水始涸その四 磯島の油断

 先頭を走っていた雁四郎はいきなり横に飛びのきました。同時に大声で叫びます。


「立ち止まらず走り続けてくだされ。決して後ろを振り返ってはなりませぬ」


 そうして雁四郎は脇差を右腰に差し直すと、追手に向かって走り始めました。戦わず逃げろ、鷹之丞はそう言っていました。しかしこのままでは逃げ切る事など不可能です。ならば戦うしかない、それが雁四郎の出した結論でした。


「あの馬鹿。二人を相手にどう戦うつもりだい」


 振り返って雁四郎の背中を見遣る才姫、しかし止まることなく走り続けます。雁四郎とて武士、勝算も無しに戦いを挑むはずがないからです。


「雁四郎は大丈夫かのう」

「恵、無駄口叩かず走りな」


 遠ざかる三人の気配を背中に感じながら、雁四郎は懐から火薬玉と胴火を取り出しました。二人の忍は速度を緩めることなくこちらに近付いてきます。その位置と速さを瞳に焼き付けた雁四郎は目を閉じ、火薬玉に火を点け地に叩き付けました。


「ぐおっ!」


 忍たちの呻き声。瞼の裏に映る閃光。雁四郎が使ったのはめくらましの光玉だったのです。即座に本差と脇差を抜いた雁四郎は、目を閉じたまま二刀を振るいました。


『くっ、仕損じたか!』


 右の本差には確かに手ごたえがありました。しかし左の脇差は空を切りました。目を開ければ一人の忍が足を押さえて倒れています。


「もう一人は」


 振り向いた雁四郎は心臓が止まりそうになりました。逃げる三人の背後にもう一人の忍が迫っていたからです。火薬の臭いと雁四郎の仕草で光玉を見抜いたのでしょう。


「このままでは!」


 戻ろうとする雁四郎。しかし急に刀が引っ張られました。足を切られた忍が倒れたままで鎖鎌を巻き付けたのです。何の未練もなく刀を捨て、雁四郎は三人の元へ駆け出します。


「お逃げくだされ!」


 叫ぶ雁四郎。逃げる三人。突然磯島が足を止めました。いつも通りの冷静な物腰で振り向いたその右手は、既に懐に差し入れられています。


「磯島、何をする気じゃ」


 気付いた恵姫も立ち止まり、帯に右手を入れます。その仕草が見えているかのように磯島は叫びました。


「それはお使いになってはならぬと言われたはず。私にお任せください」


 懐から抜いた磯島の手には黒い箱が握られていました。素早くその蓋を取り目前に迫る忍に突き出します。


「行け! 下僕たち!」


 開け放たれた箱から飛び出す黒い虫たち。数は十にも満たぬものの、目と鼻と口さえ塞げば十分です。磯島の口元に不敵な笑みが浮かびました。一度成功せた業、二度目も必ずうまくいく、そう確信したのです。


「はっ!」


 しかし磯島は気付きました。覆面をずらして露わになった忍の顔。眉間の大きな黒子、口元に浮かんだ笑み。そしてその口には筒のようなものが咥えられています。


『まさか此奴も虫使いの業を……』


 そう思った時、口の筒から霧状の液体が吹き出されました。強い酒の臭いと柑橘系の香り、それはどちらも五器齧が忌み嫌う物でした。霧を浴びた五器齧たちは敢え無く地に落ちて行きます。


「不覚!」

 磯島は懐の短剣を取り出そうとしました。が、構え終わる前に忍の苦無が磯島を襲いました。

「くっ!」

 身を捩る磯島。狙われた左胸はかろうじて外せたものの、苦無は左肩に突き刺さりました。


「磯島!」


 崩れ落ちる磯島を見て、恵姫は帯の印籠を取り出しました。もはやこれを使う以外助かる道はありません。恵姫の髪が青く発光しながら持ち上がった時、


「馬鹿、使うなって言ってるだろ」


 才姫が恵姫の前に飛び出しました。その髪は銀色に輝いています。両者の間に割って入った才姫は、苦無を持ってこちらに向かって来る忍に両手を向けると、大声で叫びました。


「奪!」


 忍の動きが止まりました。苦無を持った右手は力なく下に垂れ、両足はガクガクと震えています。才姫が生き物の命を奪う業を発動させたのです。


「雁、今だ!」


 雁四郎は忍の背後に迫っていました。立ち尽くしたままの忍の背中に脇差で斬り掛かる雁四郎。しかし相手は百戦錬磨の手練れ、自由の利かぬ体で跳ね上がると藪の中へと逃げ込みました。同時に大きな水音。道に沿って流れている小川へ飛び込んだのでしょう。


「ちっ、逃がしたか」

「いえ、跳ねた時に足を斬りました。手ごたえからして腱を切断したはず、もはや追っては来れぬでしょう」


 才姫は地に両手をついてうずくまっています。荒い息遣いと険しい表情。かなり疲れているようです。手を差し出して尋ねる雁四郎。


「大丈夫ですか、才姫様」

「大丈夫じゃないよ。虫なら一晩中でも命を奪い続けられるけど、人だとそうはいかないんだ。これだけ力を使ってもあの程度なんだからね」


 雁四郎の手を借りて立ち上がる才姫。来た道に目を遣れば、最初に足を斬られた忍は居なくなっています。早々と逃げ去ってしまったようです。


「磯島、大丈夫か。しっかり致せ」


 恵姫が地に倒れている磯島を揺り動かしています。疲れ切っている才姫でしたが、酷く出血している磯島を見ては放っては置けません。身を寄せて血に濡れた袷の襟を広げました。その傷口を見た才姫は顔を曇らせました。


