秋分

第四十六話 かみなりすなわち こえをおさむ

雷乃収声その一 黒姫と毘沙姫

 秋分が過ぎれば日毎に昼間が短くなっていきます。昼下がりの日差しを浴びて黄金色に輝いている庄屋の田も、気を抜けばすぐに夕焼けに染まり始めることでしょう。


「ふう~、これなら日暮れまでに稲架はさかけまで終われそうだね」


 黒姫は毘沙姫と一緒に田で稲刈りをしています。間渡矢での今年最初の稲刈りは、庄屋の田にだけ植えられている早稲わせです。例年八月中に刈られる早稲は二反の田にしか植えられていないので、他の農家の手を借りずに庄屋の屋敷の者たちだけで収穫しています。今年は毘沙姫が居るので、田には黒姫と田吾作の三人だけが来ていました。


「やっぱり毘沙ちゃんは刃物を持たせると別人だね。田植えの時の手際の悪さが嘘みたいだよ~」

「田植えは初めてだったが、稲刈りは旅先でもよく手伝わせてもらっているからな。稲株を切る時の感触は実に心地よいものだ」


 コツを掴めばさほど力を入れずに稲株は切れますが、それでも全く力を使わずに切ることはできません。ザクッザクッと音を立てながら稲株を切っていく黒姫と田吾作。

 一方、毘沙姫は無音です。鎌が稲株に触れた途端、切れているのです。それはまるで包丁で切られていくまな板の上の豆腐を見ているようでした。しかも毘沙姫は両手に鎌を持って、立ち止まることなく田の中を進みながら左右の稲株を刈って行くのです。毘沙姫ひとりでほぼ五人分の仕事量と見て間違いはないでしょう。


「毘沙ちゃん、四月の麦刈りの時もその業を使ってくれればすぐに終わったのに」

「いや、使おうとしたのだ。しかし、どうも稲とは勝手が違ってな、片手だけでは上手く刈れなかったのだ。麦刈りを手伝ったのは初めてだったしな」

「へ~、そうだったんだ」

「稲は自ら進んで地に倒れてくれるが、麦は頑として倒れてくれぬ、そんな感じだ。恐らく稲の方が大地と親密で、私の姫の力の影響を受けやすいのだろうな」


 麦株と稲株にそれほど違いがあるとは思えません。大雑把に見える毘沙姫のこの業も、傍目に見ただけでは分からない繊細な技術が必要なのでしょう。

 三人は黙々と稲を刈って行きます。そうして昼前から始めた二反の稲刈りは、昼八つの鐘が聞こえる頃にはすっかり終わってしまっていました。


「毘沙姫様のおかげで思ったより早く済みそうでございます。稲架かけの前に一息入れましょう」


 田吾作に言われて畦道の木陰に腰を下ろす黒姫と毘沙姫。麦湯を注いだ湯呑と茶請けの麦菓子をもらって二人は一服します。今日の茶請けは黒姫お手製の鯛焼きです。


「与太郎の鯛焼き器で作った菓子か。何度見ても見事なまでに鯛そっくりだな。恵なら見ただけでよだれを垂らしそうだ」

「形だけでなく味もお見事ですからね。餡は味噌じゃなくて芋を使っているんだよ~。めぐちゃんなら聞いただけでよだれを垂らしちゃうでしょうねえ~」


 毘沙姫が一口齧ると、出し汁を練り込んだ里芋のほくほくした食感と甘味が、舌の上で踊り出します。黒姫のお菓子作りも相当年季が入って来たようです。


「これは美味いな。京の都にもこれほどの菓子は滅多にないぞ」

「毘沙ちゃん、口がうますぎるよ。美味うまいのはお菓子だけにしておいてね」


 黒姫はご機嫌です。稲刈りは農事の中で一番大変で重労働なのですが、同時に一番楽しく嬉しい作業でもあるからです。それは田起こしから始まった一連の米作りの集大成。収穫の喜びがあるからこそ長く辛い苦労にも耐えられるのです。


「稲を刈り、芋を食うと、秋の深まりを感じるな。夏にはよく見かけた入道雲も今は鰯雲に取って代わられた。激しい夕立や耳をつんざく雷鳴も、湿っぽい秋雨や静かに轟く遠雷へと姿を変える。燕は南へ去り、やがて北から雁もやって来よう。皆、己のあるべき所へ去り、あるべき所にやって来るのだ」


 毘沙姫にしては珍しい、物憂く情緒的な言葉でした。昼下がりの日差しはまだ眩しいのですが、木陰に居れば吹く風の涼しさが身に沁みて、毘沙姫の感情も我知らず憂いに満ちたものになっているのでしょう。


「あるべき所かあ。毘沙ちゃんのあるべき場所は、やっぱり、旅?」


 黒姫の問いには答えず、毘沙姫は吸い込まれそうなほどに青い秋の空を見上げていました。


 斎主宮を出て以来、毘沙姫は定まった住処を持たず、旅に生きて来たのです。旅の途上にある者は自分の居場所を懐かしみながら旅を続けます。そしていつか自分の居場所へ戻り旅を終えます。

