第四十二話 こくものすなわち みのる

禾乃登その一 土鳩文

 八月に入っても昼間は夏のような暑さです。昼食を済ませ、その後の昼寝も済ませ、まだまだ暑い昼下がり、黒姫と毘沙姫は庄屋の屋敷を後にしました。


「日暮れ時の方がよかったのではないか、黒。今が一番暑い時だ」

「う~ん、そうだけどほうちゃんの用事でどれくらい時間がかかるか分からないからねえ~。夕ご飯までに戻れないとお腹減っちゃうよ」

「そうか、それは困るな。急ごう」


 あっさり納得して足を速める毘沙姫。何よりも食べる事優先なのですから当然の反応です。のんびり歩きたい黒姫も同じように足を速めます。こちらは食事第一ではなく、布姫に早く会いたいという気持ちからでした。


「布ちゃんも毘沙ちゃんみたいに、あたしの屋敷に泊まってくれればいいのになあ~」

「それは無理だ。布は神社か寺にしか世話にならぬからな。先日、庄屋の屋敷に泊まったのは疲れていたからだ。相当な無理をして間渡矢まで来てくれたのだろう。布には酷な事をさせてしまった」


 心苦しそうな口調で話す毘沙姫。文を出して布姫を間渡矢に呼びつけたのは毘沙姫でした。それしか妙案がなかったとはいえ、結局、布姫に余計な苦労をかけさせてしまった事を少し後悔していたのです。


「そんなに気にしなくてもいいんじゃないかなあ、毘沙ちゃん。布ちゃんも近いうちに間渡矢に来るつもりだったって言っていたでしょ。それがちょっと早まっただけだよ」


 いつもと変わらぬ黒姫の前向きな考え方に、毘沙姫の心も少し軽くなります。そうして二人は布姫が久しぶりに間渡矢に来た三日前の出来事を思い出すのでした。


 * * *


 大風が吹き荒れていた二百十日の昼下がり、庄屋の田に現われた布姫を三人は笑顔で出迎えました。恵姫と黒姫にとっては、今年の二月に伊瀬の神宮で出会って以来、ほぼ半年ぶりの再会でした。


「布ちゃん、ありがとう。助かったよ」


 ようやく立ち上がる事ができた黒姫が礼を言いました。畦道に落ちた葦簀は、田から上がった毘沙姫の手によってぐるぐる巻きにされています。


「礼には及びませぬ。人様の役に立つよう力を使うのが私たちの使命。毘沙姫様もそのように命ぜられていたはずですが」

「会って早々、皮肉は勘弁してくれ、布。私とて役に立とうとしたのだ。まあ、でも助かった。礼を言う」

「礼には及ばぬと申しました」

「そうだったな、ははは」


 毘沙姫の笑い声に釣られて他の三人も笑い出しました。恵姫は布姫を眺めながら目を丸くして言いました。


「七月に布に会うのは初めてじゃが、残暑が厳しいこの時期でも法衣と頭巾を身に着けておるとはのう。年中そのような恰好なのか、暑くはないのか」

「見た目ほど暑くはございません。涼風を慕えば涼風が、温風を慕えば温風が、衣の内を吹き過ぎていきますゆえ。お気遣いありがとうございます、恵姫様」


 布姫は風に愛される姫。その気になれば裸体に風をまとうだけで、暑さ寒さを気にせず生きていく事も可能なのです。自分の肌を隠す、ただそれだけのために衣を身に着けているのでした。