「これはマズイね。出血が酷い。太い血管が切られているんだ」


 才姫は懐から袋を取り出すと傷の手当てを始めました。もしもの事を考えて、簡単な治療道具を持参して来たのです。


「済まぬ。拙者が余計な事をしたばかりに磯島様を傷つけてしまった」

「謝る事なんかないさ。どうせ遣り合わなきゃいけなかったんだし、四人全員で掛かったとしても誰かが怪我をしていただろうさ。それよりも雁、あんたも左腕を斬られているよ。後で手当てしてやるよ」


 そう言われて初めて雁四郎は自分が斬られていた事に気付きました。恵姫たちに向かって走り出す前に、倒れていた忍が斬ったのでしょう。改めて公儀の忍たちの強さを思い知る雁四郎です。


 二人の傷の手当てが終わると、四人は再び走り始めました。磯島は雁四郎に右肩を支えられて走ります。その額には玉の汗が吹き出し、眉間の皺も一層深くなっています。自分の感情を滅多に表さぬ磯島がこれほどの表情をするのですから、傷は相当痛むのでしょう。

 やがて林が終わり、開けた野に出ました。南には海が広がり、東の空は少し明るくなっています。


「やっと海が見えたね。もうひと頑張りだ。みんな、行くよ」


 檄を飛ばす才姫。しかし四人の足取りは次第に遅くなっていきました。磯島が走れなくなったのです。仕方なく歩き始める四人。やがてその歩みさえも止まってしまいました。草の中に寝かされた磯島は苦し気な息の下から言いました。


「私はここまででございます。皆様、私を置いて港を目指してくださいまし」

「ば、馬鹿な事を言うでない。こんな場所にそなたを置き去りにできるわけがなかろう」

「稲が実れば田の水は必要ありません。恵姫様は立派な稲になられました。稲を育てた水同様、私も枯れ果てるのが道理でございます」

「磯島、何を弱気な事を言っておるのじゃ、そなたらしくないぞ」


 一歩も進めなくなった磯島を見下ろしながら、雁四郎は迷っていました。このままでは残りの忍に追いつかれてしまいます。磯島の言う通り、恵姫一人だけでも先に行かせた方がいいのではないか、いや、ここは心を鬼にして磯島を見捨て、三人で港に向かうべきではないのか……その考えを口にしようとした時、


「磯島、もう手遅れだ。雁、おまえは気付いていないのかい」


 才姫の瞳に銀が宿っていました。雁四郎は我に返ると心を落ち着けて周囲の気配を探りました。


「これは、いつの間に……」


 三人の忍の気配。しかも挟み撃ちにされていました。背後に一人、前方の港の方角に二人。先行した二人の忍が返り討ちにされたため、間合いを取りながら密かに回り込んで来たのでしょう。

 雁四郎は巾着袋から上げ火玉の筒を取り出すと、火を点けて打ち上げました。薄明の空に高く上がった火玉は、赤い花を咲かせて散っていきます。


「それは城を抜け出せなかった時の合図だろう。何のために打ち上げたのさ」

「港には仲間の忍が居る、鷹之丞殿がそう申しておりました。ならば今の火玉で拙者たちの居場所が分かるはず」


 それは雁四郎の微かな望みでした。今の合図に気付いた鷹之丞の仲間がこちらに駆け付けてくれるかもしれない……そんな雲を掴むような不確かな願いに賭けてみたくなるほど、雁四郎は追い詰められていたのです。

 そうしている間にも忍はじりじりと間合いを詰めてきます。今はもう肉眼ではっきりと捉えられるまでになっていました。


「奴ら、恵の神海水を警戒しているんだ。使わなくてよかったよ。もし使っていたら躊躇なく襲ってきただろうね」


 しかし才姫も雁四郎も分かっていました。如何に恵姫の神海水の力が強くても、手練れの三人の忍を同時に倒せるほどの業はないはずです。一人でも打ち漏らせば、それは恵姫の死に直結します。雁四郎は決心しました。


「才姫様、今一度、人の命を奪う業は使えましょうか」

「あ、ああ。あと一回くらいならなんとかね」

「ではお聞きください。拙者が前の二人を始末します。恵姫様と才姫様は力を合わせて後ろの一人を倒してください。恐らくこの三人が最後の追手。神海水を使ったとて問題はないはず」

「雁、何を言ってるんだよ。あんた一人で二人を倒せるわけないだろ。さっきの戦いを忘れたのかい」


 才姫にそう言われた雁四郎は、寂しい笑みを浮かべながら火薬玉を取り出しました。一際大きなその火薬玉には「爆」と書かれています。


「これを使います。二人の忍を抱きかかえ、我が身もろとも爆発させるのです」


 才姫は息を飲みました。雁四郎がここまで覚悟を決めていたとは思わなかったのです。


「か、雁四郎、そのような事をすればお主自身も命を失うではないか。やめよ、命を粗末にするでない」

「恵姫様、お心遣い感謝致します。されど姫様をお守りできなかったとあらば、拙者は腹を切らねばならぬのです。みち失う命ならばお役目を全うさせていただきとうござる」

「雁四郎……」


 雁四郎の強い決意の前に言葉を失う恵姫。雁四郎は胴火を取り出すと最後の言葉を才姫に渡しました。


「才姫様、恵姫様をよろしくお願い致します。さらば、参る!」


 ただそれだけを言い残し二人の忍目掛けて駆け出す雁四郎。堪らず叫ぶ恵姫。


「雁四郎、やめよ、行くでない!」

「恵、こっちを向きな。忍が来る」


 才姫の言葉を聞いて向き直れば、背後に回り込んでいた忍がこちらに迫って来ます。帯から印籠を取り出す恵姫。両手を突き出す才姫。二人の後ろで地を揺るがすような爆音が轟いたのは、まさにその時でありました。

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