第四十五話 つばめ さる

玄鳥去その一 非常食

 朝です。恵姫は夜具にくるまってうつらうつらしていました。眠っているでもなく目覚めているでもない、中途半端で夢うつつな状態はとても気持ちの良いものです。


「むにゃむにゃ、わらわは人魚姫であるぞ」


 海の中を漂いながら鯛の群れを探し回る、そんな心湧き立つ幻覚の中に身を置いて秋の早朝を楽しんでいる恵姫。

 当然の事ですが、間渡矢城でそんなお楽しみの時間が長く続くはずがありません。さっそく葭戸の向こうからお馴染みの声が聞こえてきました。


「あの、入ってもよろしいでしょうか」


 遠慮がちな声なので恵姫は無視しました。今、ようやく目の前に赤鯛の群れが現われたのです。下らない呼び掛けを聞いてやる耳など持ってはいません。


「めぐ様、入ってもよろしいでしょうか」


 また聞こえてきました。赤鯛の群れに突入を開始した恵姫は当然無視します。


「おかしいな。まだ眠っているのかな。入りますねえ~、失礼します」


 誰かが近付いて来る気配がしますが、そんな些事さじに構っている余裕はありません。逃げ惑う赤鯛を手掴みにしようと孤軍奮闘している真っ最中だからです。


「あれ、やっぱり眠ってるよ。仕方ないなあ。めぐ様、起きてください、もう朝ですよ。めぐ様、めぐ様」


 体が揺さぶられています。これだけ激しく揺さぶられては赤鯛を掴む事など出来ようはずがありません。恵姫はイライラしてきました。目の前には赤鯛の大群、しかし何者かが捕獲を邪魔しようと自分の体を揺さぶっている。これほど腹立たしい事はありません。


「めぐ様、めぐ様!」

「ええい、喧しいわ!」


 声を荒げて目を開けた恵姫。自分を覗き込んでいる忌々しい顔に平手打ちを食らわせました。


「痛っ! 何するんだよ、めぐ様」

「それはこちらの台詞じゃ。もう少しで赤鯛様を捕らえて丸齧り出来たものを、お主が邪魔ばかりするので全て逃がしてしまったではないか」

「赤鯛? 丸齧り? 何の事?」


 首を傾げているのは与太郎です。こちらに来たら直ちに恵姫に知らせよと言われているので、わざわざやって来たのでしょう。とぼけた顔で自分を見下ろしている与太郎の顔を見て、少し怒りが鎮まったのか、恵姫はむくりと起き上がりました。


「もうよい。所詮は夢の中の出来事じゃ。それにしても早々と女中装束に着替えおって。帰るまで奥御殿で過ごすつもりか、お与太」


 与太郎はお福と同じ、襦袢の上に縞木綿の帷子を着て帯を締めています。そして女装している時には与太郎ではなく、お与太と呼ばれるのです。恵姫にお与太と呼ばれた与太郎は照れ笑いしながら言いました。


「うん。今日は城の外に出るような用事もないでしょ。帰るまで城に居るのなら奥御殿でお福さんと一緒に働いた方がいいなあって思って。最近は自分一人でも着替えられるようになったんだ」


 いつも通りのほほんとした言い回しです。恵姫は怒る気も失せて立ち上がりました。


「わらわも着替えるとするか。おい、お与太、控えの間に居る女中を呼んで来い。朝の身支度じゃ」

「あ、はい」


 恵姫に命令されて与太郎は座敷を出て行きました。畳には与太郎の布袋が置いてあります。前回は手ぶらでしたが、今日は何か持って来たようです。

 それが当然とでも言わんばかりに勝手に布袋を開ける恵姫。透明な袋がひとつと、水で満たされた入れ物が一本出てきました。袋には茶色く四角い煎餅に似た物が沢山入っています。