「んっ、風が出て来たな。おい、布、こんな所で立ち話もなんだ、庄屋の屋敷に行こう。おまえも長旅で疲れただろう」


 気が付けば周囲には元通りの強風が戻っていました。布姫の力の効果がなくなったようです。


「そうですね。それでは一旦、黒姫様のお屋敷で休ませていただきましょうか」


 布姫の同意を得て四人は庄屋の屋敷へ戻る事にしました。巻いて棒のようになった葦簀を肩に担いだ毘沙姫。風に体を揺らされる事もなく平然と進んでいきます。

 一方の布姫も歩み方は毘沙姫と変わりません。黒姫と恵姫に法衣を掴まれて、やはり風など吹いていないかの如く歩いて行きます。


「布の近くに居ると、これだけの強い風に少しも動じず歩めるわい。大した力であるのう」

「そうですよねえ。案山子の代わりに布ちゃんが田に立っていてくれれば、どんな野分がやって来ても全然怖くないんだけどなあ~」

「庄屋様の全ての田を野分から守ろうと致しますと、恐らく我が身が消滅するほどの力が必要となりましょう。黒姫様はそれを望まれるのですか」


 布姫の言葉に驚く黒姫。慌てて否定します。


「ち、違うよ。いいなあ~って思っただけ。お米も大事だけど布ちゃんの方がもっと大事だからね」

「布は冗談が通じぬ。黒、軽口は慎め」


 毘沙姫から注意です。黒姫や恵姫よりも長い付き合いがあるので、布姫の気質もよく分かっているのでしょう。黒姫は気まずそうに舌を出すと、それからは無駄口を叩かずに歩きました。


 やがて四人は城下町に入りました、町の外れにある庄屋の屋敷まであと僅かです。風が強いので通りの人影もほとんどありません。と、前から一人の若者が足早に歩いてきます。


「おや、鷹之丞ではないか。屋敷に戻ったのではなかったのか」


 次郎吉を使った自動式扇風機の出来が今一つだっただめ、昼前に庄屋の屋敷を退出した鷹之丞がこちらに向かって歩いて来るのです。手には鳥籠を持っています。


「おお、恵姫様、こんな所で会えるとは。しかも、そちらに居られるのは……もしや布姫様ではありませぬか」


 鷹之丞は布姫に会ったことはないはずです。いきなりその名を聞かされて恵姫は怪訝な表情になりました。


「いかにも布じゃ。しかし何故布だと思った。こんな風の強い日にどこへ行く。その鳥籠は何じゃ」


 矢継ぎ早に質問をする恵姫。いきなり三つの問いを投げ掛けられて、さて何から答えようと思案する鷹之丞。その口が開く前に布姫の口が開かれました。


「間渡矢港へ行くのでしょう。私が間渡矢にやって来た事を文で知らせた土鳩。その代わりの土鳩を港に持って行く、その途中なのでしょう」

「そ、その通りでございます。先ほど網元の放った土鳩が我が屋敷に到着、その足に布姫様が船で港に着かれたとの文が括り付けられていたのです。直ちに城へ知らせた後、代わりの土鳩を間渡矢港に届けるため、このように急いでおりまする」


 布姫は長距離を移動する時は専ら海路を使っていました。風を自由に扱えるため風待ちをする必要がなかったのです。そのために自分専用の帆かけ船も所有していました。今日はその船で間渡矢港まで来たのです。


「ほほう、土鳩を使った文の遣り取りが初めて役に立ったようじゃのう。さりとて時間がかかりすぎておるのではないか。布は既に城下に入っておるのじゃぞ。土鳩を使わず走って知らせた時と、大して違わぬではないか」

「はい、それは拙者の手落ちにございます。実は土鳩は昼前にはとっくに我が屋敷に到着しておりました。しかし、その頃、拙者は庄屋様のお屋敷にて扇風機試運転の真っ最中。土鳩到着に気付きました我が母は少々おっとりした性分ゆえ、拙者にそれを知らせたのは昼の食事が済んでから。その結果、かように対応が遅れる事と相成りました」


 どうやら土鳩文を効率よく遣り取りするためには、まだまだ改善すべき点が多そうです。普段ならば鷹之丞かその父のどちらかが屋敷に居るので、こんな事態は起こらなかったはずです。


「これよりは拙者も父上も不在となる場合は、誰か別の者に土鳩の番をさせる事に致しましょう。それにしてもさすがは伊瀬の姫衆随一の知恵者と名高い布姫様。初めて会った拙者の姿を見ただけで土鳩文を見破るとは、恐るべき洞察力とお見受け致します」

「毘沙姫様からの文によって、土鳩文に関してはその配置場所も含めて斎主宮でも把握しております。その知識があれば、この程度の推測は造作もないこと」


 簡単に言ってのける布姫を前にして、これならば今の間渡矢の閉塞状況もすぐに解消されるに違いないと、内心密かに期待する毘沙姫ではありました。

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