禾乃登その三 八朔
その夜、庄屋の屋敷は滅多にないほどの人々で賑わいました。才姫は勿論の事、雁四郎や鷹之丞も駆けつけたのです。明日は
「布姫様、伊瀬でお会いして以来ですね。ようこそお越しくださいました」
雁四郎もまた布姫とは幼少の頃に一度顔を合わせただけで、伊瀬で偶然出会うまでは姿形も知らなかったのです。このように落ち着いて語り合える機会が次にいつ来るか分からないのですから、何を置いても駆けつけるのは当然でした。
「山に居る時には心配を掛けさせたね。さあさあ、布、今夜は賑やかにやろうじゃないか」
ここ数年、才姫と布姫は親交を深めていました。間渡矢を去り青峰山に籠もっていた才姫を、布姫はたびたび訪問していたからです。姫の力を使った才姫の医術を、眠らせたままにしておくのは惜しいとの想いからでした。
「才姫様。青峰山を去って御典医様の元へ戻られた事、嬉しく思いますよ」
希望通り、才姫が間渡矢に帰って来た事を聞いて、布姫は心から喜んでいました。無愛想な才姫が照れ笑いをしたくらいです。
夜が更けるにつれ宴は盛り上がっていきました。陽気な恵姫や黒姫だけでも騒がしいのに、これに才姫の三味線が加わったため、花街のお座敷遊びもかくやと思われる華やかさと喧騒に包まれ始めたのです。
「そろそろ休ませていただきとうございます」
布姫がそう言い出して、ようやく皆は気付きました。これはあくまでも布姫を歓迎し、長旅の疲れを癒す宴である事を。それを忘れて自分たちが楽しんでしまっていた事を。
「これは失礼致した。すっかり我らだけで盛り上がってしまったようだ。庄屋殿、夜も更けた。ここらでお開きに致そう」
厳左の一言で布姫歓迎の宴は終了となり、厳左や雁四郎、鷹之丞は庄屋の屋敷を後にしました。が、騒ぎ足りない恵姫はこんな事を言い出しました。
「そうじゃ、才の歓迎の宴をまだ開いておらんではないか。丁度良い、今夜やってしまおう」
「めぐちゃん、それはお福ちゃんの快気祝いを兼ねて、数日前にやった気がするんだけどなあ~」
「良いではないか、黒。一度やったら二度とやってはならぬという法はあるまい。今宵はとことん語り合って親交を深めようぞ~!」
恵姫は完全に舞い上がっています。またこっそり酒の入った湯呑を舐めていたのかもしれません。
とても付き合っていられないと感じた黒姫は、恵姫たちを座敷に残したまま退出しました。その後、残った恵姫、毘沙姫、才姫の三人は夜が更けるまで騒ぎまくったという事です。ただし、それで親交が深まったかどうかは定かではありません。
翌、八月一日は八朔。五節供と共に武家の式日のひとつです。何故この日を式日に定めたかというと、家康公が初めて江戸城に入ったのが八月一日だったからです。八朔は年始と同じくらい重みのある式日。在府の大名、旗本は白帷子と長袴で登城し、将軍に祝辞を述べるのです。
この白帷子にも理由があります。小田原城が落ち、その後の評定で家康公に関八州への国替えが命じられたのが七月十三日。
八朔の儀はこれに倣ったもので、大名たちに御目見えされる将軍も白帷子着用。それだけでなく御台所(将軍の正室)を始めとする大奥の女たちも、この日は全員白地の小袖を着用しました。
城の外は参賀の大名たちが真っ白になって列を作り、城の内では千人以上の女たちが白い衣装をまとっている、実に白々しい光景であると江戸っ子たちは思った事でしょう。
ちなみに八朔の日の吉原では、花魁道中をする遊女たちは白無垢姿になります。これは武家の八朔の儀を真似たものとも、高橋太夫の白無垢姿の艶やかさを真似たものとも言われています。
もっとも江戸の町人たちにとってはどちらに由来するかなどはどうでもいい話で、それよりも馴染みの遊女にどれだけ豪華な白無垢や絹布団を贈る事ができるか、そちらの方が重要なのでした。この贈り物合戦もまた八朔の恒例行事となり、この日の賑やかさに拍車をかけていたのです。