「どうやら食い物のようじゃな」


 再びそれが当然とでも言わんばかりに袋を開け、勝手に食べ始める恵姫。ぱさぱさして塩気と甘味があります。


「麦を粉にして焼いたもののようじゃな。美味くはないが不味くもない。腹を膨らますだけの食い物か」

「ああ、勝手に僕の物を食べてる!」


 女中と一緒に座敷に入って来た与太郎が叫びました。まるで悪びれる様子もなく恵姫は言い返します。


「食って何が悪い。前回は何の手土産もなしに、月見の宴で散々食い荒らし、今日も朝と昼を食って帰るつもりなのじゃろう。こんな麦煎餅の手土産だけでは割が合わぬわ」

「それは手土産じゃないよ。いざと言う時のための非常食なんだよ。この前みたいに山の中へ置き去りにされたらたまったもんじゃないからね」


 与太郎が言っているのは才姫を説得するために青峰山へ行った時の事です。確かにあの時、与太郎を茶屋に置き去りにして間渡矢へ帰って来たのでした。


「もう、大変だったんだよ。来たのは朝だったから帰るのは夕方頃。毘沙様の背中でおにぎりを食べただけで、昼はお茶と蕎麦粉だけ。おまけに昼過ぎに山へ登る人が来て『茶をくれ』なんて言うもんだから、あたふたして用意したら、『茶請けもくれ』とか言われて、『蕎麦粉しかありません』って答えたら、『では蕎麦粉と湯と箸をくれ』って言うんで用意したら、粉に湯を注いで掻き混ぜて食べ始めたので、『これは何ですか』って訊いたら『知らぬのか、蕎麦掻きだ』って教えてもらって、それから僕も作ってみたら、これが意外と美味しかったんだけど、それでも一日中蕎麦だけなんて、とてもじゃないけど耐えられないでしょ。だから、いつどんな場所に置き去りにされても大丈夫なように、こうしてビスケットと水を用意して持って来る事にしたんだよ。前回は自室に戻った途端にこっちへ飛ばされちゃったから持って来られなかっただけで、これからはなるべく持って来ようと思ってるんだ。それなのに勝手に食べちゃって……ちょっと、めぐ様、聞いてる? 少しは反省してよね」

「ん、何か申したか。悪いな、まったく耳には入って来なかったわい」


 与太郎の必死の説明でしたが、こんな長い愚痴を恵姫が聞いてくれるはずがありません。しかも座敷にやって来た女中によって、着替えをさせられ、身支度を整えられ、夜具を片付けるのを眺めたりしていたので、与太郎の話に耳を貸す余裕はまったくなかったのでした。


「もういいよ。残ったビスケットは返してもらうよ」


 与太郎は畳の上に置いてある菓子袋を拾い上げました。中身は半分くらいになっています。


「もう、こんなに食べちゃって。これから朝ご飯なんでしょ。食べられなくなっても知らないよ。えっと、布袋はどこに……あっ、また勝手に覗き込んでいる」


 先刻は食べ物が出て来たので、その時点で布袋の物色をやめてしまいましたが、まだ何か入っているのは分かっていたのです。着替えが終わった恵姫は再び中身の検分を開始。取り出したのは葉が付いた木の枝でした。


「何じゃ、これは。何が楽しくて小枝など持って来たのじゃ」

「もう、乱暴に扱っちゃ駄目だよ。なるべく折る前の状態を変えないで持って来て欲しいって、布様に頼まれたんだから」

「布……布の頼みか」


 恵姫は思い出しました。月見の宴の時、布姫と与太郎が交わした約束、木の枝を一本持って来る事……


「そうじゃ、布じゃ、忘れておったわ」


 恵姫は手に持った木の枝を放り出すと縁側に出ました。空を見上げればほうき星はもう頭上を過ぎて西へと傾き始めています。どうやら与太郎は真夜中になる前にこちらへ来たようです。昼にならないうちに元の時代へ戻ってしまうでしょう。


「これはいかん、急がねば」


 恵姫は座敷に戻ると与太郎に言いました。


「お与太、急いで河月院へ行け。お主が来たらすぐに知らせるよう布から頼まれておるのじゃ」

「えっ、でも城から河月院って行った事がないから道が分からないし、まだ朝ご飯を食べてないからお腹減っているし……」

「ならば誰かに道を教えてもらえ。表御殿には寝ずの番の者たちが居るはずじゃ。朝飯は河月院で食わせてもらえ。ほれ、何を突っ立っておる、早く行かぬか」

「あ、は、はい」


 恵姫の命令には逆らえません。慌てて座敷を出て玄関に向かいながら、今日は城から出なくて済むと思っていたのに、早くも当てが外れてしまったと、またも愚痴をこぼしてしまう与太郎ではありました。

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