寒蝉鳴その二 倒れたお福
朝の涼しさが嘘のように暑くなり始めていました。朝食が済んで腹が膨れた恵姫と毘沙姫はぐっすりと眠っています。眠っていれば誰かが起こしに来るのが間渡矢城のお約束。さっそく縁側から声が掛かりました。
「めぐちゃ~ん、持って来たよ~」
黒姫です。しかし返事はありません。軒下に立て掛けてある葦簀をずらして、もう一度声を掛けます。
「めぐちゃ~ん、寝てるの~。毘沙ちゃ~ん、起きて~」
やはり返事がありません。雁四郎や毘沙姫のような威勢のいい掛け声ならば嫌でも目が覚めますが、黒姫の声は陽気ではありますが耳に心地良いので、そのまま眠り続けられるのです。
「玄関にお回りください」
気が付けば縁側に磯島が立っていました。恐るべき地獄耳と勘の良さです。黒姫は「あ、はい」と言うと縁側を離れて玄関へと向かいました。それを見届けた磯島は座敷へ戻り恵姫に声を掛けます。
「恵姫様、いつまで寝ておられるのです。黒姫様が参られましたよ」
「ううん、もう飯か」
目をこすりながら起き上がる恵姫。磯島の声はさして大きくもないのに一言だけで目が覚めます。これは長年に渡る磯島との攻防の中で身に付いた条件反射なのです。磯島の声を無視して眠り続けると、御器齧を首筋に這わされたりするので、いつの間にか磯島の声には無意識の内に体が反応するようになってしまったのでした。
「まだ昼にはなっておりません。黒姫様が参られたのです。いつものように盆棚を作りに来てくれたのですよ」
「ああ、そうじゃった。おい、毘沙、起きろ。やる事が出来たぞ」
盆棚は帰って来る精霊を迎えるために作られる棚です。野菜と
「めぐちゃ~ん、お福ちゃんも手伝ってくれるって」
野菜が盛られた籠を持って黒姫が座敷に入って来ました。続いてお福、その顔は少しやつれて見えます。どうやら夏風邪がまだ治りきっていないようです。
「お福、具合が悪いのなら無理せずともよいのじゃぞ」
恵姫にそう言われてもお福は首を横に振ります。一人で居るよりも皆と一緒に何かをしていたいのでしょう。
「では、私はこれで下がらせていただきます。ああ、黒姫様。暑い中ご苦労さまでした。後でお茶をお持ちしますからね」
「はい。ありがとうございます」
籠一杯の野菜を持って山道を登ってきたのですから、黒姫も大変だったはずです。磯島の労いの言葉が本当に嬉しく感じられた黒姫は、座敷を出て行く磯島に小さく頭を下げました。
「おう、黒。来ていたのか。ほう、美味そうな胡瓜だな。どれ」
ようやく起きた毘沙姫がすかさず籠の胡瓜に手を伸ばしました。慌ててその手をはたく恵姫。
「何を寝惚けておるのじゃ、毘沙。これは精霊馬を作るために黒が持って来てくれたもの。釣りに行く前に話したであろうが」
「ああ、そうだったな。済まん、忘れていた。黄色い胡瓜も美味いが青い胡瓜もなかなかいけるんでな」
「ふっ、武家においては胡瓜など口にせぬぞ。切ると徳川家の葵御紋が出て来るからのう。瓜を食うなら真桑瓜じゃな。ほのかな甘みが堪らぬ」
「ちょっと二人とも。お喋りはそれくらいにして早く作ってください」
自分よりも野菜の方を気に掛ける二人に、黒姫はご機嫌斜めです。磯島の心遣いに比べると、この二人の無神経さは月とスッポンと言えましょう。
黒姫に注意されてさっそく精霊馬作りに取り掛かる恵姫と毘沙姫。しかしこの二人が揃うと碌な事にならないのは、先日の生花のお稽古で証明されています。女中が持って来たお茶をすすりながら、まずは恵姫がふざけ始めました。
「毘沙、これを見よ。どう見ても猪であろう。籠の底にへばり付いていた葉を耳に見立てて二枚差し込み、苧殻を短くして猪の足にしたのじゃ。茄子のヘタが猪の鼻そっくりじゃ」
