涼風至その五 与太郎の願い

 奥御殿の座敷には静寂の時が流れていました。お馴染みの姫三人と与太郎。そして磯島を始めとする女中三人、計七人が食後の余韻をまったりと味わっているのです。


「美味しかった。どうしてだろう。素麺をこんなに美味しく感じたのは初めてだ」


 ぼそぼそとつぶやく与太郎。それはまた他の六人も同じでした。これほどに美味なる素麺をこれまで誰一人食べた事はなかったからです。


「お与太様も初めて食べられたのですか」


 磯島に訊かれて与太郎は首を振りました。


「ううん、これに似た素麺は何度も食べた事があるんだ。でも今日食べたのは今までとは全然違う。まるで別物だよ」

「ふっ、ならば作り方が悪かったのじゃろう。此度は井戸の水ではなくわざわざ城山の麓に湧き出る清水を汲んで茹でたのじゃ。麺つゆもその清水で作っておる。お与太如き料理下手に作られた素麺は実に気の毒であったろうな」

「水かあ……」


 考えてみれば素麺を茹でるとその重量は三倍ちかく増えます。増えた分は水、つまり水を食べているようなものです。与太郎が自分で茹でる時は水道水をそのまま使い、市販の麺つゆも水道水で薄めて食べているのです。水の美味しさが素麺の美味しさに影響を与えるのなら、与太郎がこれまで美味しい素麺を食べて来なかったのは当然なのかもしれません。


「これからはペットボトルの水で茹でてみようかなあ」


 また新しい発見をしてちょっと嬉しくなった与太郎です。


「こほこほ」

「お福、大丈夫ですか」


 御馳走の余韻に浸っていた六人はお福の咳で我に返りました。食べている時も具合が悪そうだったお福。思ったよりもお福の夏風邪は重い様子です。


「無理せずともよいぞ、お福。一緒に東の浜へ竹笹を流しに行こうと思っておったが、辛いのならば早々に休むが良い」


 お福は首を横に振りました。大丈夫と言いたいのでしょうが、薄暮の中で見るお福の顔色は、とても大丈夫には見えません。


「いいえ、そなたはもう部屋に戻りなさい。片付けは私たちで致します。さあ、膳を下げますよ」


 磯島の言葉には逆らえません。お福は会釈をして座敷を出て行きました。残った小柄女中と磯島が膳を片付け始めます。黒姫が心配そうに言いました。


「お福ちゃん、顔色悪かったね。早く良くなるといいなあ」

「精の付く物を食って一日寝ていれば、夏風邪などすぐにどこかへ行ってしまうさ」

「おい、毘沙。それが万人に当てはまると思ったら大間違いじゃぞ。お福は繊細な娘じゃからな。それよりもお与太、いつまで呆けた顔して茶を飲んでおるのじゃ。お主も少しは心配してやらぬか」


 いきなり話を振られてお茶を吹き出しそうになる与太郎です。


「ぶぶっ、いや、僕も心配してるよ。風邪薬とか持って来たいけど乾電池が駄目だったからなあ。漢方薬なら大丈夫かもしれないけど、この時代の薬とほとんど同じだろうし、う~ん」

「役に立たぬのう。せっかく作った扇風機も毘沙が回しただけで壊れてしまったし。あとで鷹之丞に直してもらわねばな」


 与太郎は面目ないという表情で頭を掻きました。しかし扇風機が壊れたのは作りが杜撰だったからではありません。毘沙姫の馬鹿力のせいです。

 構造は簡単なので普通に取っ手を回しているだけなら壊れたりしないはずなのです。しかし毘沙姫の回す速さは与太郎の想像を超えていました。取っ手は外れ、心棒は傾き、団扇は破れて吹っ飛んでしまったのです。回していると言うよりは破壊しているという表現がぴったり来る毘沙姫の扱い方でした。


