第三十八話 ひぐらし なく
寒蝉鳴その一 法師蝉
朝日に照らされて橙色に染まる海。ひと頃の暑さはようやく落ち着き、吹く風に涼しさを感じる浜辺。釣り道具を片付け終わった恵姫は毘沙姫の肩に手を当てました。
「帰るぞ、毘沙。起きろ」
肩を揺すられて目を開ける毘沙姫。どうやらまた岩に腰掛けたまま眠ってしまっていたようです。大きく伸びをすると同時にくしゃみが出ました。
「くしゅん、七月も半ばになって朝は涼しくなってきたな。そろそろ朝釣りは仕舞いにしたらどうだ」
「言われずとも今日が最後じゃ。盆が明ければ朝の稽古事が始まるからのう。稽古の前に釣りをするのはやめろと磯島に言われておるのじゃ」
明日からは盆休み。盆の間は殺生を
「ほれ、これを持ってくれ」
眠そうにしている毘沙姫に魚籠を押し付ける恵姫。今日もなかなかの釣果のようです。
二人は浜を出ると城へ向かう山道を登り始めました。朝日を浴びても風は涼しく感じられます。遠くからは静かな蝉の鳴き声も聞こえてきます。
「
「いや違うぞ、毘沙。他の蝉の声が大きくて目立たぬが、
「おや、そうなのか」
「涼しくなって他の蝉が死に絶えても彼奴はしぶとく鳴いておるから、夏の終わりと蜩を結び付けて考えてしまうのであろうな。秋の蝉と言えばやはり法師蝉じゃ。鳴き声を聞いておると如何に鯛が好きかよく分かるからのう」
「鯛?」
毘沙姫は聞き間違えたのかと思いました。蝉と鯛がどう考えても結びつかないからです。
「おい、恵、法師蝉と鯛は関係ないだろう。何をどうすればそんな理屈になるんだ」
「関係ない、じゃと」
恵姫は驚いた顔で毘沙姫を見ています。毘沙姫も驚いている恵姫に驚いてしまいました。
「毘沙よ。法師蝉の鳴き声を聞いた事があるのか。『つくづく美味しい、つくづく美味しい』と鳴いているではないか」
いや、あれは「つくつく法師」と鳴いているのだろうと毘沙姫は反論したかったのですが。「つくづく美味しい」と聞こうと思えば、そう聞こえなくもありません。
「ま、まあ、そう鳴いているとしても、その鳴き方と鯛とどのような関係があるのだ」
「まだ分からぬのか。法師蝉は最後に『美味しいよお、美味しいよお、美味しいよお、鯛いいいい~』と言って鳴き止むではないか。蝉の癖に鯛が好きとは見上げた美食家であるな」
毘沙姫の眉間に皺が寄りました。「美味しいよお」は認めるとしても、最後の「鯛いい~」は少し苦しいのではないか、そう言おうとした時、法師蝉の鳴き声が聞こえてきました。
「おう、丁度うまい具合に鳴き始めたようじゃ。毘沙よ、この機会にじっくり鳴き声に耳を澄ますがよいぞ」
毘沙姫は立ち止まると聞こえてくる蝉の声に意識を集中させました。不思議なもので恵姫の言った通りに聞こえてきます。
「おかしいな……」
首を傾げる毘沙姫。これまでは確かに「つくつく法師」と聞こえていたはずなのです。それなのに今は「つくづく美味しい」としか聞こえません。最後の引きずるような鳴き方も、単純に「じいい~」と聞こえていたはずなのに「鯛いい~」と聞こえてしまいました。
「どうじゃ、わらわの言った通りに鳴いておろう」
得意顔の恵姫です。その通りなので認めない訳にはいけません。毘沙姫は「ああ」と返事をすると足早に歩き始めました。
「狐に化かされるってのは、このような事を言うのだろうな。一旦思い込んでしまうと、聞こえない言葉が聞こえ、見えない物が見えるようになる。恵に化かされた気分だ」
「なんじゃ毘沙。何か言ったか」
「いや、独り言だ。早く帰ろう。腹が減った」
毘沙姫にそう言われて急に空腹を感じ始める恵姫。これもまた言葉が人を化かしているのでしょう。頭の中が朝食の事で一杯になってしまった二人は、それ以降は何も言わずに城を目指して歩き続けました。
間渡矢城のお盆休みは明日から始まります。一年のうちで城に居る者が最も少なくなる時期です。正月休みも人が少なくなりますが、年始の客が訪問したり、正月料理が振る舞われたり、御祝儀が配られたりするので登城する者がそれなりに多いのです。
