蟋蟀在戸その三 与太話

 晩秋の昼下がり、下田の了辿寺で布姫と再会した恵姫たち四人。小坊主が置いて行った茶と茶請けを楽しみながら、お喋りに花を咲かせています。


「私にとっては江戸で待つより下田で待った方が良かったのです。正直、江戸は好きではありませんので」

「姫にとっちゃ公儀は敵みたいなもんだからね。毘沙も江戸に行くのは毎年ってわけじゃないようだし、江戸好きな姫なんて居ないだろうさ」


 布姫が下田に留まっていたのは、恵姫の江戸到着が遅れると見越しての事でした。布姫は九月の中頃江戸に着く予定で旅をしていましたが、途中で間渡矢城襲撃の話を知り、恵姫の江戸到着は遅れると判断。下田には必ず寄港するはずなので、そこで恵姫に会い、江戸到着の期日を決める事にしたのです。


「布には要らぬ気を遣わせてしまったな。島羽からここまで六日で来たのじゃ。ここから江戸までは五日というところかのう。さりとて与太郎が現われねば、わらわたちの用件を済ます事はできぬ。江戸での滞在を短く済ませられるかどうかは、ひとえに与太郎に懸かっておるわけじゃ」


 如何に知恵者の布姫でも、与太郎がいつ出現するかを正確に知る事はできません。結局、江戸で待つしかないのです。


「与太郎殿も此度は大活躍でございましたな。島羽では乗里様と話し詰めでしたので、じっくりと話す機会が持てませんでした。今度こちらに来た時には、我らの感謝の意をしっかり伝えたいものです」

「ふっ、雁四郎は与太郎を買い被り過ぎじゃ。おなごの格好をして逃げ回っておっただけではないか。磯島に血をやったにしても彼奴は寝ておっただけ。力を使ったのはわらわじゃ。別に礼など必要ないぞ」


 相変わらず与太郎に関しては冷酷無慈悲な恵姫です。雁四郎は少し哀れに感じて、


「いや、そうは仰られても、もしあの時与太郎殿が現われなければ、我らはどうなっていたか知れたものではありませんぞ」


 と、与太郎擁護に走ります。場はひとしきり与太郎の話題で持ち切りになりました。そして「噂をすれば影」の諺が今回も現実のものとなるのです。


「きゃっ!」


 お福の叫び声を聞いて一同そちらに目を遣れば、いつもの間抜け面をした与太郎が、お福に膝枕をしてもらう形で横たわっています。


「あれ、こんな時間に来ちゃったんだ。あっ、布様、お久しぶりです」


 与太郎は起き上がるときちんと膝を揃えて座り、布姫に頭を下げました。いつも恵姫に取っている態度とは雲泥の差です。


「おい、与太郎、どうして先に挨拶するのがわらわや才ではなく布なのじゃ。お主はかつてわらわの家来であり、今は才の家来なのじゃぞ。まずは主に挨拶するのが礼儀であろう」

「そうでした、えへへ。才様、こんにちは」

「ああ、よく来たね。別に用はないから帰っていいよ」

「帰りたくても半日経たないと帰れないんですよ。めぐ様もこんにちは。それからお福さんもこんにちは。ちょっと日に焼けたんじゃない。雁さんも久しぶりだね。元気そうでなによりだよ」


 恵姫へ掛けた言葉が露骨に少ないのは、本人ならずとも分かります。恵姫の機嫌が一気に悪くなりました。


「与太郎、お主が来るのはわらわたちが江戸に着いてからじゃ。こんな場所に現われても意味が無かろう。しかもまた手ぶらでやって来おって。非常食とかいう麦煎餅と水はどうしたのじゃ」

「ああ、あれ。まさかこんな時間に来るとは思わなかったから、部屋の隅に置いたままだよ。でもここはまだ江戸じゃないんだね。どこなの?」

「伊豆の下田です。我らは先ほど港に着き、布姫様が逗留しておられる了辿寺を訪ねて参ったのです」

「了仙寺かあ。有名なお寺じゃない。ここでペリーさんっていう異国の人と条約を結んでね、それ以降、みんな自由に海外の物を売ったり買ったりできるようになるんだ。それを切っ掛けに徳川の世も滅ぶんだよ」


 与太郎の言葉に静まり返る一同。与太郎にとっては当たり前の事実でも、恵姫たちにとっては到底信じられない絵空事のような話です。誰も返答できず顔を見合わせていると、恵姫が馬鹿にしたような顔で言いました。


「ふっ、相も変わらず適当な事を言いおって。そんな先の話、わらわたちには確かめられぬではないか。徳川が十五代目になる頃には、わらわたちはこの世に居らぬ。本当に十五代で滅ぶかどうか、ここに居る者の誰一人として確かめられぬのなら、何を話そうが咎められる事はない。いい気になって作り話をでっち上げておるのじゃろう」


