禾乃登その二 謹厳布姫

 鷹之丞にはまだまだ話したい事が沢山ありました。しかし今は間渡矢港への用事の途中。積もる話は後日の楽しみに取っておき、今は先を急ぐ事にしました。


「されば、拙者はこれにて御免」


 港へ向かう鷹之丞を見送って庄屋の屋敷へ向かう四人。風はなかなか治まりません。黒姫は心配そうな顔をしています。


「今は風だけだけど雨も降り出したらどうしよう。花が散らされてお米ができなくなっちゃう」

「雨は降りませんよ。風も夜には鎮まります」


 知っていて当然と言わんばかりの口調で話す布姫。いきなりそんな事を言われても、黒姫にとっては単なる気休めの言葉としか捉えられません。


「布ちゃん、ありがとう。そう言われたら本当に風が止むような気がしてきたよ。気を遣ってくれて嬉しいよ」

「気など遣ってはおりません。本当に雨は降らず風も鎮まるのです。風がそう申しておりますから」

「えっ!……」


 絶句する黒姫を再び毘沙姫がたしなめます。


「黒、言っただろう。布には冗談が通じぬし、ご機嫌取りの世辞を言ったりもせぬのだ。言葉通り受け取っておけ」

「は、はい。分かりましたっ!」


 黒姫はまたも舌を出しました。三人の中で布姫と一番縁が薄いのは黒姫なのですから、度重なる失態も仕方がないのです。

 布姫が間渡矢に来るのは年一回か二回。そのうち一回は恵姫の母の命日なので、恵姫は必ず乾神社で布姫と会います。しかし黒姫はそう言ったしんみりした場が余り好きではないので、余程の事が無い限り墓参りに付き合いません。その結果、布姫と会う機会は少なくなり、少々疎遠になってしまっていたのでした。


「布ちゃん、お墓参りの時以外も間渡矢に来てくれれば、あたしも嬉しいんだけどなあ」

「間渡矢には恵姫様、黒姫様が居られます。これ以上の姫の力は無用でございましょう。私は姫の力を必要とする地を回っているだけでございます」

「布は姫ではあるが僧でもあるからのう。寺院諸法度によって寺も公儀に逆らえぬようになってしまったが、民衆救済こそが僧の本分。毘沙とはまた違う形で己の使命を果たしておるのじゃ。言ってみれば黒がせっせと米を作るのと同じじゃな。黒の使命は米作り、そうであろう」

「そうかあ。みんなそれぞれの道を歩んでいるんだね」


 こうして今、奇しくも同じ道を同じ目的地に向けて歩いている四人。けれども人生においては、四人はまったく別の道を歩いているのでした。恵姫は領主の娘としての道を、黒姫は庄屋の娘としての道を、毘沙姫は武家の娘としての道を、そして布姫は尼僧としての道を、各人がただ一心に歩き続けるしかないのでした。それを考えれば、こうして四人が揃って歩いている事自体が、奇跡的な巡り合わせの末の僥倖に思えて来るのでした。


 やがて庄屋の屋敷が見えてきました。門の前に誰かが立っています。


「おや、あれは厳左ではないか」

「おお、帰られたか。待っておったぞ」


 わざわざ門の外に出て四人を出迎える厳左、その理由は察しの悪い恵姫にもすぐに分かりました。鷹之丞から布姫来訪の知らせを受けて、城からやって来たのです。


「布姫様、突然の招聘依頼を引き受けていただき誠に感謝致す。まずは礼を申す」

「礼には及びませぬ。これが私の務めゆえ」


 深々と頭を下げる厳左。布姫が間渡矢に来たのは毘沙姫の文によってですが、その文を書かせたのは厳左、つまりは厳左が布姫を呼び寄せたと言ってもよいでしょう。となれば布姫は比寿家が招いた客人。鷹之丞からの知らせを受けた厳左が城を下り、丁重な挨拶で出迎えるのは当然と言えましょう。


「何じゃ、布が来たのは厳左が頼んだからか。こんな時期に間渡矢に来るとは珍しいと思っておったが、ようやく納得できたわい。それにしても厳左よ、初めて土鳩文が役に立ったようじゃな。途中で鷹之丞に会って詳細を聞かせてもらったわ。少々気付くのが遅かったようじゃがのう」

