蟄虫坏戸その三 寛右の話

 迫りくる寛右の小刀が行燈の灯火を反射して鈍い光を放っています。厳左は未だ自由にならぬ体で寛右との間を広げようと後ずさりします。


『寛右殿が狙うのは胸か首か。突き出された小刀をかわせれば反撃の機会はある』


 手足が縛られている身では体当たりくらいしかできません。それでも座して死を待つより最後まで諦めずに抵抗し続けたい、それが厳左の武士としての意地でした。

 寛右は静かに近付いてきます。その小刀の切っ先が厳左の顔に向けられました。


『やはり首か』


 厳左は体に力を込め寛右に体当たりしようとしました。が、次の一言が厳左の行動を押し留めました。


「厳左殿、お静かに。今、お助け申す」


 小刀を顔に当て、猿轡を切る寛右。続いて手と足の縄も切られました。信じられないという顔の厳左に、寛右は丸薬を差し出しました。


「お飲みくだされ。これは毒を散らす薬。ただしすぐには効きませぬ。動けるようになるまでは、少し時がかかりましょう」


 厳左はその言葉を全て信じたわけではありませんでした。薬ではなく毒なのかもしれません。しかし、もし殺すつもりなら縛ったまま胸を突けばよいのです。こんな回りくどい事をする意味がありません。厳左は丸薬を受け取ると口に入れ、それを飲み込みました。


「駆け付けるのが遅くなった事、お詫びのしようもありませぬ。お許しを」


 頭を下げる寛右。その殊勝な姿を見てようやく厳左は口を利く気になれました。


「何故わしを助ける。この屋敷を取り囲んでいるのも、酒商人に化けてわしに一服盛ったのも、全てそなたたち伊賀の忍衆の仕業であろう」

「そう、忍衆の仕業なのは間違いありませぬ。しかし手を下したのは我ら伊賀者ではありませぬ。企んだのは公儀隠密。江戸より遣わされた、忍とは名ばかりの暗殺集団の仕業なのです」

「公儀だと! それは誠か、寛右殿」


 想像だにしなかった事実を告げられ驚きの声を上げる厳左。寛右は眉をひそめると口の前に人差し指を立てました。


「お静かに。外の者たちに気取られます。今の状況で襲われれば、もはやお救いできませぬ」

「済まぬ。しかしいきなりそのような話を聞かされても俄かには信じ難い。詳しく語ってはくれぬか」


 寛右は厳左に顔を近付けると、これまでの経緯を話し始めました。


「恵姫様が嫁ぎ先で姫の力に目覚めた時から、公儀は比寿家に目を付けていたのです。大名家に神器持ちの姫が現われたのは、徳川の世になって以来初めての事。徳川家に不満を持つ大名たちがこの姫を旗印にして、謀反を企てるのではないか、それが公儀の最大の懸案事項でした。そしてその危惧はある出来事を切っ掛けに更に大きくなったのです。恵姫様を女城主に据えたいという比寿家からの申し出。これが実現すれば姫衆が武家に与える影響は今よりも各段に大きくなるのは避けられなくなります。ここに至って公儀の態度は決まりました。恵姫様の武家としての身分を剥奪するか、もしくは比寿家を取り潰すしかない、と」


 寛右の言葉に厳左は呻き声を上げました。名案だと思っていた自分たちの策。未だ世継ぎのない比寿家存続のために考え出した女城主という策が、結果として、今、間渡矢に降り掛かっている恵姫の危機を招いていたのです。


「公儀の動きをいち早く察知した江戸家老からの知らせを受け、我らは一計を案じました。厳左殿とは別の策を考え出し、それを提示する事で、公儀の手を煩わせずとも女城主の実現は不可能であると、知らしめようとしたのです。既に領内には数名の隠密が放たれていました。我らは同志を募って反対派を組織し、それを目立たせる事で隠密の気を引こうとしたのです。これは思いの外うまくいきました。我らの策が実現すれば公儀の懸念は杞憂に終わるからです。このまま公儀が手を引いてくれるのではないか、そう思った時、島羽での一件が起きたのです」


 厳左もそして寛右も深いため息をつきました。姫の力を使わざるを得ない状況だったとはいえ、あの一件が国の内外にもたらした衝撃は予想を遥かに超えるものだったからです。


「公儀は理解しました。姫衆が本気を出せば徳川の世など簡単に覆せるのだと。そしてもはや比寿家だけに留まらず、伊瀬や記伊の姫衆も公儀に仇なす者たちとして対処せねばならないのだと。瀬津姫様と手を組んだ理由もそこにあります」