「ほら、めぐちゃん、いい加減に起きなよ」
黒姫に体を揺すられて恵姫は目を開けました。既に夜は明け座敷の中は明るくなっています。
「もう朝か、ふあ~」
大きな欠伸をする恵姫。まだ頭がぼんやりします。昨晩遅くまで騒いでいたのですから当然です。
「今日は八朔で式日であろう。釣りも一日休みじゃ。うむ、もう少し眠るとするか」
江戸では年始の如く盛り上がる八朔も、間渡矢においてはただの目出度い日に過ぎません。殿様が城に居れば一応祝辞などを述べに登城しますが、今年は江戸に居るのでそれもありません。日頃世話になっている者たちへ挨拶をしたり贈り物をするだけの、のんびりした一日なのです。
「もう何を言っているのよ。八朔だから早く起きるんでしょ。忘れたのめぐちゃん、コツン」
また目を閉じて眠ろうとする恵姫の頭を黒姫が小突きました。渋々目を開け不機嫌な顔で黒姫を見る恵姫。
「はて、何か約束事でもしておったかのう」
「毎年この日は乾神社へ初穂を納めに行っているじゃない。今朝早く田に行って早稲の初穂を刈り取ってきたんですからね」
強風の日が多い八朔は、農家にとって二百十日と並ぶ厄日ですが、同時に穂が実り始める頃でもあります。この日は農家同士で初穂を贈り合ったり、神社に初穂を持参して五穀豊穣を祈願する八朔参宮が行われます。黒姫もこれに倣って毎年乾神社に参っているのでした。
「ああ、八朔参りか。そうであったな。ならば才や毘沙と共に賑やかに参るとするか」
ようやく目が覚めた恵姫。むくりと起き上がって座敷を見回すと、自分と黒姫しか居ません。
「おや、才はどうしたのじゃ。さっきまで三味線を弾いておったはずじゃが」
「とっくに帰っちゃったよ~。お医者に休みはないって言ってたよ」
「毘沙もおらぬではないか。さっきまで酒を飲んでおったはずじゃが」
「お酒を飲むと寝相が悪くなるから、毘沙ちゃん専用の部屋で寝てるよ~」
以前、城の座敷で酒を飲んだ毘沙姫と一緒に寝た時、足を乗せられて身動きできなくなった、あの悪夢の様な出来事を思い出す恵姫。きっと庄屋の屋敷でも似たような事をやらかしているのでしょう。
「うむ。それは良き判断じゃ。して布はどうしておる、まだ寝ておるのか」
「ここに居ります」
知らぬうちに布姫が座敷の入り口に座っていました。何の前触れもなく出現するとは、まるで磯島を彷彿とさせる早業です。
「昨晩は大層なお持て成し、ありがとうございました。ところで私は間渡矢を訪れた時、最初に挨拶するのは乾神社の宮司様と決めております。少々、遅れましたがこれから黒姫様と共に神社へ赴き、挨拶をしたいと思っております」
旅をする姫衆はひとつ所に長く居続ける事はありません。毘沙姫は去るに去れない事情があるため、異例の長期滞在になっていますが、本来は数日でその地を去るものなのです。
これまでの布姫も間渡矢に来たときは二日か長くて三日の滞在でした。そして世話になるのは常に乾神社だったのです。朝一番にそこへ向かいたいと思うのは当然の事なのでした。
「布が身を寄せるのは乾神社であったな。昨晩はわらわたちの宴に付き合わせ、宮司殿への礼を後回しにさせてしまったわけか。これは済まぬ事をした。ならばその詫びに今朝はわらわが布に付き合おう。ああ、毘沙も護衛として連れて行こう。黒、さっそく毘沙を起こしに行くのじゃ。耳元で朝飯じゃと囁けばすぐに目を覚ますぞ」
そう言いながら自分の朝飯はまだ出ぬのかと、黒姫に催促をする恵姫ではありました。
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