「うむ。それについては後々検討すると致そう。それよりも布姫様、屋敷に入られよ。長旅疲れたであろう」


 厳左の招きに応じて玄関に向かう布姫たち。毘沙姫は田吾作を呼ぶと、肩に担いだ葦簀を下ろしました。


「この強風に吹かれてどこかから飛んできたらしい。稲に被さっていたので取り除いて持って来た。何かの役に立ててくれ」


 田吾作は持ち上げようとしましたが重くてとても担げません。結局引き摺って庭の奥へと運んで行きました。

 座敷に通された布姫たち四人に茶が出された後、庄屋が挨拶にやって来ました。黒姫はこの屋敷の娘なので持て成す側に回っています。


「布姫様、間渡矢へ足をお運びいただきありがとうございます。厳左様からのご要望もあり、本日はこの屋敷にてささやかながら歓迎の宴を開き、今宵の宿として使っていただきたく存じます」


 厳左がわざわざ庄屋の屋敷に出向いて来たのは、これが大きな理由でした。残念ながら今の比寿家では、急にやって来た客人を満足に持て成せるほどの余裕はないのです。歓迎の肩代わりを頼める者と言えば、城下では庄屋の他にはありません。そして庄屋自身も厳左の願いを快く引き受けてくれたのです。


「ほほう、厳左、なかなか手回しが良いではないか。ならばわらわも今宵は楽しませてもらおうぞ」

「布のおかげで美味い物が食えるな。才も呼んでやったらどうだ」

「それは名案じゃ。三味線を奏でてもらえば宴も賑やかになろう」


 庄屋の話を聞いて盛り上がる恵姫と毘沙姫。しかし布姫は静かな声で言いました。


「庄屋様、厳左様。お心遣いは大変嬉しく存じます。しかしながらこの身を寄せるのは寺か神社と決めておりますので、宴に関しては御遠慮させていただきとうございます」


 布姫の言葉を聞いて、それまで賑やかだった座敷は、一瞬で静まり返ってしまいました。

 旅の途上にある姫は、ほとんどの場合、各地にある神社に泊まります。斎主宮とそのような取り決めが為されているからで、これは記伊の姫衆でも同じでした。

 ただし布姫の場合は寺院でも世話を見てもらえました。それは布姫が僧籍を持った尼僧であったからです。仏と神の両方に仕える姫は、伊瀬と記伊の姫衆の中で布姫一人だけでした。

 他の姫に比べて遥かに恵まれた待遇を与えられている布姫は、他の姫のように一般の民家や武家、公家の世話になる事を自ら戒め、神社と寺院のみを頼って旅を続けているのです。


 布姫の拒絶の返答を受けて、誰も口を利けませんでした。布姫のこのような事情を知っているからです。厳左も庄屋も毘沙姫も困ったように顔を見合わせるばかりです。ただ恵姫だけは違っていました。このまま布に去られては、せっかくの庄屋の御馳走が食べられなくなってしまうからです。当然の如く反論開始です。


「相変わらず己に厳しいのう、布は。これまで城に泊まっていけと何度言っても聞き入れてはくれなんだからのう」

「はい。ですから今宵も庄屋様の御厄介になるわけには参りません」

「いや、それは違うぞ、布よ。これまでの間渡矢の訪問はそなたの意志で為されていたもの。しかし此度は厳左の要請に応じて間渡矢に足を運んでくれたのであろう。いわば布はわらわたちの客人。持て成さぬとあっては武家の面目にかかわる。厳左やわらわの父の顔に泥を塗るに等しい無礼ぞ」

「いや、姫様、それは少し言い過ぎ……」


 厳左が口を挟もうとしましたが、恵姫は聞く耳持ちません。


「厳左の願いを引き受けて間渡矢への訪問を承知した以上、比寿家の持て成しを受ける事も承知してもらわねば困るのじゃ。それは決して切り離せぬ、いわば車の両輪のようなものじゃ。どちらか欠けても前には進まぬからのう。布、重ねてお願いする。わらわたちの持て成しを受けてくれ」


 恵姫は両手を畳につくと深々と頭を下げました。御馳走への未練、それも確かにありました。しかし、その時の恵姫の中には布姫のへの感謝の気持ちの方が大きかったのです。

 これまで布姫には何度も世話になっていながら、何の恩返しもできなかった、その無念の想いを今ここで晴らしたい……それは恵姫のみならず厳左も庄屋も、座敷に居る者たち全ての願望であったのです。


「恵姫様……」


 無表情だった布姫の口元が緩みました。恵姫の頭を撫で、座敷の一同を見回すと、布姫はようやく頷いてくれました。


「分かりました。今宵は皆様と共に過ごす事と致しましょう」

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