鶺鴒鳴その五 名月の宴
間渡矢の八月十五日はとっぷりと暮れていました。雲は切れ切れに浮かんでいますが、名月を楽しむには支障ないほどの量です。そして河月院宿坊の縁側には、恵姫を始めとする五人の姫と、お福、厳左、雁四郎が座っていました。
「遅いのう、布は。一体何を話しておるのじゃ」
「待ちに待った与太ちゃんがやっと来たんだからね~。とことん話をしているんだよ、きっと」
昼食後から与太郎と話し始めた布姫。日が暮れ、月が昇っても、まだ茶室から出てこないのです。小坊主の話では夕食も取らずに話をしているとの事でした。
「与太郎は口下手じゃからのう。布も手を焼いているのではないか」
「恵、与太郎の事など気にせず月を楽しめ。年に一度の名月なのだぞ」
毘沙姫は既に酔っています。才姫、瀬津姫、厳左を加えた四人は一足先に一杯やっているのでした。
互いに犬猿の仲だった厳左と瀬津姫も酒が入れば話は別。一旦忍衆と縁を切り記伊の斎宗宮に戻ると瀬津姫から聞かされた厳左は、とりわけ上機嫌でした。
「これで我らも心置き無く美味い酒が飲めるというもの。良き月見の宴となったものだ」
騒がしい四人を尻目に恵姫は庭先に設けられた月見の台を眺めました。三方には
「いや~、疲れた疲れた」
宿坊の広間を通り抜けて、与太郎が縁側に姿を現しました。ようやく布姫との話が終わったようです。黒姫が話し掛けました。
「あ、与太ちゃん、ご苦労さま。布ちゃんとどんな話をしていたの」
「う~ん……色々。あ、お福さん、お茶頂戴」
いつもと同じくはっきりしない与太郎です。何を話したのかもう忘れているのでしょう。与太郎は縁側に座るとお福からお茶をもらって飲みました。
「へえ~、里芋なんか供えているんだねえ。いただきま~す!」
与太郎は月見台の三方に盛られている皮付きの蒸し里芋に手を伸ばしました。すかさずその手を叩く恵姫。
「こりゃ、何を勝手に食おうとしておる。この衣被は名月を心行くまで楽しみ、その後に皆で分け合って食うのじゃ」
「えっ、そうなんだ。でも里芋とは意外だなあ。てっきり月見団子を供えると思っていたよ」
「江戸や京では団子を食うようじゃが、本来は芋なのじゃ。米作りが始まる以前の遥か昔、わらわたちは芋を育てて食っておった。本来、中秋の名月とは芋の収穫を祝う宴であったのじゃ。暦もそうじゃ。今は月の始めが新月じゃが、芋を作っておった太古の暦では満月が月の始め。よって満月を祝う風習は暦が変わった今でも残っておる。一月の小正月もその名残りじゃ」
「難しい事は忘れて月を楽しめ、与太郎。そう言えばおまえは飲めるのだったな。飲め」
また毘沙姫がからんできました。今宵はかなり飲んでいるようです。与太郎自身、酒はあまり好きではないし、自分の時代ではまだ二十歳未満なので困った顔をしていると、
「毘沙姫様、無理強いはよくありませんぞ。代わりに拙者がいただきましょう」
雁四郎が救いの手を差し伸べてくれました。ほっと一安心の与太郎です。
「皆様、お月見は楽しんでおられますか」
布姫が縁側に姿を現しました。与太郎の時とは違って、皆、姿勢を正し小さく礼をします。
「そのように
布もお世辞がうまいのう、と恵姫は思いました。面白い小咄ひとつも出来ぬ与太郎の話が、役に立つとはとても思えなかったのです。
「与太郎よ、どうせ下らぬ話ばかりして、布の失笑を買っておったのじゃろう」
「えへへ、そうかもね。でも布様って凄く頭がいいから、僕が一しか言わなくても百くらい理解してくれるんだ。歴史、科学、社会、地理、僕の知っている知識を全て吐き出しちゃったって感じ。きっと今では僕よりも布様の方が物知りだよ。難関大学も一発合格間違いなし!」
「与太郎様、そんな事よりもあの約束、忘れずに果たしてくださいましね。では、皆様、少々疲れましたので、私はこれで下がらせていただきます。思う存分月見の宴を楽しんでくださいまし」
布姫は立ち上がると会釈をして縁側を出て行きました。朝から姫の力を使って船を動かし、その後、ずっと与太郎と話をし続けていたのですから疲れるのも無理ありません。
