水始涸その三 五人の追手

 厳左は自分の手をさすっていました。先刻までは深酒をした時のように手も足も頭も痺れていましたが、徐々に元の感覚が戻り始めていました。


「如何かな、厳左殿」

「うむ、あの丸薬が効いたのか、大分良くなった。しかしまだ刀は振れぬ。もうしばらくかかりそうだ……おや」


 厳左が顔を上げました。寛右も縁側の障子に目を遣りました。障子の向こうには中庭、その先には屋敷の門。そして門には忍が一人居て、こちらを見張っているはず、なのですが……


「気配が消えた。裏門の気配もない。何が起こったのだ」


 寛右は立ち上がると障子を開けました。中庭に自分の姿を晒しても、こちらに向かって来る者は居ません。屋敷を囲んでいた忍は消えてしまったのです。


「むっ!」


 寛右は屋敷の門を凝視しました。忍の気配ではない、別の者、それも複数の者の気配を感じたからです。革足袋のまま中庭に降りた寛右は門を開けました。薄暗い星明りの下、見えたのは四人の人影、肩を貸し合いながらこちらに歩いてくる二組の姿でした。


「鷹之丞、亀之助!」


 四人に駆け寄る寛右。驚いて立ち止まる与太郎とお福。その肩から鷹之丞と亀之助が崩れ落ち、地に横たわりました。二人の装束はボロボロに切り刻まれ、露わになった亀之助の左脛からは血が流れています。


「これは……随分とやられたな」

「面目次第もございませぬ、寛右様」


 弱々しい笑みを浮かべて唇を動かす鷹之丞。その左頬には切り傷が一本、みみずのように走っています。

 与太郎は地べたにへたり込んでいましたが、やって来たのが寛右だと分かると堰を切ったように喋り出しました。


「僕の……僕のせいなんです。山道には慣れてないし、暗くてよく見えないので早く走れなくて……グズグズしているうちに、あっという間に追いつかれて、囲まれて、僕目掛けて襲い掛かってくる敵と戦いながら、必死に逃げて……それでも城下町に入った所で、とうとう僕まで斬られてしまって……それでもう我慢できずに、僕は恵姫じゃない、与太郎だって叫んじゃったんです……」


 見れば与太郎の袷の右袖が斬られて血が滲んでいます。何故四人がここに居るのか、何故恵姫がここに居ないのか、寛右はすぐに悟りました。亀之助と鷹之丞の腕を取って肩に担ぐと、優しい声で与太郎に言いました。


「与太郎殿、恵姫様の囮役、よくぞ果たしてくれた。城下まで引き付けてくれたのなら上出来。礼を申す。さあ、立たれよ。厳左殿の屋敷で傷の手当てを致そう」


 寛右に連れられて厳左の屋敷に入った与太郎たち四人は、起きてきた女中や雁四郎の母によって、手厚く介抱してもらう事となりました。お福は最初から正体が分かっていたので、忍たちからの攻撃を受けることなく無傷のまま。与太郎は右腕と足に傷を負っていましたが、どちらも皮膚を浅く切っただけの軽傷でした。

 ただ五人の忍を相手に戦った鷹之丞と亀之助の怪我は重く、特に亀之助は意識を失ったまま眠り続けていました。


「二人とも命に別状はない。しかし亀之助は足の骨を折られておる。しばらくはお役目もできぬな」


 寛右は暗澹たる思いに囚われていました。数の上で劣勢だったとはいえ、伊賀の里一の腕を持つ二人がこれだけの傷を負わされたのです。忍五人は厳左一人に勝る力があると考えなければならないでしょう。雁四郎一人で守れようはずがありません。


「鷹之丞、城を囲んだ六人のうち、追って来たのは五人。一人は城に残ったと申したな。恵姫様たちは無事に城を出られたのだろうか」

「出られなければ合図をするように申しました。その合図が無かった以上、何らかの方法で脱出できたものと思われます。拙者たちは五人の忍のうち、二人に手傷を負わせました。残りの三人が姫様たちを追っているものと思われます」

「いや、この屋敷を囲んでいた二名の忍が消えている。恐らく追手に加わったのだろう。追手の数は依然として五人のまま、あるいは二手に分かれたとも考えられる」


 鷹之丞からの話を聞いて、寛右は考えを巡らせました。早合点して西に向かった忍たちが海辺に出てから間違いに気付き、そこから東の港に向かったとしても、足の速さを考えれば、恵姫たちが港に着く前に追いつかれてしまうかもしれません。二手に分かれて城下から直接港に向かえば、間違いなく追いつかれるでしょう。このまま放っておくわけにはいきません。


「寛右殿、あの丸薬をくれぬか」


 寝巻から普段着に着替えた厳左が、腰に刀を差しながら言いました。


「それはできませぬ。あの丸薬は飲み過ぎるとかえって毒になるのです。痺れは早く消えても、その後、痛みに襲われましょう」

「鷹之丞、亀之助の二人が体を張って姫様を逃がそうとしたのだ。わしだけがこんな所に座している訳にはいかぬ。這ってでも港に向かう」

「いや、しかし……」

「渡せと申しておる!」


 激昂する厳左の顔を見た寛右はみなぎる気迫に圧倒されました。その形相はまさに鬼面。鬼の厳左に相応しい威圧感を放っています。手傷を負った若者二人の姿が、厳左の心を激しく揺さぶったのでしょう。