 それは恵姫のいつもの毒舌には違いないのですが、同時に正論でもありました。与太郎の予言話を聞かされた者が返答に窮するのは、その真実性が希薄なためです。それこそ与太話を聞いているのと変わりはないのですから。


「そ、そんな言い方はあんまりだよ」


 他の者にとっては与太話でも与太郎にとっては紛れもなく事実。こんな言い方をされては黙ってはいられません。自分の尊厳を傷つけられた与太郎は皆に信じてもらうためにはどうすれば良いか、頭を捻ります。


「嘘か本当か分からないか、う~ん……ああ、それなら、すぐに分かるように近い未来に起きる出来事を話せばいいんだ。ねえ、雁さんって富士山を見るの楽しみにしていたんでしょ。ここに来る前に見た?」

「船の上からはっきりと見ましたぞ。想像以上に美しき姿を目の当たりにし、心癒される思いであった」


 陶然とした眼をしながら視線を宙に漂わせる雁四郎。富士の名を聞くだけであの美しい姿が目の前に浮かびあがるのでしょう。与太郎はふむふむと頷くと自信たっぷりに話します。


「あの富士山、近いうちに大噴火を起こすんだよ。確か今から六年後くらいかな。江戸まで灰が降って来るくらい凄い噴火でね、しかも五合目辺りで噴火したから、そこに新しい山までできちゃったんだ。しばらく富士山には近付かない方がいいよ」


 再び静まり返る一同。皆、顔を見合わせて首を傾げています。話が信じられないというより、辻褄が合わない話を聞かされているような感じです。


「まあ、六年経てば僕の正しさが分かるよ。それまでみんな長生きしてね」


 周囲の反応の薄さにもかかわらず、与太郎の自信に満ちた顔は変わりません。これで少しは見直してもらえるはずとでも思っているようです。そんな与太郎に布姫が穏やかに話し掛けました。


「与太郎様、為になるお話有難うございます。富士の山は三百年前にも大噴火を起こし、しばらく鳴りを潜めておりますので、もしかしたらお言葉通りになるかもしれませんね」

「しれないじゃなくてなるんだよ。布様も気を付けてね」

「はい、お気遣い感謝致します。ところで先ほど話に出ました五合目の新しき山ですが、既に富士にはございます。三百年前の噴火の折に出来たものと聞いております」


 与太郎は聞き間違えたのかと思いました。五合目の小山ができる前に小山があった、などとは歴史の本には書いてなかったからです。


「う、嘘、そんなはずは……」

「嘘ではない。わらわが嫁入り前に江戸へ行ったのは知っておろう。その時、街道を行く駕籠の中から富士を間近で見たのじゃ。横っ腹に小山が出っ張っておったわい。与太郎、お主は一体何の話をしておるのじゃ」


 恵姫に念押しされてますます狼狽する与太郎。雁四郎も才姫もお福も頷いています。皆、先日船の上から、五合目辺りに出来た小山を見ていたからです。


「与太、あんた最近調子が悪いみたいだねえ。重陽の宴の時にも予言話を外していたじゃないか。何か勘違いをしているんじゃないのかい」


 才姫が言っているのは島羽城で披露した、松の廊下の刃傷沙汰の話です。乗里に訊かれて元禄十四年の三月に起きると言ったものの、その元禄十四年の三月はとっくに過ぎていたのでした。


『変だ。あの後、自分の時代に戻ってからもう一度調べても、やっぱり元禄十四年で間違いなかったんだ。富士の噴火だって元禄の次の元号の時に起きるはず。なのに、どうして……』


 困惑する与太郎。黙り込んで何も話さなくなったのを見て、恵姫が呆れ顔で言います。


「気にするな、与太郎。お主の間抜けぶりは分かっておる。書も満足に読めぬ、書かれている内容も満足に覚えられぬ。それゆえ未だに仕官も叶わず、女中として奉公もできず、こんな昼下がりに己の座敷で寝ておる毎日なのであろう。小咄として聞くのであれば十分楽しめる。暇潰しには打ってつけじゃ」


 褒めているように見せ掛けて、完全に馬鹿にされているのは与太郎にも分かっていました。しかし与太郎は言い返せませんでした。どうして自分の知っている出来事と恵姫たちの世の出来事が違うのか、その理由が分からなかったのです。


『これから起きるはずの出来事がもう起きている、とっくに起きているはずの出来事がまだ起きていない、そして城の楠木の枝はどちらも同じだった……』


 与太郎は布姫を見ました。穏やかな瞳の奥にある鋭い輝き、何もかも見通しているような澄んだ眼差し……与太郎は救いを求めるように口を開きました。


「あ、あの、布様、これはいったい……」

「今は申し上げられません。私もまだ確証を得ていないからです。されど、やがて分かる時が来ましょう」


 それは城の中庭で布姫に言われたのと同じ言葉でした。そしてやはりその時と同じように、これ以上深く考える事を諦めてしまう与太郎ではありました。

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