玄鳥去その五 去る者、残る者

 徳川の世では大名は一年おきに領地と江戸を往復しなければなりません。多くの大名は徒歩で行き来しますが、神器持ちの姫を身内に持つ大名は、江戸湾に直接船を乗り入れる事が認められていました。これは家光公が参勤交代の制を定めた時、斎主宮と斎宗宮の意見を取り入れて決められたものでした。

 更に大名の禄高や家格によって決められる供の人数なども、姫の居る大名に関してだけは各家の裁量に任されていました。


 これらの理由により、経費節減を第一に考えなければならない比寿家は、必要最小限の人数を船に乗せて参勤交代を行っていました。西国の大大名が数十隻の船を必要とするのに対し、比寿家は御座船一隻だけで済ませていたのです。


 さて、比寿家が公儀に届けた参勤交代の時期は九月。それに合わせて迎えの御座船が八月から九月にかけて江戸へ向かいます。今回の与太郎召喚のためにお福を江戸へ送るには、この御座船を利用すれば手間が省けます。そしてその御座船に恵姫と才姫も同乗して、江戸に向かえと布姫は言うのです。


「布よ、何故に才とわらわが江戸に行かねばならぬのじゃ。理由を聞かせてくれ」

「才姫様の理由は簡単でございます。恵姫様のお父上様を診て欲しいのです。先程、厳左様はお殿様の容体が優れないと仰られました。あるいは間渡矢への旅も困難なほどによろしくないのではないでしょうか」

「うむ、はっきりとは書かれていなかったが、江戸家老はその点を心配しておるようだ。才姫様の江戸行きについては後ほど頼もうと思っておった。引き受けていただけると有難い」


 元々病弱な恵姫の父ですが、飛魚丸が急逝してからは更に衰えが目立っていたのです。数年ぶりに才姫が間渡矢に戻って来たと聞いた江戸家老が、すぐにでも江戸に来て殿様を診て欲しいと切望するのは無理もない事でした。


「分かったよ。治せるかどうかは保証できないが、診るだけ診てみようじゃないか」


 快く了承する才姫に厳左も一安心です。


「才の理由は分かった。次はわらわじゃ。何故江戸に行かねばならぬのじゃ」


「理由は二つございます。公儀の説得には私だけでなく、与太郎様、お福様の両人と親しい恵姫様の口添えがあれば、更に効果があると思われるからです」

「なるほど。してもう一つは」

「忍衆の動きが読めぬからです。記伊の姫衆は一旦手を引いてくれましたが、忍衆に関しては未だにその動きが掴めません。このまま間渡矢に留まるより、海を渡って江戸に向かわれた方が、恵姫様にとっては遥かに安全だと思われるのです」