「えへへ、ごめんなさい。それから毘沙様、お願いですから扇風機には二度と触れないでくださいね」


 こんな時でも素直に謝る与太郎です。


 やがて日が沈み間渡矢城にも闇が降りてきました。四人は外に出ると立ててあった笹竹を肩にかつぎ、東の木戸口へ向かいます。これから浜へ笹竹を流しに行くのです。


「天の川、ぼんやりとしか見えないね」


 南の空には上弦の月がしっかりと光っています。綺麗な星空を期待していた与太郎は、少しがっかりしているようです。


「七夕の夜は必ず上弦の月となる、仕方なかろう。今は弓のように見える半月も沈みかけの時には舟の形になる。その舟に乗って織姫は彦星に会いに行くのじゃ」

「あれ、カササギって鳥が川に橋を架けてくれて、それを渡って彦星が織姫に会いに行くって本で読んだ気がするけどなあ」

「それは公家の七夕じゃ。おのこがおなごを訪ねる通い婚など今どき流行らぬわ。武家は嫁入りが基本。よって、舟に乗って会いに行くのは織姫なのじゃ」


 与太郎はもう一度空を見上げました。そこにあるのはただの光の点にすぎません。それなのに人々はこれらの点に意味を持たせ、物語を創造し、七夕などという行事さえ作ってしまったのです。そしてこの時代でも与太郎の時代でも、何の根拠もない習慣を楽しんでいるのです。人の世というものはつくづく面白いものだと思わずにはいられませんでした。


「亥の刻頃には月が沈む。そうなれば天の川ははっきりと姿を現す。七夕の始まりじゃ」


 その時刻までは居られないなあと与太郎は思いました。こちらに来たのが多分朝の八時ごろ。そろそろ帰る時刻が近付いているはずです。いつ帰る事になってもいいように、既に女中の着物は脱いで元の服に戻り、持って来た布袋を背負って奥御殿を出てきているのです。


「与太郎、おまえ、短冊に何を書いたのだ」


 提灯を持って先頭を歩いている毘沙姫が尋ねました。奥御殿を出る前に与太郎が「僕もお願い事をしたい」と言い出したので、短冊に書かせてやったのです。

 書いている途中、恵姫と毘沙姫は何度も覗き見ようとしたのですが、与太郎は頑なに見せようとしませんでした。そしてまだ吊るさずに持って歩いているのです。


「ふふふ、秘密」


 与太郎は笑って答えようとしません。毘沙姫も訊いても無駄だと思っていたのでしょう。それ以上は何も言いませんでした。

 山を下りるにつれ波の音が大きくなってきます。やがて浜に着くと与太郎は竹笹をかついだまま砂浜を走り出しました。波打ち際まで走り、草履を脱いで足を浸しています。


「海で迎える七夕かあ。こんなの初めてだよ。青一色の浜辺もいいけど、黒一色の浜辺もいいものだね」


 与太郎は笹竹を砂に突き刺すとズボンのポケットに手を入れました。ようやく短冊を吊るすつもりなのでしょう。今度は覗き見ようとはせずに、黙って好きにさせている恵姫たち。

 しかしその短冊は吊るされる事なく風に吹かれて砂浜に落ちました。先程まで与太郎が居た場所には笹竹だけが寂しく立っています。


「ほうき星が沈んだか。短冊を吊るしてから帰ればよいものを……世話の焼ける奴じゃ」


 三人は笹竹に近付き、与太郎が残していった草履を毘沙姫が、短冊を恵姫が拾い上げました。


「やはりな、思った通りじゃ」


 恵姫が手に取った短冊を黒姫と毘沙姫が覗き込みます。そこには、


『お福さんの風邪が早く治りますように 与』


 と書かれていました。三人はクスリと笑い合います。


「別に隠すような願いでもないのう……おや、裏にも何やら書いてあるようじゃぞ」


 もう一度短冊を覗き込む三人。その顔には笑みと、それから若干の哀惜の色が浮かびました。

 三人は与太郎の短冊を笹竹に吊るし、黒姫が担いできた庄屋の笹竹と共に海に浮かべました。


「引け!」


 恵姫が力を使うと海には引き潮が起こりました。その流れに乗って二本の笹竹は沖へと運ばれていきます。


「短冊には叶えられぬ願いを書くものじゃ。そうであろう毘沙」

「ああ。やはり与太郎も分かっていたのだな」

「一年に一度の出会いと、一生に一時いっときの出会い……どちらも辛い出会いだよねえ~」


 二本の笹竹は月明かりに照らされた海原を、沖へ沖へと流れて行きます。

 吊るされた沢山の短冊。ほのかな月光の中、その中の一枚が枝から離れ、願いよ天に届けとばかりに空へ舞い上がりました。

 風に吹かれて漂う短冊、そこにはこんな願いが書かれていたのです。


『これからもずっと、めぐ様たちと楽しい時がすごせますように 与』

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