「よく分からぬな、寛右殿。敵対し合っている姫衆と公儀が何故手を結ぼうとする。瀬津姫は公儀を倒そうと目論む張本人だぞ」

「はい。それ故に公儀の忍たちは己の身分を隠し、我らの策に賛同する伊賀の忍衆を騙って瀬津姫様と手を結んだのです。提示した目的は恵姫様を城から追い出す事。しかし隠密たちの真の目的はもっと別のところにありました。覚えておいででしょう。これまで恵姫様に働き掛けるのは必ず瀬津姫様だけ、忍衆は決して姿を現しませんでした」


 厳左は三月に起きた新田候補地での一件を思い出していました。現れたのは瀬津姫一人だけ。そして半月前の中秋の名月の日に現われたのも瀬津姫一人だけでした。忍衆はこれまで一度も姿を見せなかったのです。


「何故、忍衆は表に出なかったか。それは姫衆同士を戦わせるためなのです。首尾よく瀬津姫様が恵姫様を連れ出した時点で恵姫様の命を奪い、その罪を瀬津姫様になすり付ける、公儀の忍衆たちはそれを狙ったのです。伊瀬の姫衆は争いを好みません。しかし恵姫様が記伊の姫衆にあやめられたとなれば話は別です。もはや斎主様の言葉になど耳を傾けず、記伊の姫衆と全面対決になるのは目に見えています。己の手を汚さず姫衆を互いに争わせ弱体化させる、如何にも公儀隠密の考えそうな策です」

「伊瀬と記伊の姫衆を敵対させるために瀬津姫と手を結び、恵姫様の命を狙ったと言うのか」


 厳左の問いに無言で頷く寛右。このような卑怯な策、二度と言葉にしたくない、寛右の無言の目はそう語っていました。


「徳川様がこのような振る舞いを為されるとはな。これでは泰平の世とは言えぬ。まるで戦国の世の化かし合いではないか」

「徳川様だからこそでございましょう。考えてもみてくだされ厳左殿。大坂で豊臣家を滅ぼし、島原で異教徒たちの一揆を滅ぼし、減封改易で溢れかえった浪人たちの乱を鎮め、飢饉となれば平気で多くの百姓たちを餓死させる。徳川の泰平の世とはこれらの犠牲の上に成り立っているのです」

「そして我ら比寿家もその犠牲のひとつになれと、公儀は申し渡してきたというわけか」


 厳左は腕に力を入れました。寛右にもらった丸薬が効いたのか、かろうじて半身を起こせるまでに回復しています。そのまま壁に背を預けると、厳左は寛右に言いました。


「寛右殿、知らなかったとはいえ、これまでの無礼な振る舞い、重ねてお詫び申し上げる。わしはもう大丈夫だ。それよりも毘沙姫様と共に城に向かってくれぬか。姫様たちが心配だ」


 厳左の言葉を聞いて寛右の顔が曇りました。


「毘沙姫様は既に間渡矢を発たれました。先刻、磯辺街道に張り込ませておいた手下より忍鳩文が届いたのです。旅荷を背負い伊瀬へ向かったと。その文を受け取って某はこの屋敷に出向いたのです。しかし全てが遅すぎました。相手は毘沙姫様が庄屋の屋敷を出た時点で動き始めていたのでしょう」


 今度は厳左の顔が曇りました。そしてどうして忍が今夜動いたのか、その理由も分かったのです。


「そうか。しかし毘沙姫様を責める事はできぬな」

「はい。恐らく偽文を掴まされたものと思われます。行先は郷里の桑名辺りかと」

「桑名か。謀られたと気付いて引き返したとしても到底間に合わぬな。寛右殿、そなた一人だけでも城に向かってくれぬか。体が動けるようになれば、わしもすぐに後を追う」


 寛右は首を横に振りました。


「残念ながら某は諜報を得意とする忍。厳左殿も御承知の通り、戦いの才は雀の涙ほども持ち合わせておらぬのです。城へ行ったとしても何の役にも立たぬでしょう。しかし御安心召されよ。伊賀から取り寄せたのは忍具だけではないのです。伊賀の里でも一、二を争う凄腕の忍を二名、城に潜り込ませております。何とかして乗り切ってくれれば良いのですが……」


 暗い行燈の灯火の中、その顔に一抹の不安を滲ませながら、間渡矢城の方角を見上げる寛右ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る