第四十八話 みず はじめてかるる

水始涸その一 脱出画策

 お福の足元で眠る与太郎は実に幸福な顔をしていました。知らぬが仏の諺通り、悟りを開いたお釈迦さまの如き平穏な表情は、この場の雰囲気とは余りにもかけ離れていました。それが一層恵姫の反感を買ったのです。


「むにゃむにゃ、もう一皿くらいなら食べられるよ、むにゃ」

「こ、彼奴、性懲りもなくまた鯛の刺身を食う夢など見おって。それほどに食いたいのならば、これでも食え!」


 いつも通り自分の足を与太郎の口に突っ込む恵姫。たちまち夢から覚めて咽る与太郎。


「ゴホッゴホッ。う~ん、まだ食べられるのに何が……あっ、めぐ様。それにお福さんも。また来ちゃったのか。でもいつもの女中部屋じゃないし、めぐ様の座敷でもないし、ここどこ……あれ、ええっ! 鷹さんと亀さん、どうして忍者の格好をしているの。な、何が起こっているの?」


 鷹之丞と亀之助は馬屋横の修理場で、与太郎と共に扇風機を作った仲です。単なる鳥好きの若者と、手先が器用な女好きに過ぎないと思っていた二人が、黒ずくめの忍装束を身に着けているのですから、与太郎が驚くのは無理もありませんでした。


「詳しい説明は後じゃ。鷹之丞、わらわの身代わりは与太郎にさせる。これでも一応おのこじゃ。小柄女中や磯島よりも頼りになろう」

「はい。ここで与太郎殿がやって来たのは我らにとっての僥倖と言えましょう。お福様以外は全て男が囮になれます」

「決まったな。ならば直ちに行動じゃ。おーい、雁四郎。もう扇風機は回さずともよいぞ、こちらに来い。さっそく支度に取り掛かろうぞ」


 全く事情が飲み込めていない与太郎は放っておいて、座敷の八人は奥御殿脱出の準備を始めました。亀之助が才姫に、鷹之丞が雁四郎に、与太郎が恵姫に、そして小柄女中は恵姫の釣り装束を身に着けます。女に化ける亀之助と与太郎は頭巾をかぶりました。これは頭髪を隠すためです。すっかり支度が整うと鷹之丞が説明を始めました。


「北の城門には三人の忍がおります。これを囮役の我ら四人で突破するのは容易ではありません。そこで、まず恵姫様に化けた小柄女中様が一人で東の木戸口へ向かってください。浜へ下る必要はありません。どのような罠が仕掛けられているか分からないのですからね。木戸口を出た所で物音を立てて、城内に散らばる忍たちを引き付けてくれるだけでよいのです」


 小柄女中は顔を強張らせながらも、しっかりした口調で「はい」と返事をしました。次期女中頭として磯島が念入りに仕込んでいるだけあって、かなり頼りがいのある女中に育ってきているようです。


「東の木戸口に恵姫様が現われたとなれば、城門の三人の忍のうち、少なくとも一人はそちらへ行くでしょう。残る二人相手ならば拙者と亀とで何とか突破できます。後は忍たちを引き付け、戦いつつ、城下の厳左様の屋敷を目指します。その隙に恵姫様たちは西の木戸口からお逃げください」

「だけどさ、六人の忍全員があんたたちを追うとは限らないだろう。もし城に残った忍が居たらどうするんだい」


 一見、奔放に思われがちな才姫ですが、結構慎重な面もあるのです。何もかもこちらの思い通りに進むとは限りません。万が一の事も考えておくべきでしょう。


「奥御殿の中には恵姫様を始めとして六人しか残っていない、相手はそう思っているはずです。六人のうちの一人は東の木戸口に現れ、四人は城門に現われた、となれば磯島様一人を残して脱出を図ったと相手は判断するでしょう。城に残っても意味はないのですから全員が追って来るはず、と拙者は考えるのですが、もしそうならなかった時のためにこれを雁四郎殿に預けておきます」


 鷹之丞は懐から墨染の巾着袋を取り出しました。結構大きな袋です。


「中には忍具が入っております。雁四郎殿は以前磯島様の蛍騒動の時、光玉を使ったと聞いております。ある程度忍具の扱いには慣れておられましょう」


 鷹之丞は巾着袋の口を開くと、中から竹筒を取り出しました。


「これは拙者が考案した上げ火玉。火縄に火を点ければ花火の如く火玉が打ち上がります。もし西の木戸口から脱出できぬような事態となれば、その合図としてこれを使ってください。我らは直ちに城へ引き返します」

「城へ戻って来て、その後はどうするのさ」

「それはその時に考えましょう。もっともそうなれば後は力尽くで脱出する以外道はないと思われます」


 才姫は納得したようです。力尽くで脱出できる可能性はほとんどありません。囮を使ったこの作戦を何としても成功させなければならない、その決意が否応なく高まる鷹之丞の返答でした。


