蟄虫坏戸その二 曲者急襲

 恵姫の耳に騒がしい音が聞こえてきました。竹と木が風に揺れてぶつかり合うような、沢山の拍子木が打ち鳴らされているような、そんな騒めきが聞こえてくるのです。


「むにゃむにゃ、何じゃ、この耳障りな音は」


 まだ眠っていたい恵姫でしたが、こうも喧しくてはもう一度寝付く事もできません。仕方なく目を開けると、暗いはずの座敷はぼんやりとした明るさに照らされています。


「行燈を点けたのか。才、油は貴重品じゃ。無闇に灯すでない」


 座敷には才姫が居ます。三日後の江戸出発の日まで恵姫たちと共に城で支度をするために、毘沙姫に荷運びを手伝ってもらって昼過ぎにやって来たのでした。

 磯島は才姫のために客間を用意していたのですが、寝起きするのは恵姫の座敷がいいと才姫に言われたため、二人でひとつの座敷を使う事になりました。才姫が一緒なので隣の控えの間に詰めている女中は居ません。普通の女中より才姫の方がよほど頼りになるからです。


「恵、さっきの音、何だと思う」


 先ほどまで鳴り響いていた音はもう止んでいます。才姫にそう訊かれても恵姫には見当も付きません。


「大方、見回りの番方が桶にでも蹴つまずいて転んだのじゃろう。今晩は誰が見回り役じゃったかのう、雁四郎か、馬之新か。まあよい、わらわは寝るぞ」


 音が止んでしまったのでもう一度横になる恵姫。しかし、今度は別の騒めきが聞こえてきました。甲高い呼子笛、走り回る足音、怒鳴り声……中庭から漂ってくる尋常ならざる気配に、恵姫も才姫も顔を強張らせました。何事かが起きているのは間違いありません。


「姫様、お着替えください!」


 襖が開いて磯島が入って来ました。同時に縁側で雨戸が閉まる音がします。


「磯島、これは何の騒ぎじゃ。何故着替えねばならぬのじゃ」

「曲者にてございます、恵姫様」


 障子の向こうから雁四郎の返事が聞こえてきました。縁側の雨戸を閉めているのは雁四郎のようです。


「曲者じゃと。わらわの住まう間渡矢城に忍び込む命知らずが、与太郎の他にもったと言うのか。どれ、どのような奴かこの目で確かめてやるわい」


 恵姫は縁側の障子に近付きました。才姫が叫びます。


「馬鹿、開けるんじゃないよ!」


 そんな声に耳を貸す恵姫ではありません。勢いよく障子を開けると、そこには雨戸を閉めている雁四郎が居ました。恵姫の姿を見た雁四郎は血相を変えて大声を上げました。


「恵姫様、座敷にお戻りください!」


 その声と同時でした。中庭の暗がりから一本の矢が飛んで来たのです。矢は恵姫の頬をかすめると座敷の畳に突き刺さりました。


「姫様!」


 雨戸を閉め終えた雁四郎は恵姫の体を横抱きにして座敷に駆け込みました。磯島が青い顔で傍に寄ります。


「何という無茶をなさるのです。お怪我はありませんか、姫様」

「うむ、運よく矢が逸れて助かったわい。それよりも見よ、ただの矢ではないぞ。文が結んである」


 恵姫の言葉通り、曲者が放ったのは矢文のようです。雁四郎は畳に刺さっている矢を引き抜くと、結び目を解いて恵姫に渡しました。行燈の傍に寄り、神妙な顔付きでそれを読む恵姫。


「あたしにも見せな、恵」


 興味津々の才姫に文を渡した恵姫、浮かぬ顔をしています。


「何と書かれておりましたか、恵姫様」

「わらわを引き渡せと書かれておった。素直に従えばよし、従わねば手段を選ばぬともな」


 いつも穏やかな雁四郎には珍しい憤怒の表情が、その顔にありありと浮かび上がりました。主君を差し出せと言われているのですから、家臣としては怒りを覚えて当然です。


「そのような要求、呑めようはずがありません。この雁四郎の命に代えても恵姫様は決してお渡し致しませぬ」

「ほう、頼もしいのう。最初に聞こえた木と木がぶつかるような音は、番方たちが仕掛けたのか」

「はい。夜間は城の周りに鳴子を張り巡らせよと、布姫様が言い残していかれたのです」


 鳴子は縄に木の板と竹筒を吊るし、何者かが縄に触れれば音を出す仕掛けです。忍衆の動きが掴めぬと言っていた布姫でしたが、城が急襲される可能性は決して低くないと読んでいたのでしょう。


「いやに静かになったね。動きが感じられないよ」


 文を読み終わった才姫にそう言われて耳を澄ます一同。先ほどまでの喧騒はもう聞こえてはきません。相手は一旦手を引いてこちらの出方を窺っているのでしょう。


「雁、相手の正体は分かっているのかい、数は?」

「最初に接触した馬之新の話では忍装束を身に着けていたとの事です。伊賀の忍衆が動いたとみて間違いないでしょう。正確な数は分かりません。が、五、六人は居ると思われます」

