玄鳥去その二 秋彼岸

 奥御殿を出た与太郎は中庭を突っ切って表御殿へと駆けて行きます。縁側でそれを眺めていた恵姫は月見の宴の翌日、宿坊で朝食を取りながら言われた布姫からの依頼を思い出していました。


『先日も申しました通り、重要な用件を中断してここへ参ったのは、紛れもない事実なのでございます。ですので、こちらでの案件が一段落致しましたら、直ちに間渡矢を去りたいと考えております。与太郎様にはなるべく早くこちらへ参っていただけるようお頼み致しました。与太郎様がこちらに姿を現しましたら、早急に知らせていただきたいのです。恵姫様、よろしくお願い致します』


 布姫からそのように頼まれたのが五日前。これまで与太郎が現われた頻度を考えれば、かなり短期間でやって来たと言えますが、大事な用件を残したままの布姫にとっては、やきもきするような五日間だったはずです。


「神と仏の両方に仕える身とあっては忙しいのも仕方なかろうな。ちょうど昨日は彼岸の入り。彼岸会法要なども始まっておろう。早く自由にさせてやらねば気の毒じゃ」

「ピーピー!」


 甲高い鳴き声が聞こえてきました。表御殿の屋根の上で二羽の鳥が円を描いて飛んでいます。一匹は飛入助、もう一匹は燕です。


「飛入助は何をやっておるのじゃ。朝っぱらから」


 仲の良い友達同士がお喋りするように宙を飛んでいる二羽。やがてそこに別の燕が三羽やって来ると。四羽の燕は空高く舞い上がり、南に向かって飛び始めました。


「ピーピー!」


 飛入助は追いませんでした。表御殿の屋根にとまって、飛び去る四羽の燕をじっと見送っているのです。


「燕も南へ帰る時が来たか。してみれば、あの燕は飛入助が飛び方を教えてもらった燕なのかもしれぬのう、へっくしょん」


 朝のひんやりした風が吹いてきて、くしゃみをしてしまった恵姫。彼岸の入りから急に朝晩が寒くなってきたのです。


「恵姫様、朝食をお持ち致しました」


 座敷から磯島の声が聞こえてきました。恵姫は座敷に戻るとさっそく磯島に注文です。


「磯島よ。そろそろ夏座敷を片付けてくれぬか。暑さ寒さも彼岸までと申すじゃろう。御簾戸と葭戸では朝晩が寒くて敵わぬ。もう障子と襖に戻しても良き頃であろう」

「おや、左様でございますか。例年、九月一日の衣替えと同時に建具替えを致しておりますが、そのように仰せならば秋分の日にでも替える事と致しましょう」


 几帳面な磯島にしては柔軟な対応です。実は磯島自身も最近の朝晩の肌寒さには閉口していたのでした。恵姫の申し出はむしろ有難かったのです。


「よろしく頼むぞ。ではいただくか、はぐっ!」

「恵姫様、お与太様はどうされたのですか。姿が見えませぬが」

「お与太は河月院へ使いに出した。今日は布が城にやって来るからのう、よろしく頼むぞ」


 磯島の眉間の皺が深くなりました。恵姫の膳の横には与太郎の朝食の膳も置かれているからです。ただでさえ苦しい比寿家の財政、一食たりとも無駄にはしたくないのです。


「それならそうと予め仰ってくださいまし。お与太様の朝食も用意してしまったではありませんか」

「ああ、心配は要らぬ。わらわが食う。これくらいの朝飯二人前、食うのは朝飯前じゃ」


 本気なのか駄洒落なのか判別できない恵姫の言葉に、ますます深くなる磯島の眉間の皺。その時、縁側の向こうから声が聞こえてきました。


「めぐ様―、用事が済んだよー。朝ご飯にしてー」


 与太郎の声です。今度は恵姫の眉間に皺が寄りました。しかし食べている最中なので、縁側に出るのも憚られます。そのまま与太郎が座敷に戻って来るのを待ちました。


「わあー、もうお膳が来ている。磯島さん、ありがとう」

「どういたしまして。ところで河月院に行かれたのではないのですか」

「えへへ、それがね、表御殿で河月院への行き方を尋ねたら、理由を訊かれてね。布様を呼びに行くんですって答えたら、それなら土鳩文を使えばよい、今日は二日に一度の交換日なので丁度いい、河月院へは文を受け取った鷹之丞が知らせてくれるはずだって言われちゃったんだ。この時代にはもう伝書バトってあったんだね。おかげで楽できちゃった」