しかしお盆休みは訪れる客はほとんどおらず、これといった御馳走も祝儀もありません。その上、今年は殿様が江戸に居るので余計に少ないのです。正月に恵姫と羽根突き勝負をやった住み込みの女中たちも実家に帰りますし、城の警護も一人だけが務める事になります。
そのためお盆の間は恵姫の食事等の世話のために、老女がひとり城下からやって来て、住み込みで働いてくれる事になっていました。また警護が手薄になるため、お盆が明けるまで毘沙姫が間渡矢城で寝泊まりしてくれる事になったのです。
「盆を間渡矢で過ごすのは初めてだな。恵はいつも何をして過ごしているのだ」
朝食後のお茶を飲みながら毘沙姫が尋ねました。まだ食べている途中の恵姫は口に物を入れたまま答えます。
「むぐむぐ、何もしておらぬ。釣りに行けぬとなると書でも眺めるしかないが、もぎゅもぎゅ、絵草紙は全て磯島に取り上げられてしまったからのう。くちゃくちゃ、こうなると今年の盆はそなたと一緒に寝て暮らすしかないようじゃ、もっきゅん、くは~」
食事の最中に、恵姫に話し掛けるような真似は、二度としないでおこうと心に決める毘沙姫です。正面に座っている磯島も、もはや諦めたのか何も言いません。
「おお、そう言えばお福はどうするのじゃ。実家に帰るのか、磯島、ずずっ」
ようやく食事を終えた恵姫がお茶を飲みながら尋ねます。行儀の悪さに眉をひそめつつ磯島は答えます。
「いえ、お福はお盆休みも城に留まります。帰る所はないようですから」
「……そうか」
磯島の言葉は恵姫の胸にチクリと刺さりました。考えてみればお福の素性について恵姫は何も知らないのです。帰る所がない……それは身を寄せる事のできる縁者が一人も居ない、という意味です。お福の置かれている境遇が如何に哀れか、恵姫は思い知らされた気がしました。
「良かったな、恵。お福が居れば多少は退屈も紛れるだろう」
毘沙姫もまた同じ思いを抱いたはずです。それでも前向きに考えようとしてこんな言葉を口に出したのでしょう。如何にも毘沙姫らしいと恵姫は思いました。
「本日は黒姫様もお出でになるはずです。お福も交えてお盆の準備をなさいませ。それでは私はこれで」
磯島は頭を下げて座敷を出て行きました。代わりに女中がやって来て朝食の膳を下げます。明日からはこの仕事も通いの老女の役目になります。
「おい、恵。盆の間だけ来る手伝いの婆さんってどんな奴なんだ」
「婆さんとは口が悪いぞ、毘沙。わらわですら様を付けて『
「大婆婆様? まさか先代の女中頭ではないだろうな。磯島を一人前の女中頭に育て上げた間渡矢の生き神様と言われている……」
「なんじゃ、知っておるのか。そのまさかじゃ。わらわもよくは知らぬのじゃが、なんでも若い頃の厳左と薙刀一本で互角に渡り合った、敏腕にして豪腕、向かう所敵なしの女傑であったと聞いておる」
「そ、それは楽しみだな、ははは」
磯島の口喧しさにさえ辟易させられているのです。そんな婆さんが食事や寝床の世話をしてくれるのなら、呑気に寝転がってもいられぬだろうと、少々不安になる毘沙姫です。
「ああ、心配せずともよいぞ、毘沙。大婆婆様は百歳を超えておる。今ではただの人の好い老女じゃ」
「そ、そんな年寄りなのか」
「なんでも昔、大阪の城に大砲を撃ち込む家康公の戦いぶりを、弁当を持って見に行ったと申しておったからのう。『来年のお盆は生身ではなく霊魂となってこの城に来るかもしれませぬのう、ほっほっ』などと言いつつ、毎年元気に城にやって来ておるわい」
「そうか。ならばこちらも
こんなに行儀の悪い恵姫ですら毎年呑気に過ごせているのですから、さして気遣う必要もなさそうです。ひとまず胸を撫で下ろす毘沙姫ではありました。
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