雷乃収声その五 届けられた文

 既に九月に入っていました。秋もめっきり深まり、昼下がりの日差しにも真夏のような強烈さはもうありません。帷子を袷にする武家の衣替えは昨日済ませ、恵姫たちが間渡矢を発つ日は、もう三日後に迫っていました。


「江戸に行くのは初めてなのだろう、楽しみではないのか、才」


 毘沙姫は才姫と共に間渡矢城へ向かう山道を登っていました。才姫は今日から城へ入り、恵姫やお福と共に江戸へ発つ支度をする事になっているのです。

 江戸と間渡矢の往復にひと月近く掛かるので、才姫の荷物もそれなりに多くなります。毘沙姫はその荷物を運ぶ手伝いをしているのでした。


「江戸なんて騒がしいだけさね。埃っぽい、喧嘩っ早い、火事が多い、人の住む所じゃないよ」

「手厳しいな。それでも将軍様のお膝元だ。間渡矢ではお目に掛かれぬ様々な物、人、景色が多くある。せっかく行くのだ。楽しんで来い」

「そうだね。旨い酒でも飲んで来るよ」


 毘沙姫は何度も江戸を訪れているので、良い所も悪い所も知っています。恵姫たちには是非とも良い所だけを楽しみ、悪い所はなるべく素通りして欲しいものだと密かに願っていました。


「おや、酒屋が下りて来るね」


 二人の前方から大きな風呂敷包みを背負った男が一人、山道を下って来ます。眉間に大きな黒子があるその男は二人に気付くと、愛想の良い顔で会釈をして城下の方へと歩いて行きました。


「あの商人、五日ほど前にも御典医の屋敷に酒を売りに来たんだよ。あんまり安かったんで買って飲んでみたら、大変な銘酒で驚いたよ」

「私も知っている。庄屋の屋敷にも厳左の屋敷にも来た。布のおかげで儲かったのでご恩返しのつもりだそうだ。手堅い伊瀬商人にしては珍しく気前がいいな」


 毘沙姫は数日前に厳左の屋敷で飲んだ酒の味を思い出しました。あの酒の旨さは今でも舌が忘れていません。


「ここで会ったって事は城に売りに来たのかね。こりゃ今晩が楽しみだね」


 才姫はもう酒を飲ませてもらえる気になっています。厳左の話によれば寛右は一度酒を買っているのですから、今日売りに来たとしても買ったかどうかは分かりません。むしろ吝嗇家の寛右の事ですから、今日は買わずに追い返した可能性の方が高いのです。


「飲めるといいな、才」


 今ここで才姫を落胆させる必要はありません。毘沙姫はそれだけを言うと、ゆるゆると山道を登って行きました。


 才姫の荷を城まで運び、恵姫と三人で世間話をし、一人で庄屋の屋敷に戻ってきた頃には既に日は暮れかかっていました。庭の隅にある井戸で手と顔を洗っていると誰かが背中を叩きます。


「毘沙ちゃん、お帰り。荷物運び御苦労さま」


 黒姫です。最近は間近に迫った稲刈りの準備で、田吾作と共に毎日田へ行っているのです。


「ああ、済まないな」


 黒姫が差し出す手拭を受け取った毘沙姫は、手拭の他に折り畳んだ紙も渡された事に気付きました。


「これは……文か」

「そうだよ~、お昼頃、届いたんだって」


 黒姫はそう言ったままじっと毘沙姫を見ています。早く開いて読めとその顔に書いてあります。顔を拭った毘沙姫は黒姫に手拭を返し、紙を開いて読み始めました。


「桑名からの書状か。一体何が……こ、これは……」


 毘沙姫の顔色が見る見るうちに変わって行きます。驚きと悲しみが入り混じったような表情。黒姫は文の内容を教えてもらおうと思っていたのですが、とてもそんな事を言い出せる雰囲気ではありません。


「あ、じゃあ、あたしは戻るね。もうお夕食できてるから、毘沙ちゃんも早く来てね」


 屋敷に帰って行く黒姫。毘沙姫は震える手で文を握り締めました。そして絞り出すようにつぶやきました。


「お師様が倒れられた、だと……」



 毘沙姫は伊瀬国桑名領主松平家に仕える重臣の家に生まれました。実家は初代領主本多家に連なる名家でしたが、まだ幼い頃にお家騒動に巻き込まれ、父は切腹、家は断絶。母は妹と共に里へ帰り、一人残された毘沙姫は遠縁の武家に養子として迎えられたのです。

 嫁としてではなく養子として迎えられたのは、毘沙姫の並みはずれた剣の技量を見込んでの事でした。迎えられた先で毘沙姫は、武芸十八般は勿論の事、武士としての心構え、教養、立ち居振る舞いなど、姫の力に覚醒して斎主宮に入るまで、様々な教えを授けられたのです。

