蟋蟀在戸その四 布姫の頼み

 江戸へ向けた旅の途中、立ち寄った下田港の了辿寺でしくも布姫や与太郎と会する事になった恵姫たち四人。六人の居る宿坊の客間には早くも秋の西日が差し込み始めています。


「おや、虫が鳴いておりますな」


 雁四郎に言われて耳を澄ませば、蟋蟀の声が微かに聞こえてきます。そろそろ夕暮れが近付いているのでしょう。


「さてと、与太郎の下らぬ小咄にも飽きた事じゃし、そろそろ宿に行くとするかのう。長居しておるとせっかくの金目鯛の酒蒸しが干乾びてしまうわ」


 恵姫が腰を上げました。続いて才姫、お福、雁四郎。客間を出て行こうとする四人を見て与太郎も立ち上がった途端、恵姫の厳しい突っ込みが入ります。


「おい、与太郎、わらわたちに付いて来てもお主が寝る部屋も飯もないぞ。宿は四人分しか取っておらぬからのう」

「えっ、じゃあ僕はどうすればいいの」

「知らんわ。港の野良猫にでも魚を分けてもらい、それを食って寝ろ」


 最初の頃は随分心に堪えた恵姫の毒舌ですが、何度も聞いているうちにすっかり免疫ができてしまった与太郎。「てへへ」と笑いながら布姫に尋ねます。


「あの、布様。多分僕が帰るのは明日の夜明け前くらいなので、もし不都合がなければこの寺に……」

「その事で恵姫様にお頼みしたい事がございます」


 与太郎の言葉を遮って放たれた布姫の言葉。いつにも増して真剣な響きが感じられます。一旦立ち上がった恵姫でしたが、また座布団に腰を下ろしました。


「布がわらわに頼み事か。何じゃ申してみよ」

「はい。今晩、お福様をこの寺で預からせて欲しいのです」

「お福を……」


 訝し気にお福を見れば、何も知らないと言わんばかりに首を傾げています。お福自身も心当たりはないようです。


「理由を訊いてもよいか。お福を預かって何をするつもりなのじゃ」

「はい、一晩、与太郎様と一緒に寝ていただきたいのです」

「な、何じゃと! 与太郎と寝るじゃと!」


 余りの衝撃に立ち上がる恵姫。両拳は固く握られ、肩はブルブルと震え、鼻息は荒く、両眼は大きく見開き、全身は怒りのために硬直しています。


「布、そなた正気か。お福は嫁入り前の娘ぞ。そのような娘に男と同衾せよなどと、し、しかも相手は与太郎じゃと。いや、確かに与太郎とお福は親密な仲かもしれぬ。わらわでさえ触れた事のないお福の乳を触った事もあれば、生尻をお福の眼前に晒した事も一度ではない。夜中に来た時などは明け方までお福と同じ寝床で眠っておる事もあろう。じゃが、それはあくまで偶然じゃ。意図して最初から同じ寝床で横になれば、間違いが起きても不思議ではない。いや、起きぬ方が不思議じゃ。そ、そのような、ふしだらな真似、領主の娘としては断じて認めるわけにはいかぬ」

「恵、何をひとりで興奮しているのさ。お福が恥ずかしがっているじゃないか」


 才姫に注意されてお福を見れば、俯いた両頬がほんのりと桜色に染まっています。乳だの尻だの夜明けまで一緒に寝ているだの、否定しようのない事実を公言されて、余程恥ずかしかったのでしょう。

 恵姫の怒涛の申し立てがひとまず中断したので、布姫が説明します。


「恵姫様、落ち着いてくださいませ。何もひとつの寝床で一緒に眠って欲しいとは申しておりません。二つの寝床を並べて別々に眠って欲しいと申しているのです」

「そ、それでも互いの姿が見えるような場所で寝ておれば、間違いが起きぬとは言えぬであろう」

「では、二人の間に衝立を置きましょう。これで姿は隠れます」

「衝立など簡単に倒れるではないか」


 恵姫の興奮は収まりません。如何に恩ある布姫の頼みでも、お福にとっては害にしかならない願いを聞き入れるわけにはいかないのです。


「困りましたね」


 そう言ったまま布姫は口を閉ざしてしまいました。どうしてお福と与太郎を一緒に寝かせたいのか、それがどれほど重要な事なのか、理解できる者は一人も居ません。理由が分からないだけに恵姫も容易には同意できないのでした。

 布姫は無言のまま何か考えているようです。立ったままだった恵姫は少し冷静になったのか、座布団に腰を下ろして布姫の返答を待ちました。しばらく後、ようやく布姫の口が開きました。


