蟄虫坏戸その五 孤立無援

 縁側の障子の隙間から入り込んで来る煙に、座敷の中は騒然となりました。そんな時でも鷹之丞と亀之助の二人だけは冷静です。


「鷹、外の様子を見て来い」

「承知」


 亀之助が両手を組んで差し出すと、飛び上がった鷹之丞がその手の平に足を乗せて更に高く飛び跳ね、その身は見る間に天井の上へと消えていきました。まるで曲芸師の如き身のこなしです。

 鷹之丞が無事に天井裏に入ったのを確認した亀之助は、座敷を見回して言いました。


「ここを出ましょう。庭に面したこの座敷より奥座敷の方が煙の周りが遅いはずです」

「おお、そうじゃな。父上の休まれる奥座敷はこの御殿の中で最も堅牢な造りの間じゃ。皆の者、急ぐのじゃ」


 恵姫の言葉を受けて、明かりの灯った行燈を手に廊下へ出る雁四郎。磯島たち三人も後に続きます。


「さあ、恵姫様と才姫様も早く」

「ちょっと待て、あれも持って行くとしようぞ、少し待っておれ」


 恵姫は納戸に入ると中でごそごそしています。しばらくして出て来たその胸には改良型扇風機が抱きしめられていました。


「これで煙を追っ払うのじゃ。さあ、わらわたちも行くぞ」


 恵姫たち三人も廊下に出て雁四郎の行燈の灯火を追います。殿様が寝起きする奥座敷に縁側はなく、あるのは明り取りの窓だけ。しかもその一角は漆喰塗りの壁になっているのです。


「亀、奥御殿についてやけに詳しいじゃないか。ここに入り込むのは今回が初めてじゃないんじゃないのかい」

「恵姫様が居られる手前、返答は差し控えさせていただきとうござる」


 こんな答えでは白状しているのと同じです。もっとも奥御殿を探るお役目を寛右から与えられていたのですから、たとえこれまでに何度も入り込んでいたとしても処罰には当たらないでしょう。


「才、今はくだらぬ詮索をするな。この難局をどう切り抜けるか、それだけを考えるのじゃ」


 恵姫たちが奥座敷に入ると、雁四郎が備え付けの行燈を灯しているところでした。恵姫の座敷より明るい光に少し心が落ち着く一同です。


「ここにはまだ煙は来ておりませぬな。さりとて既に廊下も煙り始めております。ここに煙が回るのも時間の問題でございましょう」

「うむ。おい、雁四郎。この扇風機で煙を追い払うのじゃ。素振りの修行じゃと思って気を抜くでないぞ」

「はい、お任せください」


 修行大好きの雁四郎は喜々として廊下に出て行きます。入れ違いに鷹之丞が入ってきました。


「鷹、どうだ、外の様子は」

「見回りの番方は一人も居らぬ。恐らく全員捕まって表御殿に押し込められているのだろう。この煙は生木を集めて中庭で焚いているのだ。どうやら我らを燻し出すつもりのようだ」


 矢文で恵姫の引き渡しを要求してから、かなりの時が経っています。こちらに全く動きがないので遂に実力行使に出たのでしょう。


「まるで煙で巣を燻されておる蜂のような気分じゃわい。このまま頑張り続ければ、そのうち厳左が来てくれるのではないか」


 毘沙姫が居なくなった今、頼りになるのは城下に居る厳左ひとりだけ。ひとりだけではありますが厳左の強さは折り紙付きです。城の内外から同時に攻め立てれば、この包囲を突破するのも不可能ではないはずです。


「いや、残念ながらそれは望み薄と思われまする」


 鷹之丞のつれない返答に、恵姫は怪訝な顔で文句を返します。


「何故じゃ。厳左は城の異変に気付いておらぬとでも言うのか」

「忍鳩到着と同時に、ご家老様の屋敷には寛右様が向かいました。知らせを受けた厳左様はとっくに城に到着している頃です。にもかかわらず未だ姿を現さぬとあれば、城に駆けつけられぬ事態が起こっていると考えざるを得ません」


 公儀の忍たちにとって最大の障壁は毘沙姫と厳左です。毘沙姫に対して偽文という手段を講じたのなら、厳左に対しても何らかの策を仕掛けているのは当然と言えましょう。


「だったら、どうするんだい。このまま冬眠中の虫みたいに戸を閉ざしてじっとしていろってのかい」

「いや、煙で燻しても外に出ないとあらば奥御殿に火を掛けるでしょう。それくらいの事は仕兼ねない連中なのです。こうなれば我らだけでここから抜け出す算段をせねばなりますまい」

「やはりわらわが東の浜へ行くしかないな。それが一番じゃ」

「ですから浜への道には罠が仕掛けられていると何度も申しております」

「行ってみねば分からぬではないか」

「行って分かった時には手遅れだと申しております」


 先ほどと同じ言い合いがまた始まりました。業を煮やした才姫が二人の間に割って入りました。


「二人ともおやめ。ちょっとあたしが探ってやるよ」


 才姫の髪の先が銀色に輝き始めました。同時にその瞳にも銀色の光が宿っています。


「南門に一人、西の木戸口に一人、北の城門に三人、中庭に一人。そして東の木戸口には……誰も居ないね。まるでここから外に出てくれと言わんばかりに、東側だけもぬけの殻だよ」


