蟄虫坏戸その四 二人の忍

 突然座敷に現われた二人の忍と対峙する恵姫たち六人。相手の技量を考えれば雁四郎が相手にできるのは一人が精一杯。残りの五人で忍一人を倒せなければこちらに勝機はありません。


『頼みは恵姫様の神海水のみ。さりとて一撃で忍を倒せねば、恵姫様は全くの役立たずと成り果ててしまわれる』


 雁四郎の懸念はそこにありました。恵姫の業の威力は絶大ですが、業の切れは全くの未知数。これまで厳左、瀬津姫と、二度神海水の業を目の当たりにしていたものの、それは相手が顔馴染みだったために、恵姫が上手く立ち回れたからにすぎません。


『此度の相手とは初対面、しかも手練れの忍。恵姫様が如何に神海水の扱いに長けていたとしても、一撃で倒せるとは思えぬ』


 雁四郎の心は乱れ始めていました。どう戦えばいいのか、どう守ればいいのか、それが決められないのです。その間にも二人の忍はじりじりと間合いを詰めてきます。一か八かこちらから打って出るか、そう雁四郎が考えた時、


「雁四郎殿、刀を収められよ。我らは敵ではありませぬぞ」


 この声! 言葉と同時に平頭巾の下から現れた顔を見て、殺気立っていた雁四郎の体から一気に力が抜けました。


「鷹之丞殿、それに亀之助殿まで。何故貴殿たちがここに!」


 驚いたのは雁四郎だけではありません。恵姫も磯島も、二人と向き合っていた全ての者が驚きと安堵の表情へと変わりました。


「どういう事なんだい、鷹、亀。あんたたちが忍だなんて聞いてないよ」

「まさか領主の娘たるわらわにまで隠し事をしておるとはのう。鷹之丞、亀之助、詳しく聞きたいがこの状況ではそれも叶わぬ。手短に話せ」

「ははっ。恵姫様を騙す形になりました事、深くお詫び申し上げます。全ては次席家老、寛右様の命によるものなればお許しを……」


 鷹之丞と亀之助はこれまでの経緯を話し始めました。姫の力に覚醒した恵姫に公儀が目を付け始めた事。時期領主を恵姫にする動きを察知した公儀が隠密を放った事。隠密の目を逸らす為、寛右が反対勢力を作り、同時に伊賀から自分たち二人が呼ばれた事。瀬津姫と手を組んだのは伊賀の忍衆ではなく公儀隠密の忍たちだった事。恵姫の命を奪い、伊瀬と記伊の姫衆を互いに争わせるのが公儀の真の目的だった事、などなど。


「我ら二人は忍の身分を隠し、城の番方として目を光らせておりました。拙者は主に表御殿を見張り、亀之助には奥御殿を見張らせておりましたが、まさか女中の行水まで覗いていたとは」

「いや、違う。今更言い訳しても信じてはもらえぬだろうが、あれは本当に偶然だったのだ。とはいえ、磯島様に不信を抱かせたままではお役目もままならぬ。そこで敢えて短冊に戯言を書き、お役御免とさせていただいたのだ」


 恵姫は七夕の短冊を思い出しました。己の罪状を自ら白状するとは間抜けにもほどがあると思っていたのですが、どうやら意図的に書いたようです。


「左様でございましたか。いえ、信じますよ、亀之助様。私の要らぬ讒言によりお役目に支障をきたしてしまったのですね。出過ぎた真似をしてしまいました。申し訳ございません」


 亀之助が奥御殿周辺に出没していた理由が分かり、素直に謝罪する磯島です。その余りの潔さに亀之助の方が恐縮してしまいました。そして全てを知った雁四郎もまた二人に頭を下げました。


「知らなかったとはいえ、寛右様を誤解しておりました。しかも公儀隠密と戦うために集めた蔵の忍具を全て売り払ってしまうなど、拙者もまた出過ぎた真似をしてしまったようです。誠に申し訳ない」

「騙していたのはこちらなのです。雁四郎殿が謝る必要はありません。それに手元にも少量ながら忍具は残っております。今はこれで十分でしょう」

「それにしてもさ、恵の命を奪って伊瀬と記伊を仲違いさせようなんて、聞いているだけで頭に来ちまったよ。瀬津じゃないけど、あたしまで徳川の世をひっくり返したくなっちまった」