 忍衆を使っているのは寛右です。寛右の野望が潰えない限り、恵姫の安全も保障されないはず……そう考える厳左も毘沙姫も布姫の提案に諸手を挙げて賛成しました。


「確かにそうだ。船ならば旅の途中で襲われる心配はない。海の上で恵に挑む命知らずなど居るはずがないからな」

「うむ。そして江戸には殿がおられる。忍衆もおいそれとは手が出せまい」

「合点したぞ、布。わらわもお福と共に江戸へ参るとしよう」


 毘沙姫も厳左もそして恵姫自身も、江戸行きに異論はないようです。が、そんな三人とは裏腹に寛右だけは苦虫を噛み潰したような顔をしています。


「さりとて、領主の娘を江戸に出すのは如何なものか……」


 歯切れの悪い寛右の言葉に毘沙姫がすぐに反応します。


「寛右、恵が間渡矢に居なければ都合の悪い事でもあるのか」

「いえ、そのような事は……」


 そのまま寛右は黙ってしまいました。恵姫が間渡矢を発ってしまえば、寛右も容易に手出しできなくなります。反対したくなるのは当たり前、毘沙姫も厳左もそう思いました。

 反論する者が居なくなった事を確認した布姫は、手を合わせて一同を見回しました。


「決まりましたね。これで江戸からの書状の件は落着致しました。厳左様、他に用件はありますか」

「いや、わしからは以上だ。布姫様、有難い助言、感謝致す」

「礼には及びませぬ。さて、それでは、与太郎様……」


 布姫の言葉はそこで途切れました。既に与太郎の姿はなく、あるのは身に着けていた女中装束だけだったからです。どうやらほうき星が沈んでしまったようです。


「与太ちゃん、帰っちゃったねえ……」


 寂しそうにつぶやく黒姫。布姫もまた唇を噛み締めています。


「布、与太郎にまだ用事があったのか」

「はい。確かめたい事がひとつございました。さりとて次の出現まで待っている余裕は私にはありません。今回は諦めます」


 如何にも残念そうな表情の布姫です。が、すぐに元通りの冷静な態度に戻ると、厳左の方へ向かって小さく頭を下げました。


「厳左様、長きに渡り間渡矢に滞在させていただき誠に有難うございました。お申し出の用件が全て済んだ以上、私は早急に間渡矢を去りたいと思います」


 布姫が大事な務めを中断して間渡矢に来た事は、ここに居る全員が知っていました。布姫と別れるのは名残惜しいのですが、誰もそれを止める事はできません。


「有難うは我らが布姫様に言う言葉。改めて礼を申す」

「礼には及ばぬと以前も申しました」

「そうであったな。歳のせいか忘れっぽくなっていかん、ははは」


 厳左の笑い声で小居間に漂い始めていた別れの悲しみも少し和らいだようです。更に毘沙姫が言葉を重ねました。


「厳左、これでこの城の不安もなくなった。私も布と共に間渡矢を去り、今度は布の手助けをしたいと思う。異存はないな」

「ござらぬ。毘沙姫様も我らのために力を尽くしてくれた。礼を申す」

「私は礼を有難く受け取っておくぞ。恵、黒、才、世話になったな」

「そうじゃな、毘沙のおかげで退屈はせずに済んだ。また遊びに来てくれ」

「あ~あ、九月の稲刈り、手伝って欲しかったんだけどなあ~。でも仕方がないよね。元気でね、毘沙ちゃん」

「ちょっと二人とも。また前みたいに港を出た途端、引き返して来るなんて真似はやめておくれよ」


 前回とは違って今回は心置きなく間渡矢を去れるのです。三人の姫たちは明るい顔で毘沙姫に別れの辞を述べました。が、次の布姫の一言で場の雰囲気は一変しました。


「いえ、毘沙姫様は間渡矢に残って下さい。少なくとも恵姫様が江戸に向かわれるまでは留まっていただきとうございます」


 これを聞いた毘沙姫は気色ばんだ顔で布姫に食って掛かりました。


「何故だ、布。間渡矢の問題は全て解決した。だからおまえは間渡矢を去るのだろう。何故私だけが残らねばならぬのだ」

「姫衆の危険はなくなりました。しかし忍衆の動きは未だ読めぬと先ほど申し上げたはず。まだ危機から完全に脱したわけではないのです」

「それは理由にならぬ。私が留まったのは忍衆と姫衆が手を組むという異例の事態だったからだ。忍衆に狙われている領主など数え上げればきりがない。それを理由に留まれと言うなら、私は行く先々全ての領地で留まらねばならなくなる。しかも間渡矢には三国無双の腕を持つ厳左が居るのだぞ。私が残る理由がどこにあるのだ」


 布姫は口を閉ざしました。そのまま毘沙姫を、厳左を、そして寛右へと視線を移し、静かな声で言いました。


「分かりました。それでは毘沙姫様の思うようになさってくださって結構です。けれども私は一人で間渡矢を去ります。毘沙姫様の御同行は必要ございません」

「布……どうして……」


 絶句する毘沙姫。その時、時太鼓が聞こえてきました。昼になったのです。布姫は厳左に目配せしました。その意を汲んで厳左が立ち上がります。


「皆の者、これにてお開きと致す。ご苦労であった」


 厳左の言葉が終わると同時に布姫は小居間から消えました。続いて厳左、寛右。お福は与太郎の残していった装束を拾い上げ、磯島と共に出て行きました。


「毘沙、布にえらく嫌われたねえ。何か気に障るような事でもやらかしたんじゃないのかい」


 才姫は毘沙姫の背中をトントンと叩いて出て行きます。その後を追うように毘沙姫は黒姫と出て行きます。最後までお茶と茶菓子を食べていた恵姫もようやく表御殿の外に出ました。少し離れた所で布姫が雁四郎と鷹之丞に話をしています。


「おーい、布。せっかくじゃから昼を食っていかぬか」


 声を掛けたものの、布姫は丁寧にお辞儀をして城門の方へ歩いて行きました。きっと二人にお別れの挨拶でもしていたのでしょう。


 その後、恵姫は昼食を済ませ、いつも通り浜へ釣りに行きました。しかし小居間で見た布姫と毘沙姫の仲違いとも言える光景が頭に残ったままで、心底釣りを楽しめませんでした。

 早めに釣りを切り上げた恵姫が井戸で顔を洗っていると、表御殿から鳥の鳴き声が聞こえてきます。


「ピーピー」


 飛入助です。玄関の軒先に作られていた燕の巣の中に入り込んで鳴いているのです。きっと朝方見掛けた四匹の燕たちの古巣なのでしょう。


「飛入助、その巣の住人はしばらく帰って来ぬぞ。来年の夏までおまえが留守番しておるがよい」

「ピーピー」


 どうやら燕たちが南へ去った事は飛入助にも分かっているようです。巣の中で鳴く声は少し寂しそうに聞こえました。


「おお、姫様、ちょうど良かった」


 厳左の声です。城門の方から小走りに近付いてきます。


「どうした厳左、えらく急いでおるようじゃが」

「先ほど間渡矢港より土鳩文が届いた。布姫様が船にて間渡矢を去られた、と」


 口を開けて驚く恵姫。しかし、その口からはすぐに笑いが漏れてきました。


「ははは、布らしいわい。来る時も去る時も風のように一瞬じゃ、ははは」

「ピーピー」


 飛入助は燕が去った南の空を見詰めています。恵姫もまた布姫が去った南の空を眺めました。南へ去った燕も夏になれば戻って来ます。間渡矢を去った布姫も江戸で再会できるのです。その日を心待ちにしながら澄み切った秋空を見上げる恵姫ではありました。

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