第四十七話 むしかくれて とをふさぐ
蟄虫坏戸その一 狙われた厳左
厳左は気付きました。夜具を被って眠りに就いていた自分の左手が、知らぬ間に刀の鞘を掴んでいる事に。それは武者修行で各地を放浪していた時に身に付いた厳左の習性のひとつでした。常に命の危険に身を晒しながら野宿を繰り返すうちに、本能が危険を察知すれば、たとえ意識がなくとも体が勝手に反応するのです。
「人の気配は感じられぬが……」
既に夜は更け、行燈の灯も消え、座敷は闇の中に沈んでいました。夜明けまではまだ遠いはず、そう思いながら起き上がろうとした厳左はようやく自身の異変に気付きました。体に力が入らないのです。刀を掴んでいる左手を開こうとしても、思うように動きません。体を起こそうとしても、まるでまだ熟睡しているかのように、腹にも腕にも力が入らないのです。
「頭もはっきりとせぬ。まだ酒が残っているのか」
厳左は思い出しました。今日の夕食には酒が付いていました。訊けば、先日の伊瀬の酒商人が今日もやって来て「志麻での商いは本日が最後。残りを持って帰るのは大儀ゆえ、皆様にお配りしております」と、ほとんどただ同然の値で置いて行ったのでした。
「水でも飲めば目が覚めよう」
厳左は起き上がろうとしましたが、やはり駄目です。体が言う事を聞かないのです。酒を飲んでこれほどまでに酔ったのは初めてでした。
立ち上がるのを諦めた厳左は這って寝床を出ました。そのまま行燈に近付き、横に置いてある火入れの蓋を開けます。灰の中にまだ残っている赤い炭火を確認すると、
「酒だけでこうなるとは考えられぬ。まさか一服盛られたか」
行燈の仄かな明かりに照らされた座敷を見回す厳左。いつもと同じ畳、天井、襖、障子……いや、縁側の障子に何かの影が映りました。
「むっ!」
それもまた厳左の本能でした。意志とは関係なく右手が刀の柄を掴み、抜こうとしたのです。しかし、曲者の動きの方が格段に勝っていました。障子が開いたと見るや、影のような黒いものが厳左に襲い掛かって来ました。
「ぐっ……」
腹に感じる鈍い衝撃、蹴飛ばされた刀、ねじ伏せられた顔に猿轡、後ろ手に縛られる両手、両足。何の抵抗もできないまま厳左は完全に体の自由を奪われてしまいました。
『この隙のない手慣れた動き、ただの物取りではない』
畳に転がされて初めて厳左は曲者の姿を視界に捉える事ができました。淡い行燈の灯りに浮かび上がった姿は全身黒ずくめ、頭に平頭巾。明らかに忍です。しかしそれ以上に厳左を驚かせたのは男の顔でした。眉間に黒子があったのです。それは紛れもなく数日前に酒を売りに来た伊瀬の酒商人の顔でした。
『あの男、伊賀の忍であったか』
厳左が身動きできない事を確認した男は、音もなく縁側から出て行きました。命までは取らないから静かにしていろ、そう言っているかのようでした。
『不覚……酒に溺れるとはなんたる失態か』
眉間の黒子で全てが飲み込めました。忍は厳左を欺くために伊瀬の酒商人に成りすましいていたのです。最初は普通の酒を飲ませて油断させ、二度目の今日、酒に痺れ薬を入れて厳左の屋敷に置いて行ったのです。
そのまま朝まで眠っていれば何の手出しもしなかったはずです。しかし厳左の人並み外れた危険予知力は薬の力に打ち克ってしまいました。厳左が目を覚まし、行燈に灯を入れたため、已む無く座敷に押し入り、体を縛り上げるという手段に出たのでしょう。
『瀬津姫が忍衆と手を切って約二十日、布姫様が間渡矢を去って十日以上経っておる。しかも殿を迎える御座船が江戸へ発つのは三日後……何故今日まで動かなかった、何故今日動いた。今日でなくてはならぬ理由でもあるのか』
考えを巡らす厳左。縛られる前よりも意識ははっきりしてきましたが、頭の中は霞がかかったようにぼんやりとしています。忍衆の真意を探ろとしても考えがまとまりません。