 武人としての毘沙姫があるのは幼い頃より我が子のように可愛がってくれた、この遠縁の師匠があればこそでした。生涯を懸けても返しきれない程の情愛を注いでくれた大恩人が危篤状態に陥っている、文にはそう書かれていたのです。


「済まぬ、今夜は早々に休ませてもらう」


 夕食をいつもの半分も食べられぬまま、毘沙姫は庄屋からあてがわれている客間に戻りました。布団を敷き横になってもなかなか寝付けません。様々な考えが頭の中を巡り毘沙姫の心を騒がせるのです。眠りに入れず心も休まらぬまま、秋の長い夜が更けていきます。


「はっ!」


 毘沙姫は目を覚ましました。知らぬ間に眠りに落ちていたのです。随分長い間眠っていた気がしますが、客間は闇の中に沈んでいます。


「夜半は過ぎている様だが、夜明けはまだ遠いようだな」


 毘沙姫は身を起こすと部屋を見回しました。微かに差し込む星明りの中、部屋の隅にある大風呂敷が目に留まりました。いつでも旅立てるように旅荷がまとめられているのです。


「お師様の死に目に会えぬのは覚悟の上。斎主宮を出る時、そう心に決めたはず。だが……」


 旅の姫として生きる以上、親しい人の死に目に会えぬのは避けられぬ宿命でした。姫衆の一人になって以来、言葉に尽くせぬほど世話になった恵姫の母の死にさえ立ち会えなかったのですから。

 しかし今は違っていました。こうして文が届き、急げば間に合うかもしれぬ場所に居るのです。


「間渡矢から伊瀬まで磯辺街道を五里、伊瀬から日永追分ひながのおいわけまで伊瀬街道を十八里、そこから桑名までは東海道を四里。月は沈んだが歩き慣れた道なれば常夜燈だけで十分、松坂を過ぎる頃には夜も明けよう。全力で走れば昼前には桑名に着ける」


 そう考えるともう居ても立ってもいられなくなりました。恵姫が間渡矢を発つのは三日後。それまで留まろうと一旦は決心しました。しかし布姫が去って今日で十日以上が過ぎていました。その間、何の動きもなかったのです。残り三日で何かが起こるとは、毘沙姫には思えませんでした。


「行こう。もう私が居なくても大丈夫だ」


 毘沙姫は心を決めると走りやすい小袴を履き脚絆を巻きました。旅荷をまとめた大風呂敷を大剣の上に背負い、客間を出て静かに裏口へ向かいます。折しもそこには田吾作が居ました。


「び、毘沙姫様、そのお姿は……」


 驚く田吾作、しかし一目見ただけで毘沙姫の意図を悟ったのか、黙って草鞋を差し出しました。


「訳あって今夜発つ。黒と庄屋には明朝伝えてくれ」

「毘沙姫様、お気を付けて。長きに渡って力を貸していただき、ありがとうございました」


 田吾作の送別の辞を受けて北の潜り戸から屋敷の外へ出る毘沙姫。夜空を見上げれば青峰山の上に雲が掛かっているだけで、頭上には秋の星が瞬いています。


「黒、稲刈りを手伝ってやりたかったが、今となってはそれも叶わぬ。許してくれ」


 毘沙姫は夜の道を西へ走り出しました。この五カ月何度も通った道。南の城山を見上げれば間渡矢城の灯りが微かに見えます。


「恵、才、お福、無事江戸までたどり着くのだぞ」


 道は侍町へと入ります。厳左の屋敷の灯りは既に消え、ひっそりと静まり返っています。


「厳左、済まぬ。後はおまえに任せた。恵の事、よろしく頼むぞ」


 冷たい九月の秋風を裂いて、毘沙姫はひた走りました。薄暗い星明りの下、乾神社の鳥居が二本の大樹のように佇んでいます。


「布の言い付けは守れなかった。だが布が去った後、私は十日以上も留まったのだ。宮司殿、許せよ」


 毘沙姫は足を速めました。少しでも歩を緩めれば、今もまだ残っている間渡矢への未練が自分の足を止めそうになるからです。全ての想いを吹っ切るように毘沙姫は走り続けました。やがてその姿は磯辺街道の森の中へと消えていきました。


「毘沙姫、ようやく間渡矢を去ったか」


 一人の男が藪の中から姿を現しました。全身黒ずくめの装束と平頭巾、一目で忍の者と分かります。


「戻るとするか。そろそろ効いてくる頃だ」


 藪から出て間渡矢の城下に向けて走り出す男。不意に青峰山にかかる雲に雷光が起こり、男の姿を一瞬、闇の中に浮かびあがらせました。平頭巾の下に見える男の顔、その眉間にある大きな黒子、続いて低く轟く雷鳴。


「風雲だけでなく雷も急を告げるか。急がねば」


 やがて男の姿が道の彼方に消えると、乾神社の近くから土鳩が一羽飛び立ちました。全身を黒く塗られた土鳩、それは忍が使う忍鳩でありました。




※明日は休載日のためお休みです。

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