 鷹之丞提案の土鳩文は乾神社、間渡矢港、そして間渡矢城に配置されています。城から城下へはそれほど距離もないので、今まで一度も使った事がありませんでした。これが最初の間渡矢城からの土鳩文となったわけです。


「ちっ、要らぬところで土鳩が役立ってしまったのう。お与太を助けるために飼っておるわけではないのに」


 朝食を一膳食べ損ねた恵姫は忌々しそうに与太郎を睨みました。与太郎はどこ吹く風と言った様子で椀の汁をすすっています。用意した与太郎の膳が無駄にはならなかった磯島、しかしその眉間の皺は未だ深いままです。


「何じゃ、磯島。いつになく渋い顔をしておるではないか」

「はい、布姫様は大変急いでおられる御様子。つまり城に参られるのは昼前となりましょう。となれば本日のお稽古事はお休みになるのではないかと懸念致しております」


 これを聞いた恵姫の眉間の皺も深くなりました。実に残念そうな顔をすると、


「うむ、その点はわらわも誠に遺憾に思っておる。八月に入ってからというもの、八朔参りだの、河月院で布と対談だの、名月の宴だのと、お稽古事は休み続きであるからのう。しかしじゃ、布がわらわたちのために頑張ってくれておるのじゃ。ここは涙を飲んで堪えるしかあるまい。磯島よ、分かってくれ」


 などと返答する恵姫なのですが、内心では、


『ふっふっふ、お与太と布に気を取られて稽古の事などすっかり忘れておったわ。これで今日も怠けられるのう。しめしめ』


 こんな事を考えているのですから困ったものです。

 勿論、磯島はお見通しです。お見通しですが、それが分かっていてもどうする事もできません。恵姫の言葉通り、布姫は厳左の要請で間渡矢に来ているのです。お稽古事を潰されたからと言って文句を言える立場ではないのでした。


「ああ、それなら昼からお稽古すればいいんじゃないかな。布様の用事も昼までには終わるでしょう」


 事情を知らない与太郎が口を挟んできました。思わぬ横槍を食らって大慌てで反撃する恵姫。


「馬鹿者! 何も知らぬ癖に偉そうな事を申すでない。昼からは昼の務めがあるのじゃ。昼寝をし、釣りに出掛け、茶を飲まねばならぬ。お稽古事をやっておる時間などこれっぽっちもないのじゃ」


 そう言いながら恵姫は磯島の顔色を窺っています。与太郎の言葉に賛同して昼からお稽古事をやると言い出さないか、心配しているのです。


「お与太様、せっかくのお申し出ですが、恵姫様の仰られる通りでございます。お稽古事は朝のうちに行うもの。余程の理由がない限り他の刻限には行いません。ご了承くださいませ」

「ふ~ん、そうなんだ。余計なお節介だったね、ごめんなさい」


 素直に謝る与太郎はいつも通りですが、磯島がこうも簡単にお稽古事を諦めたのは恵姫にとって意外でした。本来なら「そうですね、では昼から始めましょう」くらいは言ってもおかしくはないのです。


『磯島も昼過ぎからの稽古は体に堪えるのかもしれぬのう。気は若いつもりでも結構な歳じゃからな』


 この恵姫の推測は完全に間違っていました。磯島は昼から恵姫に釣りに行って欲しかっただけなのです。

 布姫が来て以来、たびたびお休みになっていたのはお稽古事だけではありません。恵姫の釣りもお休みになっていたのです。恵姫の釣り上げる魚は奥の者たちにとっては貴重な収入源。出来れば毎日でも釣りに行ってもらいたいと磯島は思っていたのです。昼からのお稽古に反対したのはこのような理由からでした。

 こうして三者三様の思惑を胸に秘めながら、朝食の時は過ぎていくのでありました。


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