本来ならば茄子で作るのは牛です。故人の霊にゆっくり帰ってもらうよう歩みの遅い牛を作るのです。それなのに猪突猛進の猪を作っては本末転倒もいいところです。
「おう、やるな。ではこちらは……どうだ。流鏑馬に見えるだろ。小さな胡瓜で騎手を作って馬に乗せ、更に胡瓜の蔓と苧殻で弓矢を作り持たせてみた」
馬に騎手を乗せては故人の霊が乗れません。これまた完全に本来の目的を忘れているようです。
「おおう、見事な出来ではないか。これは負けられぬな。こうなればわらわは……」
「ゴツン、ゴツン」
黒姫が二人の頭を叩いています。普段は小槌で叩くのですが拳骨で叩いています。
「あたしが丹精込めて作った胡瓜と茄子で何を遊んでいるんですか。めぐちゃんも毘沙ちゃんも、ふざけていないでちゃんと作って下さい。お福ちゃんを見習って……ちょっと、お福ちゃん、どうしたの!」
黒姫の声を聞いて恵姫と毘沙姫はお福を見ました。茄子を握りしめたまま畳の上に倒れています。
「お福!」
「ど、どうしたのじゃ、お福!」
素早く駆け寄る三人。毘沙姫がお福の額に手を当てました。
「ひどい熱だ。どうしてこんなになるまで……」
驚きのあまり言葉が途切れる毘沙姫。お福の額には汗が滲み、息も苦しそうです。
「お福、しっかりせよ。暑いのか、喉が渇いたか、水が欲しいか」
「お福ちゃん、やだっ。手も顔もすごく熱い。どうして言ってくれなかったの」
恵姫も黒姫もお福の容態の深刻さが分かって
「恵、表に行って医者を呼ぶように厳左に伝えろ。黒、厨房へ行って水と手拭いを用意させろ」
それだけを言うと毘沙姫はお福を横抱きにして立ち上がりました。
「私は磯島に伝える。二人とも急げ」
お福を抱いたまま座敷を出て行く毘沙姫。もう精霊馬作りなどやっている場合ではありません。恵姫と黒姫も慌てて座敷を飛び出すと、毘沙姫に言われた通り表御殿と厨房へ向かいました。
こんな時の厳左や磯島ほど頼りになる者は居ません。すぐさま城下から御典医がやって来ました。お福は小座敷に寝かされて、濡れた手拭いを頭に乗せてもらっています。
「夏風邪がひどくこじれているようですな」
恵姫たち同様、医者の見立てもやはり風邪でした。
「このまま養生されるがよいでしょう」
医者はそれだけを言うと腰を上げました。磯島が引き留めます。
「お待ちください、御典医殿。良く効く薬などを処方していただけませぬか」
磯島の言葉に医者は首を横に振りました。
「引き始めならばまだしも、ここまでこじらせますと効く薬はございません。頼りになるのは己の力のみです。手厚く看病しておあげなさい。熱が下がり回復の兆しが見えましたら、滋養のある物を食べさせるがよいでしょう」
医者は済まなそうにそう言うと小座敷を出て行きました。無念とも諦めともつかぬ磯島の表情。医者に尋ねるまでもなく薬のない事は分かっていたのです。これまで同じように高熱を出した人々を見たり、また自分自身も熱を出したりした経験から、結局、治せるのは自分の体の力だけであると分かっていたからです。大切なのは早い段階でそれを治す事。しかしお福の場合は病の重さに気付くのが余りにも遅すぎました。
「私の責任でございます。お福の様子がおかしいと感じながら、お役目を与えていたのですから。無理にでも休ませるべきでした。本当に申し訳ございません。お福、辛かったでしょう。もっと早く気付いてあげるべきでしたね」
絞った手拭いをお福の額に乗せながら、優しい声で自分の非を詫びる磯島。そんな磯島に気を遣ってか、苦しい息遣いの中、上気した顔に笑みを浮かべるお福ではありました。
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