水始涸その二 作戦発動

 小柄女中以外の八人は奥御殿北の渡り廊下出口に集結していました。渡り廊下の先には厨房などがある別棟が建っています。そしてここが奥御殿の中で北の城門に一番近い場所なのです。


「小柄はうまくやってくれるかのう」


 ぼそりとつぶやく恵姫。小柄女中は一人で東の通用口へ向かいました。そこから奥御殿を出て城壁東の木戸口へ向かう手はずです。


「いつ何が起ころうと冷静に対処できるよう、日頃から私が躾けております。心配は無用かと思われます」


 磯島は冷静です。普段と全く変わらぬ態度は安心感さえ与えてくれます。


「雁四郎殿、ひとつ申し渡しておきたいのですが、よろしいですか」

「なんなりと」


 鷹之丞は雁四郎の持つ巾着袋の口を開きました。


「この中には上げ火玉の他に様々な忍具が入っております。しかしながら戦うためではなく、逃げるためにお使いください。公儀の忍たちにとって最良の結果は恵姫様の生け捕り。それが叶わぬとなれば命を奪い、更に邪魔立てする者あらば、それらの命をも奪うでしょう。もし忍たちが命を奪うつもりで挑んで来れば、雁四郎殿だけでは到底守り切れませぬ。相手は忍術だけでなく様々な武芸と暗殺術を身に着けた手練てだれたちです。敵を本気にさせないためにも戦いは避け、ひたすら逃げる事に徹していただきたいのです。これは磯島様、才姫様にもお願い致したき事です」

「分かった。肝に銘じておこう」


 力強く答える雁四郎。磯島と才姫も無言で頷きました。鷹之丞は雁四郎に顔を近付けると、今度は巾着袋の他の忍具について小声で説明を始めました。火種となる胴火の他に蛍騒動の時に使った光玉なども入っているようです。

 ひとりしきり説明が終わった鷹之丞、今度は恵姫に向かいました。


「恵姫様にも申し上げておきます。神海水はできれば使わずに切り抜けていただきたいのです」

「何故じゃ、これを上手く使えば、厳左とて葬り去れるのじゃぞ」

「なればこそです。神海水を持っていれば忍たちも警戒して、容易に手は出せますまい。最強の切り札であると同時に最強の防具でもあるのです。それはつまり神海水を使ってしまえば恵姫様は裸も同然、一気に窮地に立たされましょう。この事、お忘れにならぬように」

「うむ。五臓六腑に銘じておくぞ。肝だけでは忘れるかもしれぬからな」


 思わず吹き出す鷹之丞。一番危険に晒されている恵姫ですが、こんな時でも冗談が言えるほど落ち着いているのなら、必ず上手く切り抜けてくれるはずと確信する一同です。


「最後にお福様。我ら三人は上背がありますので、お福様と並ぶと不自然に見えます。お福様は我らと距離を取って走っていただきたいのです。離れていれば背の違いにも気付き難いはず。よろしくお頼み申す」


 頷くお福。恵姫同様、かなりの余裕を感じさせる表情です。


「だ、大丈夫かな。僕、走るの早くないから、みんなの足手まといにならないかな」


 与太郎はまた情けない顔になっています。歯向かわなければ安全だと分かっていても、生来の気の弱さが不安を掻きたててしまうのでしょう。


「しっかり致せ、お与太。これまでの女中修行を思い出すのじゃ。そなたはお与太、いや、今は恵姫じゃ。さあ、言葉遣いも仕草もおなごに成り切るのじゃ」


 恵姫にこう言われて、与太郎の中の女が久しぶりに覚醒したようです。


「ああ、そうでしたわ。私は女中のお与太、いえ、今は間渡矢の領主の娘、めぐ様。っくき忍どもの目を欺いてご覧に入れましょう。ほっほっほ」


 明らかに恵姫とは別の女に成り切っていますが、これなら大丈夫のようです。


「静かに! 始まったぞ」


 亀之助の声に一同耳を澄ましました。東で物音がします。続いて、足音、木戸の開く音、小柄女中が東の木戸口を開けたのです。


「きゃー!」


 悲鳴が聞こえてきました。場に緊張が走ります。身構える与太郎、お福、亀之助、そして鷹之丞が低くつぶやきます。


「才姫様、外の様子を見てくだされ」

「ちょっとお待ち」


 才姫の髪の先端が銀色に輝き、その瞳にも銀が宿ります。


「北の城門は一人。中庭には居ない。西と南は動かず。東には三人が集まっているね」

「それは有難い。一人ならば容易に突破できる。亀、お与太様、お福様、いざ参る!」


 渡り廊下の出口から飛び出す鷹之丞、続いて与太郎、お福。殿しんがりの亀之助は振り返って一礼すると「御武運を」と言い残して三人に続きました。


「ピー!」


 闇の中から聞こえてきたのは飛入助の甲高い鳴き声。同時にいくつもの足音が北の城門に向かって走っていきます。忍たちも鷹之丞に気付いたのでしょう。


「ちょいと、いやに鳥の数が多いじゃないか」


 城門には篝火が燃えたままになっていました。その赤い炎の上を百羽は居ようかと思われる雀の集団が飛んで行くのです。


「あれは飛入助の手下じゃな。先日、黒から聞いた話によると、稲刈り前の米を狙って飛んで来る雀たちを仲間にしているそうじゃ。最近は飛入助を先頭にして雀の大群が田の上を飛んでおるらしい。無論、米は食わぬ。虫を食うように教えているそうじゃ」