「才、そなたの気持ちは分かるが、武家の者の居る前でそのような事を言うものではないぞ。心の中だけで叫んでおいてくれ。しかし何じゃな、これでわらわたちも安泰じゃ。毘沙と厳左がやって来るまでのんびり待つとするかのう」


 恵姫はごろりと横になりました。どうやら毘沙姫の口癖である「果報は寝て待て」がすっかり身に付いてしまったようです。余りの傍若無人さに苦笑しながら鷹之丞が言います。


「恵姫様、残念ながら毘沙姫様の力は当てにできませぬ」

「何故じゃ。鷹之丞は毘沙の怪力を知らぬのか。彼奴が本気を出せば城下で大剣を振るっただけで、山の上にある城門櫓の屋根瓦が吹っ飛ぶのじゃぞ。無理に外へなど出ようとせず、巣籠もり虫のように御殿に閉じこもって待っておればよいのじゃ」

「毘沙姫様の怪力は十分承知しております。当てにできぬのは毘沙姫様が既に間渡矢を去られたからです」

「な、なんじゃと。毘沙が居らぬじゃと。それは誠か!」


 寝転んだばかりの恵姫はすぐさま起き上がりました。驚いたのは恵姫だけではありません。雁四郎も才姫もその顔には驚きと共に深い失望の色がありありと浮かんでいます。


「間違いございませぬ。三カ所の土鳩以外に、我らは特別に飼い慣らした忍鳩を間渡矢港と乾神社に待機させていたのです。夜半過ぎ、乾神社の忍鳩によって文が届けられました。毘沙姫様は磯辺街道を伊瀬に向かったと」

「とても信じられないよ。今日、あたしと一緒に城へ来た時には、そんな素振りは少しもなかったんだよ」


 才姫が毘沙姫と別れて、まだ半日も経っていないのです。鷹之丞の言葉に疑いを抱いて当然でした。


「本日、毘沙姫様宛てに文が届いております。その文に間渡矢を早急に去らねばならぬような文言が書かれていたのでしょう」

「文だって。そんなもの公儀隠密の手による偽文にせぶみに決まってるさ。毘沙は騙されたんだ、そうなんだろう」

「恐らくは……」


 言い淀む鷹之丞。座敷には重い空気が漂い始めました。誰よりも頼りになる毘沙姫の不在、その事実は一同の元気を奪うに十分な衝撃を持っていたのです。が、恵姫だけはすぐに明るい顔になりました。


「毘沙など居らずともよい。考えてもみよ、好きな時に間渡矢を去れと毘沙には申し渡しておったのじゃ。居らぬからと言って不平を言える立場ではない」

「だったらどうやってこの難局を乗り切れって言うのさ」

「わらわが居るではないか。東の浜へ行きさえすればわらわは無敵ぞ。如何に忍に囲まれておるとは言え、こちらには二人の忍と一人の武士がおる。三人に守られておれば浜に降りるくらい容易い事であろう」

「いえ、それは危険すぎます」


 いい気になって話している恵姫に、冷や水を浴びせるが如き亀之助の横槍。たちまち恵姫の機嫌が悪くなりました。


「何が危険じゃ。こんな奥御殿に虫のように籠っておる方が余程危険ではないか」

「恵姫様が東の浜に行かれようとするのは、我らだけでなく敵の忍でも容易に気付きます。されば東の山道には既に罠が幾重にも仕掛けられているはず。ここ数日の雨続きで恵姫様は浜に降りておりませぬ。本日も才姫様を迎えるために奥御殿に留まっておられました。敵が罠を仕掛ける余裕は十分にあったのです。この状況で東の浜に向かうのは敵に捕まりに行くに等しき行為です」

「そ、そのような事、実際に行ってみなければ分からぬではないか」

「行って分かった時には手遅れとなりましょう」


 あくまでも反論する恵姫。海に居れば無敵ですが、そうでなければただの食いしん坊で怠け者の娘に過ぎないのですから、海に行きたがるのは当然の理と言えましょう。


「二人とも静かになされよ。妙な臭いが立ち込めておりますぞ」


 不意に雁四郎が声を上げました。言い合いをやめ、鼻を利かせる恵姫。焦げるようなきな臭さが座敷に漂っています。


「け、煙だ。縁側から煙が入ってきてるんだよ! ゴホゴホ」


 咽る才姫。予想もしなかった事態が発生し、蜂の巣をつついたような騒ぎになる恵姫たちではありました。

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