「忍か。文には恵以外の者に危害を加えるつもりはないとも書かれているね。磯島、今のうちに奥の女中を全員城の外に逃がしな。戦いの邪魔だ」


 才姫の言葉を受けて磯島は座敷を出て行きました。一方の雁四郎も戦う気満々の才姫を見て増々意気が上がります。


「おお、では才姫様も相手の要求は呑めぬとお考えなのですね」

「当たり前だよ。売られた喧嘩を買わないでどうするんだい。恵、すぐに着替えるよ。雁、おまえはしばらく廊下に出ていな」


 寝巻を脱いで動きやすい装束を身に着ける二人。慌てて座敷を出る雁四郎。九月の衣更えが過ぎ、夏の単衣は秋の袷に変わりました。それだけでなく才姫は額に鉢巻を締め、紐で袷をたすき掛けにし、どこから取り出したのか手には鞭まで持っています。相当気合いが入っているようです。そんな才姫を冷めた目で眺めながら、襖の向こうに居る雁四郎に話し掛ける恵姫。


「のう、雁四郎よ。城で飼っておる土鳩は放ったのじゃろう」

「はい。鳴子が音を立てると同時に、『曲者侵入』の文を付けて城下に放ちました」

「ならば心配は要らぬぞ。土鳩の文を受けて鷹之丞が厳左と毘沙に知らせるはずじゃ。すぐに城にやって来るじゃろう。才よ。恐らくそなたの出番はないぞ」

「一人くらいこちらに分けてくれないかねえ。久しぶりに鞭を振るってみたいんだよ」


 ビシッビシッと鞭をしごく才姫に、どこでこんな業を覚えたのかと不審な顔をする恵姫です。


「恵姫様、才姫様、奥御殿の女中は全員城外へ退出致しました」


 勇ましい声と共に磯島が座敷に入って来ました。一緒に廊下に待機していた雁四郎も入って来ます。


「ああ、ご苦労。磯島、あんたも城から逃げな……って何だよ、その格好は」


 入って来た磯島を見て驚く才姫。無理もありません。才姫と同じように額に鉢巻、たすき掛け、おまけに薙刀まで持っていたからです。


「恵姫様の御側に仕える者として主君を置いて逃げるわけには参りません。今こそ大婆婆様直伝の薙刀術を披露する時。私もここに残り恵姫様をお守りします」

「それは分かったけど、後ろの二人は何なのさ。全員逃げなって言っただろう」


 磯島に続いてお福と小柄女中も入って来ました。二人とも同じく鉢巻とたすき掛け。小柄女中は薙刀を持っています。


「お福は飛入助が使えます。恵姫様のお役に立ちたいと思っているようで、逃げよと言っても出て行かぬのです」

「そっちの小さいのは?」

「わ、私は磯島様から薙刀を習っております。磯島様が残られるのであれば、私も残って恵姫様をお守り致します」


 正月に羽根突きで恵姫を負かして以来、小柄女中は磯島も驚くほど気の強い性格になっていました。次期女中頭としての自覚が芽生え始めたようです。


「うむ。皆の忠義の心、わらわは嬉しく思うぞ。厳左と毘沙が城に駆け付けるまでの辛抱じゃ。この六人で力を合わせ……」

「雁、上だ!」


 突然、才姫が叫びました。言われるまでもなく雁四郎も気付いていました。素早く刀の柄を握ると、電光の如き早業で天井から降りて来た曲者に斬り付けました。


「馬鹿な……」


 刀を振り抜いた時には、黒づくめの男はもう畳の上に立っていました。明らかに忍、そしてどこも斬られてはいません。恐るべき身のこなしです。


『我が居合抜きを空中でかわすとは……只者ではない』


 雁四郎は刀を構えると男に向かいました。男も雁四郎を睨み付けます。


「天井板を外して入り込んだんだね。みんな、油断するんじゃないよ!」


 才姫の声を受けて恵姫たち四人も男に向き合います。が、


「まただ!」


 才姫の叫び。恵姫たちの背後にもう一人、別の忍が天井から降り立ったのです。今度は雁四郎が叫びます。


「恵姫様をお守りしろ!」


 恵姫を取り巻くように五人は輪になりました。二人対六人。数の上では有利ですが戦力になりえるのは雁四郎の刀と恵姫の神海水だけ。しかも神海水は一度使えばそれで終わりです。雁四郎の額に薄らと汗が滲み始めました。


『お爺爺様と毘沙姫様が駆け付けるまで何としても耐え抜かねば。たとえこの身を犠牲にしてでも』


 二人の忍と対峙しながら、決死の覚悟を決める雁四郎ではありました。

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