 いつの間にか飛入助は間渡矢雀の親分になっていたようです。才姫は鼻で笑うと愉快そうに言いました。


「百匹の雀に守られているんなら、お福も安泰だね」

「そんな事より、我らも早く西の木戸口より脱出致しましょう。時間を無駄にしたくはありませぬ」


 雁四郎の言葉に従い奥御殿の玄関に移動する四人。まだ煙は漂っていますが、以前よりも薄くなっています。


「さて、では急いで港へ向かうとするかのう」

「待ちな!」


 玄関を開けようとした恵姫を才姫が止めました。その瞳には銀が宿っています。


「どうしたのじゃ、才」

「あたしの予感が当たっちまったよ。昔から悪い予感はいつも当たるんだ。中庭に一人だけ忍が残っている」


 六人の忍全員が囮を追わなければどうするか、その危惧が見事に現実のものとなってしまいました。才姫は、まるで自分の所為であるかのように唇を噛んでいます。


「ひとりだけなら何とかならないかねえ、雁」

「相手は忍。不意を突いたとしても一撃で倒せる相手ではござらぬ。そして打ち漏らせばすぐさま仲間に異変を知らせましょう」

「ならば、わらわの神海水をお見舞いしてやろうぞ」

「それは最後まで使うなって言われただろ。こんな初っ端で使っちまう馬鹿がどこに居るんだい」

「では、どうするのじゃ。鷹之丞たちを呼び戻すか」


 うまく行き掛けたかに見えた脱出作戦。しかし、早くも難しい局面がやって来てしまいました。できれば中断せずに、このまま西木戸口から外に出たいのです。中庭の忍に見付からずに出る方法はないか、しばし考え込む恵姫たちです。と、


「お待たせしました。私にお任せください」


 忍が残っていると分かってから姿を消していた磯島が戻って来ました、手には大きな箱を持っています。


「これは私の取って置きの秘策。こんなところで披露したくはなかったのですが、恵姫様の危機とあってはそうも申してはおられません。才姫様、ほんの少しだけ玄関の戸を開けてくださいまし」

「あ、ああ。これでいいかい」


 才姫は戸に手を掛けると、指一本入るほどの隙間を開けました。磯島の小さく低く、しかし断固として口答えを許さぬ厳かな声が発せられます。


「行け! 我が下僕たち。気力尽きるまでたかり続けよ!」


 磯島の手に持った箱が開かれました。そこから沢山の小さな黒い物が飛び出ると、カサカサと音を立てながら、玄関の戸の隙間から外へと出て行きます。


 しばらく後、


「ぐわああー!」


 地獄の底から響いてくるような断末魔が聞こえてきました。才姫の瞳に再び銀が宿ります。


「倒れている。しかも生気が極端に低い。気を失ったようだね」


 才姫は戸を開けると外に出ました。恵姫たち三人も外に出ます。中庭の池のほとりには一人の男が倒れていました。その男の体中を何やら無数の黒い物がうごめいています。


「い、磯島、付かぬ事を訊くが、こ、これは……」

「恵姫様に言う事を聞かせるために、密かに飼い慣らしておりました五器齧ごきかじりでございます。このようなところで役立つとは夢にも思いませんでした」


 よく見ると男の口からも五器齧が這い出しています。これだけの虫に襲われては、さしもの公儀の忍もたまったものではなかったのでしょう。


「敵ながら何とも哀れな姿であるのう」


 おぞましい光景に身震いする恵姫。一歩間違えれば自分が同じ目に遭っていたのかもしれないと思うと、余計に背筋が寒くなります。


「あ、あの、みなさん、大丈夫ですか」


 小柄女中の声です。東の木戸口に駆けつけた三人の忍たちは、城門に現われた四人の囮に驚いて、小柄女中をそのままにして追いかけて行ったのでしょう。


「ああ、ちょうどいい所に来た。あんた、この忍を縄で縛っておくれ。一人で無理なら表御殿に捕らえられている番方たちを助けて、手伝ってもらいな。多分、手傷を負っているだろうから、大して役には立たないと思うけど、縄で縛るくらいはできるはずさね」

「は、はい」


 小柄女中は元気に返事をすると表御殿へ走って行きました。


「さあ、あたしたちも行くよ。随分時間を食っちまった。急ぐよ」


 西の城壁に向かって駆け出す才姫。後を追う雁四郎、恵姫、磯島。恵姫の背後からは息も乱さず付いて来る磯島の足音が聞こえてきます。


『磯島……恐ろしい奴じゃ。前々から怪しいと思っておったが、本当に虫を操る忍術使いなのかもしれぬな』


 そんな妄想に囚われながら西の木戸口を潜り、山道を駆け下る恵姫ではありました。

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