「おい、与太郎、約束とは何じゃ」
さっそく恵姫が尋ねます。布姫と与太郎の二人だけの約束とあっては訊かずにはおれません。
「ああ、大した事じゃないんだよ。間渡矢城の中庭に大きな楠の木があるでしょ。僕らの時代には城の建物はなくて城跡公園になっているんだけど、あの楠の木だけは今も変わらず同じ場所に立っているんだ。その楠の木の枝をね、一本折って、この時代に持って来て欲しいんだって」
「楠の木の枝……何故じゃ、何故布がそんな物を欲しがる」
「そんなの僕に訊かれても分からないよ。布様に訊いて」
さすがに布姫に尋ねるのは憚られました。それにその答えを聞いたとしても、納得できるかどうかも分からないのです。一般人の理解を超えた布姫の思考力、それをあれこれ思いやるのは無意味かもしれない、恵姫はそんな風に感じました。
「ほらほら二人とも、難しい顔をせず楽しい話をしろ。今、瀬津に出会った時の思い出話をしているところだ」
また毘沙姫がからんできました。否応なしに話を聞かされる与太郎と恵姫。
「瀬津が最初に間渡矢に姿を現したのは随分前だな、厳左、覚えているか」
「無論。あの頃は恵姫様も黒姫様もまだ幼子。鯛を腹いっぱい食わせてやる、餅を腹いっぱい食わせてやる、こんな言葉に騙されて、瀬津姫と共に記伊へ行こうとしておったわい」
懐かしそうに昔を振り返る厳左。たまらず恵姫と黒姫が声を上げました。
「そ、そんな昔の話はやめぬか、厳左」
「そうだよ~、与太ちゃんの前でやめてよ~」
「是非、話の続きを聞かせてください、厳左さん」
与太郎だけは聞く気満々です。良い気分の厳左は話を続けます。
「二人の姿が城下にない、見知らぬ女と手を繋いで志麻の
「あの時、毘沙が居なければ、今こうして酒を飲んでいる
瀬津姫もかなり陽気になっています。まるで顔馴染みの友人同士のように打ち解けた雰囲気です。
「でも瀬津様はどうしてそんなにめぐ様を仲間にしたいんですか。力なら毘沙様の方が強いし、賢さなら布様に勝る人は居ないでしょう。めぐ様のどこがいいんだか、僕には分からないなあ」
「何を失礼な事を申しておる、このたわけ者めが!」
恵姫の拳骨が与太郎の頭に振り下ろされました。大笑いする一同。けれども瀬津姫だけは大真面目な顔で言いました。
「与太郎、あんた大変な思い違いをしているよ。考えてもごらん、毘沙は大剣がなければ真の怪力を振るえない、黒も小槌が必要、布は己の息で風を制しているだけで、風そのものを制しているわけじゃない。けれども恵は違うんだよ。恵は海水、つまり海そのものを制する事ができる。これがどんなに凄い事か分からないのかい」
「はあ、さっぱり分かりません」
とぼけた顔で答える与太郎に、瀬津姫は少し苛立ちながら答えます。
「鈍い男だね。いいかい、あたしたちが住んでいるこの場所は、あの月のように丸い。そして海はその丸い表面を覆っている。恵がその気になれば全ての海を自由自在に操れるんだ、これが何を意味するか分からないのかい」
瀬津姫が指し示す月を眺めながら、与太郎はようやく気が付きました。震える声で返答します。
「それは、この地球を、この世の全てを海の底に沈める事すらできる、それだけの力がめぐ様にはあるって意味ですか……」
瀬津姫はにやりと笑うと、それ以上は何も言いませんでした。
恵姫は腹が減ったのか勝手に里芋の皮を剥いて食べています。黒姫はそれを咎めています。厳左と毘沙姫と才姫は酒を飲んで賑やかに笑っています。雁四郎は庭に降りて素振りを始めています。お福は静かにお茶を飲んでいます。実に長閑で平和な月見の宴です。
「何はともあれ、めぐ様が大変な食いしん坊で、魚や御馳走にしか興味がないのは、この世にとって凄く幸運な事だったんだろうなあ」
夜空に浮かぶ中秋の名月の美しさに感動しながら、そんな独り言をぼそりとつぶやく与太郎ではありました。
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