「では、こうしましょう。与太郎様の手と足を縄で縛り、目隠しをし、体にも縄を掛けて柱に括り付け、お福様には決して近寄れないように致します。ただし、お福様から遠ざからないように二人の手をある程度の長さの縄で結ばせていただきます。そして私もお福様の横で眠る事に致します。これならば間違いは起きないと存じますが、如何ですか、恵姫様」

「与太郎を縛るか……」


 確かにそれなら与太郎が悪さをするのは不可能です。恵姫は改めて布姫を見ました。不真面目さなど微塵も感じさせぬ真剣な表情。こうまでして頼み込むのですから、余程の理由があるに違いありません。


「そう言えば間渡矢城で与太郎があちらに帰った時、まだ確かめたい事があったのに残念じゃとそなたは申しておったな。与太郎とお福を一緒に寝かせるのは、それと関係があるのか」

「はい。あの時は昼でしたので寝る必要はなかったのです。此度は夜ですので寝る事となるのです」


 そこまで聞いても恵姫は布姫の真意を測りかねました。お福と与太郎を並んで寝かせる事には、まだ大きな抵抗を感じていました。しかし話を重ねるうちに興味が湧いて来たのもまた事実でした。凡人の理解を遥かに超える知恵者、布姫。何をするつもりなのか見てみたい……恵姫はようやく首を縦に振りました。


「分かったぞ、布。そなたの好きにするがよい。お福、済まぬが今晩はここに泊まってくれ」


 恵姫の言葉に小さく頷くお福。さすがに当事者だけあって顔の表情は強張っています。逆に与太郎は完全な腑抜け顔です。


「でへへ、お福さんと並んで眠れるなんて夢みたいだなあ。手も足も縛られて目隠しをされた僕は、お福さんに何をされるんだろう。でへへ。く、癖になっちゃいそうな自分が怖いよ。えへえへ。お福さん、優しくしてね」


 何か大変な思い違いをしている与太郎です。恵姫は軽蔑の眼差しを与太郎に向けると、ゆっくりと立ち上がりました。


「では明日、朝飯を済ませたらここに来るとしよう。昼までには港を発つつもりじゃ。それでよいな、布」

「はい、お福様は確かにお預かり致します」

「めぐ様、またね~。今度は江戸で会おうねえ~」


 舞い上がっている与太郎を残し、客間を出る恵姫たち三人。お福の事が少し気掛かりでしたが、布姫が付いているのですから心配は無用でしょう。


 寺の外へ出ると西の空は夕焼けに赤く染まっていました。それほど長居をしたつもりはなかったのですが、楽しい時間はあっという間に過ぎるものです。


「宿は遠いのか、雁四郎」

「いえ、少し港に戻るだけです。そうそう予め申しておきますが、今宵の宿はお殿様が泊まる本陣などでなはく、普通の宿屋で相部屋となります。比寿家の苦しい懐事情を知っておいでの恵姫様ならば、異存はないと思われますが」

「分かっておるわ。美味い飯が食えればどこで寝ようが構わんぞ」

「有難うございます。ところでお福様の夕食はどうされますか。今から取り消したのでは宿屋の主人も気を悪く致しましょう」

「案ずるな。お福の金目鯛はわらわが平らげてやる。飯の話をしていたら腹が空いて来たわい。急ぐぞ」


 いきなり足を速める恵姫。その後を追おうとした雁四郎に今度は才姫が尋ねます。


「ちょいと、雁。金目鯛はどうでもいいけど、酒は付けてあるんだろうね」

「あ、いえ。付けておりませぬ。もしどうしてもと仰せならば適宜頼んでくだされ。ただしお銚子はひとつでお願い致す」

「ちっ、けち臭いね。船から酒徳利を持ってくりゃ良かったよ。まあいいさ。久しぶりに揺れない畳の上で騒ぎまくろうかね。恵、あんまり急ぐと転ぶよ」


 才姫も足を速めて恵姫の後を追います。二人ともお福や与太郎の事は綺麗さっぱり忘れているようです。


「お二方とも、何とお気楽であられる事か。さりとてこれまでの六日間、明日からの五日間、船に揺られるだけの毎日なのだ。今宵は少々羽目を外したとて罰は当たらぬでござろう」


 江戸へ行けば堅苦しい日々が待っているのです。今夜くらいは恵姫や才姫を見習って、秋の夜長を存分に楽しむのも悪くないなと思い始める雁四郎ではありました。

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