしています。
「めぐ様~、遅いよ~。昨晩は宿でお楽しみだったのかなあ~」
顔をにやにやさせながら声を掛けて来たのは与太郎です。部屋の中には布姫、お福と並んで与太郎もお行儀よく座っていたのです。
「まさか、またほうき星が昇ったとでも言うのか」
恵姫はすぐさま客間に入り込むと縁側の障子を開けました。外に出て曇り空を見上げ、東から西へと探しまくります。
「無い、ほうき星など空のどこにも見当たらぬ。なのに何故お主がここに居るのじゃ、与太郎」
晴れていようが雨が降ろうが昼だろうが夜だろうが、姫の力を持つ者にはほうき星の姿は必ず見えるのです。そして与太郎がこの世に居るのはほうき星が見えている間のみ、これまでずっとそうだったのです。それが今回に限っては、ほうき星が沈んでも与太郎はこちらに留まったままです。
「布、これはどういう事じゃ。与太郎がやって来たのは昨日の日が沈む前。ならば今日、日が昇る前に帰るはずではないか。何故まだここに居るのじゃ」
「それが私の確かめたかった事でございます。そして私の思っていた通りになりました。恵姫様、それから才姫様、雁四郎様、こちらに来てお座りください。説明致しましょう」
落ち着き払った布姫の態度に、恵姫の驚きもようやく鎮まりました。客間に入って来た三人が小坊主の用意した座布団に腰を下ろすと、布姫は普段と変わらぬ穏やかな口調で話し始めました。
「ほうき星は与太郎様の世とこの世を繋ぐ架け橋。そして与太郎様のこの世における唯一の拠り所。その拠り所が現われれば与太郎様も現われ、消えれば消える、誰もがそう考えていました。けれどもただそれだけならば与太郎様はこの世のどこに現われても構わないはずです。何故お福様の居場所にだけ現れるのでしょう。それはお福様が与太郎様を引き付ける場を持っているからです。これをご覧ください」
そう言って布姫が懐から取り出したのは、黒くゴツゴツした石でした。
「雁四郎様、脇差を貸していただけませんか」
「あ、はい。どうぞ」
言われるままに脇差を抜き布姫に渡す雁四郎。布姫は自分の前に置かれた脇差に、取り出した黒い石を近付けました。カチリと音がして鍔にくっ付きます。
「ほう、これは磁石であろう。金物を引き付ける不思議な石じゃ」
「はい。されどどのような金物でも引き付けるわけではありません。このように鉄の金物にしか力を及ぼさぬのです。どうして磁石がこのような力を持つのか、それはこの石の周りに鉄を引き付ける場が存在しているからです。その場は近付けば非常に強い力を発揮しますが、遠ざかればすぐに小さくなります。お福様の持っている場もそれと同じなのです。お福様から離れてしまえば与太郎様を引き付ける力は一気に弱まり、この世に引き留めておく事は叶いません。けれどもごく身近に居れば場による力の効果は絶大となり、たとえほうき星が消えたとしても、この世に与太郎様が存在するための拠り所となり得るのです」
布姫は磁石を鍔から引き離すと、脇差を雁四郎に返しました。無言で受け取る雁四郎。何も言いません。才姫も恵姫も何も言えませんでした。布姫の話の内容が完全に理解できたわけではなかったからです。ただ与太郎だけはある程度分かっているようにも見えました。
「少し難しく話し過ぎてしまったようですね。申し訳ありません。与太郎様の世の知識を拝借して説明したものですから」
「磁石の周りにできる場を僕らは磁場って呼んでるんだよ。そうするとお福さんの周りにできているのは福場って事かな。えへへへ」
実に耳障りな与太郎の独り笑いです。小難しい説明はどうでもいいので、与太郎とお福の関係を整理しておきたい恵姫は布姫に問い掛けます。
「つまり何じゃ、与太郎がこれまでほうき星が沈むと同時に消えていたのは、お福の近くに居なかったからで、もしお福の傍に居たなら、ほうき星が沈んでも消えるような事はなかったと、こう言いたいのか、布」