「だったら僕も行きます。僕が与太郎だと分かっていれば、忍は僕に手が出せません。盾の代わりになれるかもしれないでしょ」

「……!」


 与太郎とお福も行く気満々です。忍はお福にも手が出せないので連れて行ったとしても危険はないでしょう。


「分かりました。では、四人で港に向かいましょう。時に、鷹之丞。布姫様の言い付けは間違いなく守ったであろうな」

「ご心配召されるな。乾神社の忍鳩が到着すると同時に、北へ向けて放しました」


 それだけを言うと鷹之丞は目を閉じました。すぐさま聞こえて来る寝息。寛右は微笑を浮かべると力強く立ち上がりました。


「恵姫様、今、参りますぞ!」


* * *


 夜空の下を渡っていく風が頭を垂れた稲の穂を揺らしています。恵姫たちは城下の東に広がる田の畦道を走っていくところでした。


「はあはあ、田の水がすっかりなくなっているじゃないか。最近雨続きだったのに、どうしたって言うんだい」

「ふうふう、才は米作りを知らぬのう。これはわざと水を枯らしているのじゃ。間もなく稲刈りであろう。田に水があっては稲が刈れぬ。枯れねば刈れぬのじゃ。はあはあ」


 才姫も恵姫も息遣いが荒くなっています。西の木戸口を出てから走り詰めなので、さすがに息が上がって来たのです。


「姫様。無駄口はやめて先を急いでくださいませ。私たちは今、命の危険に晒されている事をお忘れにならないように」


 磯島は冷静です。普段と全く変わりありません。表情だけでなく息遣いも変わりないのです。平然と走り続ける磯島に恵姫はまたも無駄口を叩きます。


「磯島よ、そなたこれだけ走って少しも苦しそうではないな。見直したぞ。はあはあ」

「大婆婆様の言い付けを守って、毎日一万歩を実践しておりますれば、これくらいの駆け足、朝飯前でございます」


 どうして大婆婆様があんなに長生きなのか、何となく理解できた恵姫でした。


 田を過ぎると道は林に入ります。これまでは周囲から姿が丸見えでしたが、ここでは木々が隠してくれます。その安心感からか才姫は走るのをやめて歩き出しました。


「雁、少し歩かせておくれよ。この林を抜ければ海が見える。港まではもう目と鼻の先だよ。ここなら隠れる所も沢山あるし、いいだろう」


 一刻も早く港にたどり着きたい雁四郎でしたが、疲れた様子の恵姫と才姫を見れば、同意しないわけにもいきません。


「分かりました。では林の中は歩いて行く事に致しましょう。ただし林を抜けた後は全力で海に向かう、それでよろしいですね」

「ああ、いいよ。やれやれ」


 懐から手拭を出して汗を拭く才姫。恵姫は磯島に汗を拭いてもらっています。雁四郎は鷹之丞から譲り受けた巾着袋を開くと、中から吸筒を取り出しました。


「忍はこんな物も携帯しておるのですな。恵姫様、お飲みください」

「おお、有難いのう」


 受け取った吸筒に口を付けて水を飲む恵姫。勿論全てを自分一人で飲むわけではなく、才姫にも渡します。


「あんたはいいのかい、磯島」

「私は港に着いてからいただきます。姫様たちだけでお飲みください」


 これもまた大婆婆様から受け継いだ女中頭たるものの信条のようです。


 東の空が僅かに白んできました。夜明けが近いようです。これまではぼんやりとしか見えなかった互いの顔も、表情まで分かるようになってきました。


「急ぎましょう。夜が明けきる前に港に着かなくては」


 水を飲んで元気が出た恵姫と才姫、早足で林の中を進みます。以前、瀬津姫が潜んでいた場所を通り過ぎ、そろそろ林も終わりに差し掛かった頃、


「むっ!」


 急に雁四郎が立ち止まりました。その場に伏せて右耳を地面に押し当てています。


「追手です。恐らく二人」

「何だって。もう追いかけて来たのかい。えらく早いじゃないか」

「囮を追って行った忍は五人。こちらに向かってくるのは二人。きっと東と西の二手に分かれたのでしょう」


 これもまた雁四郎たちにとっては最悪の展開でした。念の為に一人の忍を城に残し、囮に騙されたと分かれば念の為に東と西の二手に分ける……これだけ慎重に事を進められるのですから、相手は相当な場数を踏んでいるれ者に違いないでしょう。


「どうする、隠れてやり過ごすかい」

「向こうは公儀の忍。こちらが向こうに気付いたのですから、向こうもとっくにこちらに気付いていると考えねばなりません。隠れてもすぐに見付かるはず。先を急ぎましょう」


 四人は駆け出しました。少し歩いていたので最初こそ速く走れましたが、それも長くは持ちません。


「雁四郎、現われおったぞ!」


 恵姫の声に後ろを振り向けば、薄明の中、黒くうごめく影が二つ、猛烈な勢いでこちらに近付いてきます。


『このままでは林を抜ける前に追いつかれる。どうする、どうすればいい』


 自問自答しながら四人の先頭を走る雁四郎。その背中には次第に鮮明になって来る追手の殺気が針のように突き刺さり始めていたのでした。

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