『理由はどうあれ真の狙いはわしではないはず。もし今の男が寛右と結託した忍ならば、狙いは城、恵姫様だ。今夜の番は雁四郎か。もし城が襲われれば直ちに土鳩が放たれよう。受け取った鷹之丞がわしの屋敷に知らせ、同時に庄屋の屋敷に居る毘沙姫様にも知らせが行く。わしに一服盛ったのならば、当然、毘沙姫様にも何らかの策を弄しているはずだ』
庄屋はあの商人からは酒を買いません。毘沙姫が毒を盛られる心配はまずないと言っていいでしょう。となれば酒とは別の方法で毘沙姫の自由を奪ったはずです。
寛右の野望を叶えるための最大の障壁は毘沙姫です。厳左を始めとする他の家臣を全て押さえ込んでも、毘沙姫一人が自由ならば到底太刀打ちできません。今、忍衆が動き出した以上、毘沙姫もまた厳左と同じ目に遭っているに違いない、厳左はそう考えたのです。
『分からぬ。とにかく体から薬が抜けるまでは何もできぬ』
厳左は目を閉じ心を落ち着けました。次第に明瞭になり始めている頭に、自分を取り巻く人の気配が僅かに感じられます。寝所に雁四郎の母、厨房横の小部屋に女中と下働き。そして表門と裏門に忍らしき気配。
『屋敷を見張っているのは恐らく二人。何も知らずに鷹之丞が知らせに来れば立ち所に捕らえられよう』
鷹之丞がどれほど武勇に長けているか、厳左は知りませんでした。しかし仮に雁四郎と同程度の腕前であったとしても、二人の忍の囲いを破って座敷に入り込むのは不可能に思われました。
『日頃土鳩と戯れていると言っても鷹之丞とて武士。この屋敷のただならぬ気配には気付くはず。無理に押し入ろうとなどとはするまい』
もはや城からの土鳩文に意味はありませんでした。厳左の身に事が起こっている以上、城で何も起きていないはずがないのですから。それにたとえこの屋敷から脱出できたとしても、薬が効いている間は刀を振る事すらできません。今、この状況で自分に何ができるか、厳左は未だ明瞭にはならない頭で必死に考え続けました。
『……なにっ!』
それは全く予期せぬ出来事でした。知らぬ間に男が一人、座敷に立っていたのです。見れば天井板が一枚外れています。そこから入り込んだのでしょう
『馬鹿な、何故気付かなかった。屋敷を囲む忍の気配すら感じるというのに……』
厳左は男を見上げました。弱々しい行燈の灯では、その顔ははっきりとは見えません。しかし身に着けているのは先程の男と同じ黒装束です。明らかに忍、そしてその男からは殺気も生気も感じられません。まるで人形を見上げているような気にすらなります。
『ここまで完全に気配を消せるとは……もしやこの男が忍衆の
そう思った時、その男が身を屈めました。行燈の光が頭巾を被らぬ男の顔を照らします。厳左は我が目を疑いました。そこに居る男は寛右だったからです。
『寛右殿、何故そなたが……』
寛右は身を屈めたまま静かに厳左に近付いて行きます。厳左は寛右から遠ざかろうとしました。忍装束を身に着けた寛右の右手には小刀が握られていたのです。それを見て厳左は全てを理解しました。
『狙いは恵姫様でも毘沙姫様でもない、この厳左であったのだ。姫衆と手が切れた以上、恵姫様の城外連れ出しは困難となった。が、恵姫様が城に留まろうとも、わしの命を奪えば城内は寛右殿の思惑通りになる。恵姫様を時期領主にするという案は葬られ、寛右殿の推す養子を領主に据える案で比寿家はまとまる。そして武家が下した決定に毘沙姫様が口を挟む事は許されぬ。恵姫様の処遇は寛右殿に一任され、誰も逆らう事はできまい。恵姫様にも毘沙姫様にも手を出す必要はないのだ。この厳左一人の命を取れば全て思い通りになるのだ。何故そこに気付かなかった。姫衆と手が切れた時から、最も危うい立場に立たされたのは、このわし自身であったと言うのに……』
薄暗い行燈の灯火が、能面のように無表情で生気のない寛右の顔を照らし出しています。倒せぬまでもせめて刺し違えて果てたい、小刀を煌めかせて間近に迫る寛右を睨み付けながら、武士の意地を燃やし続ける厳左ではありました。
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