 才姫の力は命あるものを見抜く能力。目に見えぬほど小さい命は神器である眼鏡を掛けなければ見えませんが、通常見えている大きさの生物ならば眼鏡なしでも見抜く事ができるのです。


「思った通りです。東の木戸口に誰も居ないのは、その先に何重にも罠が仕掛けられているからに相違ありません。東の浜へ行くのは自殺行為に等しい愚行。納得していただけましたか、恵姫様」

「ぐぬぬ……どうやらそのようじゃのう」


 さすがの恵姫もここは引き下がらざるを得ません。東が駄目だと結論付いたところで才姫が尋ねます。


「この城の南と西はどうなっているんだい」

「南の先は本丸跡で断崖絶壁。海面から高さがあるので恵姫様の力を使おうと思えば、飛び込むしかありません。が、崖の下は岩場。力を使う前に岩に叩き付けられましょう」

「うむ。南は完全に行き止まりじゃな。それは西にしても同じじゃ。しかし西は行き止まりではなく、北に向かって曲がりくねった山道が城下に続いておる。山道を下り切れば、そこから乾神社へ向かう事ができよう」


 どうやら城から抜け出すには直接侍町へ通じる北の山道か、曲がりくねって城下へ通じる西の山道を使うしかないようです。しかしその為には忍の包囲を突破せねばなりません。


「囲んでいる忍は六名。しかも公儀隠密に選ばれるほどの手練れ。ここに居る全員で束になって掛かっても敵う相手ではありませぬ」


 鷹之丞に言われるまでもなく、それは座敷に居る全員が分かっていました。正面から立ち向かってもこちらに勝ち目はありません。何らかの策を使わねば城からの脱出は不可能です。


「鷹、囮を使うのはどうだ」


 亀之助の言葉に頷く鷹之丞。目的はあくまでも城からの脱出。敵を倒す事ではないのです。囮で敵を引き付け、その間に恵姫を逃がす、それが一番の良策に思えました。


「忍たちは我ら二名が潜り込んでいる事に気付いてはおりません。奥御殿に居るのは六名、そう考えているはずです。そこでここに居る八名を二手に分けましょう。まず引き付け役ですが、できるだけ長く引き付けるために忍との戦いに慣れた拙者と亀之助が雁四郎殿と才姫様に化け、お福様、そして恵姫様の偽物と共に、北の城門を突破して厳左様の屋敷を目指します」

「待て、何故お福が引き付け役なのじゃ」

「お福様は飛入助が使えます。これはかなり有力な武器です。そのお福様を供なわずに恵姫様が逃げるとなれば、これは余りにも不自然です。すぐさま偽物と見破られましょう」

「なるほど。して、わらわの偽物には誰がなるのじゃ」

「雁四郎殿と才姫様は恵姫様の供をしていただかなくてはなりません。となれば、小柄女中様と磯島様のどちらか、という事になりましょう」


 恵姫の顔に陰が差しました。敵が狙っているのは恵姫唯一人、今座敷に居る中で最も危険に晒されているのは恵姫なのです。その偽物となれば、当然同じ危険に晒される事になります。


「小柄女中をそのような危ない目に遭わせるわけにはいかぬ。わらわは反対じゃ」

「では磯島様を偽物に」

「磯島は奥御殿の重鎮。危険な目に遭わすわけにはいかぬ。わらわは反対じゃ」


「ぐうぐう……」


「ならばどうされよと仰られるのですか」

「亀之助がわらわに化けよ。それならば納得致す」


「むにゃむにゃ……」


「引き付け役は戦いながら逃げねばなりません。忍は才姫様の技量を知らぬゆえ、化けた拙者が小刀などを使って戦いながら逃げたとしてもさほど不審には思わぬでしょう。しかし恵姫様に化けた亀之助が神海水を使わずに武具を手にして戦い始めれば、立ち所に偽物と露見致しましょう。囮の意味がありませぬ」

「ならばわらわが恵姫役となろう」

「それでは囮になりませぬ!」

「では、どうすればよいのじゃ!」


「ぐうぐう、むにゃむにゃ……」


 先ほどから奇妙な声が聞こえています。誰かの寝息のようです。苛立っている恵姫は大声で怒鳴りたてました。


「喧しいわ! 誰じゃ、こんな状況で居眠りしておるのは。わらわとて眠いのを我慢して頑張っておるのじゃぞ」


 恵姫が寝息の聞こえて来る方に顔を向けると、お福が神妙な顔付きで立っていました。その足元には一人の男、パジャマを着て気持ち良さそうに眠る与太郎が転がっています。一瞬、沈黙する恵姫。しかしその顔には不敵な笑みが浮かび始めました。


「ふっふっふ、わらわの囮に御誂え向きの者がやって来たではないか。天はまだまだわらわの味方をしたいようじゃのう」


 悪い顔をしてほくそ笑みながら、眠っている与太郎の頭を足先で小突く恵姫ではありました。


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