 しかし毘沙姫には帰る場所はないのです。決して終わらぬ旅を行く永遠の旅人にとっては旅こそが自分の住処。こうしてひとつ所に留まっていると、自分の本来の居場所である旅路への郷愁が、否応なく深まっていく毘沙姫なのでした。


「布は今頃どうしているだろうな。遣り掛けの務めを終えて、江戸に向かっただろうか」

「秋のお彼岸は今日で終わるからねえ。布ちゃんもようやく自由になれたかもね」


 彼岸入りの翌日、まるで与太郎が消えるように、ひっそりと間渡矢を去った布姫。姫としてだけでなく僧としても世の為に尽くしている布姫の生き方を考えれば、本人が何も言わなくても、彼岸に関する務めのために間渡矢を去ったのだろうと誰もが思っていたのです。


「これまでも何度か布と旅路を共にしてきたのにな。同行を拒まれたのは初めてだ」


 布姫が間渡矢を去って今日で五日目。表御殿の小居間でここに残るように布姫から言われた時の驚きと憤りは、毘沙姫の心の中でまだくすぶったままでした。間渡矢に残るのはあくまでも恵姫の安全を考えての事、しかしその裏では、共に旅をする姫として相応しくないと自分は布姫に思われている、そんな気がしてならなかったのです。


「毘沙ちゃん……」


 陽気な黒姫も気の利いた返事ができませんでした。それほどあの時二人の間に流れていた空気は険悪だったのです。それに黒姫自身もこれ以上毘沙姫を間渡矢に留めるのは酷であると感じていました。秋空を見上げる毘沙姫の瞳の中に、鳥籠の中から空を恋い慕う野鳥の如き憂愁を黒姫は感じていたのです。


「さて、それでは稲架かけに取り掛かりましょうか。のんびりしておりますと、あっと言う間に日暮れになってしまいます」


 田吾作が腰を上げました。黒姫と毘沙姫も湯呑を置き、稲株の横たわる田へと足を踏み入れました。


 稲架かけもなかなか骨の折れる作業です。田の中に竹と縄で稲木を組み、藁で束ねた稲を干していきます。一番時間が掛かるのは稲木まで稲を運ぶ作業ですが、ここでも毘沙姫の怪力は存分に発揮されました。まるで稲の塊が歩いているように見えるほど、大量の稲を抱えて運べるので、橙色の夕陽に田が照らされる頃には、すっかり終わってしまいました。


「毘沙姫様、本日はありがとうございました。先にお屋敷へ戻ってくだせえ」


 田吾作は毘沙姫と黒姫に麦湯を差し出すと、後片付けを始めました。のんびりと麦湯を味わいながら、刈り取りの終わった田を眺める二人の姫。夕焼けの中を赤とんぼが舞い、沈みかけた夕陽を背景にして雀の群れが飛んで行きます。二十羽ほどの群れの先頭を行くのは一際大きな雀です。


「おい、あれは飛入助ではないか」

「そうだよ~。飛入ぴいちゃん、夏は燕と一緒に飛んでいたんだけど、ここ数日は、ああして雀と一緒に飛ぶ事が多くなったんだ。仲間の雀には米じゃなく虫を食べるように教えているみたいで助かっているんだよ~」

「そうか。燕が南へ去っても新しい仲間を見つけたのだな」


 雀たちと飛び回る飛入助を羨望の眼差しで眺める毘沙姫。夕陽に照らされたその横顔はひどく寂しげに感じられました。


「ねえ、毘沙ちゃん。旅に出たいんなら我慢する事はないんだよ」


 いきなり黒姫に切り出されて、毘沙姫は思わず麦湯を吹き出しそうになりました。


「ぶっ、なんだ急に。何を言い出すのかと思ったら」

「だって、布ちゃんが居なくなってから、毘沙ちゃん、元気がないでしょ。今みたいに毎日、空ばっかり見ているし。やっぱり旅に出たいのかなあってずっと思っていたんだ。あ、誤解しないでね、毘沙ちゃんに居なくなって欲しいなんて思っているんじゃないよ。できれば来月の稲刈りまで手伝って欲しいってのが本音なんだ。でも、毘沙ちゃんは元々旅の姫。布ちゃんは九月になるまでここに留まれなんて言っていたけど、あたしは毘沙ちゃんの好きにすればいいと思うよ。あたしもめぐちゃんも厳左さんも、誰も反対する人なんか居ないと思うよ」

「黒……済まんな、余計な気遣いをさせてしまったな」


 毘沙姫は麦湯を飲み干すとまた夕焼け空を見上げました。秋の日は釣瓶落とし。こうしてのんびりしているとすぐに夕闇が迫って来ます。腰を上げるのなら早い方がいいのかもしれない……沈み行く夕陽を眺めながら、そんな想いに囚われる毘沙姫ではありました。

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