「それで、わらわたちは西の木戸口を出て山道を下りたら、南西の海辺を目指して走ればよいのじゃな」

「いいえ、それは愚策と言うものです。むしろ城下の北を回って東の間渡矢港を目指してください」


 自信満々で答える鷹之丞ですが、愚策と言われては恵姫も素直に従えません。更には愚策の理由も分かりません。西から出て東に向かう方が余程愚策です。


「鷹之丞、お主はもう少し頭が良いと思っておったぞ。間渡矢港よりも西の海辺の方が遥かに近いではないか。何が楽しくてわざわざ遠回りせなばならぬのじゃ」

「恵姫様と同じ事を忍たちも考えるでしょう。西口から出れば当然西の海辺に向かうはずだと。ですからその裏をかくのです。拙者たちはなるべく忍を引き付けますが、恐らくは厳左様の屋敷に着く前に正体が露見してしまうでしょう。恵姫様たちは西の木戸口から脱出したとすぐ悟られます。となれば忍たちは城へ戻らず城下から直接西へ向かうはずです。その方が早く海辺に着くからです。下手をすれば忍たちが待ち構える中へ恵姫様たちがやって来る事にもなりかねません。それを考えれば東の間渡矢港に向かった方が安全です。それに港には仲間の伊賀者も数名残っておりますれば、海に出るまでの時間稼ぎにその者たちがお役に立てましょう」


 間渡矢の西には村が少なく乾神社にも宮司が居るだけ。一方東は村が多く、港には網元を始めとする漁師が多数住んでいます。


「なるほど。確かに港へ逃げた方が良いのう」


 鷹之丞の話を聞いて恵姫も納得しました。これでこの策に異を唱える者はなくなった、と思った鷹之丞でしたが、恵姫の装束を着せられた与太郎が遠慮がちに手を挙げています。


「如何なされた、与太郎殿、いや女装している時はお与太様でしたか」

「えっと、まだ今の状況が理解できてないんだけど、めぐ様がとんでもなく危険な状況に置かれているって事は分かるんですよ」

「それが分かっておれば十分じゃ。お与太、全てはお主にかかっておる。しっかりわらわの振りをするのじゃぞ」

「一番危険なめぐ様の役を僕が務めるんでしょ。それはつまり僕が一番危険な状態に置かれているって事じゃないんですか」


 如何に頭の回転が鈍い与太郎でも、これから自分の身に何が起ころうとしているか分かっているようです。少々怯えた様子の与太郎の肩に手を置いた恵姫は、いつもの悪人面で答えます。


「そうじゃ。いつ命を落としてもおかしくないお役目じゃ。しかしな、お与太よ、今は才の家来とはいえ、かつてはわらわの家来じゃったそなたに死に場所を与えてやるのじゃ。主のために死ねるのならば家来としては本望であろう」

「え、いや、それ、本気で言っているんですか、めぐ様」

「本気じゃとも。良いか、お主がわらわではないと露見した瞬間、今度はわらわが危機に陥るのじゃ。死んでも正体を見破られるでない。正体を明かすのは死んでからにせよ」

「死んじゃったら正体を明かしても意味がないよ。ねえ、僕はこの時代の人間じゃないんだよ。替え玉なんて無理だよお!」


 情けない顔で泣き言を言う与太郎。余りの哀れさに鷹之丞も気の毒に思ったのか、背中を叩いて与太郎を励まします。


「案ずる事はありません。お与太様の身は拙者と亀が命に代えてもお守り致す。それに正体が与太郎殿と分かれば、忍どもは決して命を取ろうとはしないでしょう」

「ほう、それは何故じゃ」

「与太郎殿が江戸に召喚されているからです。今頃になって公儀が与太郎殿を呼び寄せようとするのは、与太郎殿は本当に後の世の者ではないのかと思い始めたからです。そしてもしそうならば三百年の知識を聞き出し、徳川家の終焉を防ぐ手段を講じたいのです。公儀の忍が与太郎殿を手に掛けるはずがありませぬ」


 これを聞いた与太郎は安心したのでしょう、いつも通りの腑抜けた顔に戻っています。命の危険を感じたら自分の正体を明かせばよいのですから、無敵の護符を手に入れたような心境なのでしょう。


「ゴホゴホ」


 お福が咽ています。奥座敷にも煙が回り始めたのです。鷹之丞は懐から胴火筒を取り出すと、中を見て火が消えていないか確認しました。


「ぐずぐずしてはいられませぬ。火縄の燃え具合を見るに既に寅の刻を過ぎております。夜明けまでに全てを終わらせるために、直ちに行動開始と参りましょう。昨日は仏滅でしたが本日は大安、我らの企て、必ずや成し遂げられましょう」


 鷹之丞の力強い言葉を受け、心の中に勇気と希望が湧き上がる座敷の一同ではありました。

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