「はい。これまでだけでなくこれからもずっと、それは当てはまるものと思われます」
「じゃあさ、お福と与太がどれぐらい離れれば、お福の場が効果を失うんだよ」
「さすが才姫様、良き着眼点です。ではさっそく試してみましょう。与太郎様、お願いします」
「あ、は~い」
与太郎は座布団に座ったまま、両手を使ってジリジリとお福から遠ざかります。一尺、二尺……やがて座布団が畳の縁まで来た時、一同の視線を浴びたまま与太郎の姿は消えました。
「……座布団三枚分ってところかね」
才姫のつぶやき。何もかも布姫の言う通りでした。そして誰もが感心していました。与太郎と半年以上を過ごし、一緒に居た時間が一番長い恵姫でさえ、こんな事を試してみようとは思いも付かなかったのです。
「布、やはりそなたは大したものじゃな。ひょっとしてお福の周りにある場とかいう代物、そなたには見えているのではあるまいな」
「はい、見えております」
「な、何じゃと!」
冗談のつもりで言った恵姫。藪をつついたら蛇が出て来たような顔になりました。
「失礼致しました。見えているは言い過ぎでございました。感じている、がより正確かと思われます。それは少なからず皆様も経験がおありではないでしょうか。誰かが居る気配、己に向けられた殺気、小言を言われそうな予感、それらは人が作り出した場です。注意を怠らなければ、どのような者も場を感じる事はできるのです」
「なるほど。よく分かります」
雁四郎が頷きました。剣を交える時に相手の動きを読む修行を積んできた雁四郎には、剣を持った者が発する独特の雰囲気を常に感じていたからです。
「私は昨年よりほうき星の存在に気付いていました。お福様と初めて伊瀬で会った時、ほうき星と同じ場をお福様に感じたのです。そしてお福様の傍にのみ与太郎様が現われると聞いて、此度のような事を試してみようと思い立ったのです」
お福と与太郎を一晩共に過ごさせる、単なる戯れのように思われた振る舞いにも、きちんとした理由があったのです。それは天性の聡明さだけではなく、雁四郎の日々の鍛錬同様、長い年月の旅の中で身に着いた経験に裏打ちされているのでした。
「うむ、布よ。昨日はそなたを責めるような物言いをして済まなかったのう。これで与太郎が帰る時を気にする必要もなくなったわい。感謝するぞ。では、そろそろわらわたちは港に向かうとするかのう」
「恵姫様、お待ちくださいませ。もうひとつお話したい事があります。ほうき星と同じ場を持っているものはお福様だけではないのです」
「お福の他にも持っている者が居るのか」
「はい。私は以前から何度か記伊の斎宗宮を訪れております。その内院の敷地全体には他で感じた事のない独特の場が形成されているのです。ほうき星に初めて気付いた時、そしてお福様と伊瀬で初めて会った時、私は気付いたのです。それは斎宗宮内院に満ちている場と同じだと。ほうき星が現われようと現れまいと、お福様が居ようと居まいと、この特殊な場は常に地上にあったのです」
「……何が言いたいのじゃ、布」
「与太郎様が出現すべき地点はお福様ではなかったのです。本来は記伊の斎宗宮に現われなければならなかったのです。
縁側から蟋蟀の鳴き声が聞こえてきました。日差しがなく少し肌寒いので、夕方と勘違いして鳴いているのでしょう。そして蟋蟀の声に包まれた客間は、これまでとは違う場を形成したように感じられました。
「そう、これは蟋蟀の鳴き声の場。その場に身を置けば心が静まりましょう。どのような生物も場を持っているのです」
布姫の言葉は頭の中には入って来ませんでした。与太郎とお福と斎宗宮、この三者がどのように関わり合っているのか、それだけが気に掛かる恵姫ではありました。
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